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兄の帰還

 陸郎は肩で息をしたまま、一気に山道を駆け下りた。そして横から突然に、木刀一本を手にした姿で、浪人の前へと立ちはだかった。


「待たれよ」

「――おぬしは……先の…」


 突如現れた陸郎の姿に驚きながらも、壮年の浪人はふてぶてしい表情で陸郎を睨んだ。


「この先で百姓の夫婦が斬られた。貴殿の仕業に相違あるまい?」


 陸郎は肩で荒い息を吐きながら、壮年の浪人を問い詰めた。浪人はバツの悪そうな顔をしながらも、悪びれる様子のない薄笑いを浮かべて口を開いた。


「頼む、ここは武士の情けで見逃してはもらえんか。拙者は元、遠江掛川の浅倉家の家臣、中西頼兼と申す者。三年前に主家が改易となって以来、流浪の身。路銀にも困り果て、乱暴な真似をしてしまった…。

 しかし貴殿とて他人事ではないはず。心中、察してはもらえまいか。それに、たかが百姓のことではないか? 頼む、若いの」


「たかが……百姓と…?」

「そうだ、百姓など侍のために存するようなもの。少しばかり減っても、そう文句はあるまい」

「――黙れ!」


 陸郎はその卑しい薄ら笑いを打ち払うように声をあげた。


「侍などおらぬでも百姓は暮らしていける。……が、百姓がおらねば侍は飢えるのみ。我が国の民を傷つけた罪、見過ごしにはできん。おとなしく私と縛につき、我が国の裁きを受けてもらおう」


 陸郎がそう言い放つのを聞くと、浪人は薄笑いを止めて、底光りする目に鈍い光を放ち始めた。


「……よくも小僧が、わしに説教など。おい若造、貴様は戦に出たことはあるまい? わしは大阪の役で初陣をかざり、夏の陣では首級三つをあげたのじゃ。戦場(いくさば)ではな、殺す、盗む、犯すなど当たり前のことよ。貴様のような綺麗ごと、戦を知らん小僧のたわごとじゃ」


「……今は戦乱の世でもなく、ここは戦場でもない。乱世では許されたことでも――今は私が許さん」


 陸郎は怒気を含んだ声で、静かにそう告げた。浪人は黒く日焼けした顎をひと撫ですると、ゆっくりと刀の柄に手をかけた。


「貴様、人を斬ったことがあるまい? 戦場(いくさば)を知らぬおぬしが、刀の前に立てるかな……」


 浪人はすらりと刀を抜き放つと、ピタリと構えを据えた。手の震えもなく、腰も肝も据わっている。首級三つ、というのもあながち嘘ではなさそうだった。


 陸郎はわずかに身体を左に開きながら、木刀を正眼に構えた。

 二人が円を描くように、しばし見合った後、浪人は刀を耳横に立てて八相に構えなおした。


「ヤアァーッッ!」


 突如、浪人が大声で威勢をあげた。慣れない者ならその気迫だけで震え上がったかもしれない。これで敵を威圧して戦う、戦場で生き延びるために身につけた野生の剣法に違いなかった。


 陸郎も一瞬、その気勢の迫力に気を呑まれた。と、その瞬間、浪人が「キェイッ」とかけ声とともに袈裟がけに斬

りつけてくる。


 わずかな気後れを逃さない攻撃を、陸郎はなんとか後退して木刀で受け流した。気迫にたがわず、その剣圧もまた強い。真剣がかすめた木刀の鎬部(しのぎぶ)から、薄く削られた木片が飛び散った。


(――いかん)


 陸郎はふたたび間合いをとって、構えをなおしながら背中に冷たいものを感じた。


(まともに受ければ、木刀ごと斬られる――)


 木刀で真剣とわたりあう不利は明らかだった。陸郎の焦りを見取ってか、浪人は微かに口元を歪ませる。


「キェイッ」


 浪人が大上段に振りかぶり、再び斬りつける。その太刀筋に迷いはない。陸郎は降りかかってくる剣を払いざま横に動き、なんとかその切っ先から身をかわした。

 浪人が再び口元に薄笑いを浮かべる。


「……どうした、青二才。わしを許さんのじゃなかったのか? 今さら命乞いをしても、もう遅いぞ。わしはお前を斬ることに決めた。――やはり武士は、人を斬ってこその武士よな。戦なき世なぞ、武士を腐らせるだけよ」


 浪人はそううそぶくと、不意に笑いを止めて陸郎を睨みつけた。今度は刀を肩に担ぐような、特殊な構えを見せる。


(初太刀で斬るつもりだ――)


 そこから防御を考えない、渾身の一撃がくる。そう予想できた。仮にまともに受けたとしたら、木刀ごと両断される恐れがある。


 陸郎は襲い来る一撃に目を凝らした。

 と、突然浪人は、後ろに引いていた足を蹴り上げて、砂埃の目潰しを陸郎に浴びせた。


「むぅっ!?」


 陸郎はたまらず一瞬、目をつぶる。その刹那、襲いくる剣風のうなりを感じて、陸郎は後方に飛び退った。


(――脚!?)


 浪人の剣は意外にも、後方に退いた陸郎の袴をわずかに切り裂いた。もし、袈裟に切りつける剣を、木刀を掲げて受けようとしていたら、膝から下が落とされていたに違いない。


「ダァーッ!」


 間髪いれず浪人は、切り下げた切っ先を返して突きを繰り込んできた。陸郎はからくもそれを木刀で受け流す。しかし浪人はそこから刃を返して陸郎に向け、左手を切っ先近くの峰に添えて、木刀の上から刀を押し込んできた。


「むぅぅぅ――」


 浪人はそのまま凄い力で押し込んでくる。陸郎はたまらず後ろに下がった。と、浪人は陸郎を押し込みながら、左足で陸郎の足を引っ掛けた。


「――うわっ」

「やぁっっ」


 足をとられて地面に倒れ込んだ陸郎を、浪人はすかさず刀で突き刺そうとする。陸郎は身体を回転させて難を逃れ、慌てて立ち上がるとようやく木刀をまた身構えた。


 心臓が大きく脈打ち、息も荒く、膝から下の力が抜けそうだった。

 目潰し、脚斬り、押し込みと絡み技――どれも陸郎が学んだ正規の剣術にはない、荒っぽい野武士戦法だった。陸郎は自らの死の危機が間近にあったことに戦慄し、背中に寒気が走るのを感じた。


「よく逃げたな。わしの連続技を逃れたのは、お前が初めてだ……」


 浪人はそう言うと、嬉しそうににぃと笑った。

 荒い息を吐きながら、陸郎は身を硬くした。


(――斬られる)


 その時、遠くからかすかに馬の駆け足音が聞こえてきた。

 二人は互いに見合ったまま、近づいてくるその気配に耳をすませた。馬の足音はやがてすぐ傍まで近づいて、その歩みを止めた。


「陸郎、大丈夫か?」

「――達兄…」


 馬上にあるその姿は、紛れもなく、そよの兄である春日達彦その人であった。

 達彦は精悍な顔立ちを陸郎に向けた。


「よく木刀一本で持ちこたえたな、陸郎。あとは任せるがよい」


 そう言うと達彦はひらりと馬から降り、臆した様子もなく、見合っている二人の傍に歩み寄ってきた。


「わしが相手になろう」


 達彦は浪人に一瞥をくれると、すらりと腰の刀を抜き放った。

 達彦は刀を右下段に落としたまま、静かな足取りで浪人に詰め寄る。新たな相手の登場に、浪人は口をきくこともせず、刀を中段に構えて向けた。


 二人は無言で睨み合った。

 陸郎はその様子を、一歩引いたところで固唾を呑んで見守った。


「キェーィッ」


 浪人が激しい気勢をあげる。と、達彦が無造作に前に出た。浪人はつられるように、達彦に斬りかかった。

 一瞬遅く、達彦は右下段から剣を廻して左斜めに鋭く斬り降ろした。 浪人の剣をかわしたとも見えないほど、わずかな体捌きであった。


 左のこめかみから顔を斜めに血線が走ると、浪人は目を見開いたままばったりと前のめりに倒れ込んだ。

 陸郎は心の深い衝撃を抜くように、長い息を吐いた。


   *


「江戸でのお勤め、ご苦労さまでした」


 自宅に戻り身なりを整えた陸郎は、半刻ほど後には春日家を訪れていた。


「うむ。陸郎も息災ないようで何よりじゃ」


 春日達彦は鷹揚に頷いてみせた。


「先ほどは……危ういところを助けていただき、ありがとうございました」


 陸郎は深々と達彦に頭を下げた。達彦はそれに軽く笑って応えた。


「はは、そう固くなるな、陸郎。兄が弟を助くるは当たり前のことじゃ。わしは今でも、お前を弟と思っておる。以前と変わらず接してくれればよい」

「達兄…」


「徳川様が幕府を開いて三十余年。その間、徳川様は厳しく大名家を取り締まられた。減封や改易、取り潰しになった家も少なくない。そのような主家の憂き目に、望まぬ浪人生活を強いられた侍が大勢出た。世は太平になり、そういう者が再び仕官するのも難しくなっておる。中には徒党を組んで山賊になったり、盗賊になったりする者もおる。あの浪人も、放っておいてもそういう場所に身を落としたであろう……」


「あの者は、朝倉家の家臣、中西とか名乗っておりましたが」

「うむ。浅倉家といえば、三年前に大政参与の松平忠明様に預けとなり、大名家ではなくなったはず。家臣も多くは野に下ったのだろう」


「かくいう我らが主家である佐久間家も、先代の安長様がお亡くなりになったとき、世継ぎの安次様が幼少ということもあり、実は取り潰しになる恐れもあったと聞き及んでおりますが」

「うむ、そんな時もあった。幸い、父上の働きかけで事なきを得たのじゃ」


 今の飯山城の君主である佐久間安次は、三年前に先代安長が死去したため、僅か三歳で家督を継いだ。無論、自ら執政をできるはずもなく、国政は達之丞をはじめとする家老陣で取り仕切られていた。


「父上様は、一緒にはお戻りにならなかったのですね」

「うむ、父上は江戸からの客人とともに戻ってくることになっておる。客人は対抗試合の観覧をご所望じゃ。わしは一足速く、その準備にかかるのが役目じゃ」

「ご客人が…観覧を――」


「ご客人は惣目付の柳生但馬守宗矩様である。但馬守様は将軍家兵法指南役を長く務められたが、将軍家光公も幼少の頃からのその教えを受け、剣術だけでなく、まつりごとにも通じる心得を深く教授された。それもあって家光公はことのほか武芸が好きで、各地より優れた腕前の武芸者を求めておるという。

 惣目付様は、お忍びで当地に参る。今度の試合で目に留まる者あらば、江戸での御前試合に呼ばれるようなこともあるやもしれん」


「達兄も試合なさるのですね?」

「いや、わしは出ぬ」


 達彦はきっぱりと断言した。


「わしは客人滞在中の世話役も申し付かっておる故、今度の試合には出ぬことにした。陸郎、その分、お前が充分な働きをするのじゃぞ」


 はっ、と短く応えつつ、陸郎は平伏した。


(私より達兄のほうが明らかに技量に勝るのに……)


 陸郎の胸のうちにそんな思いがよぎった後、脳裏にふと先ほどの達彦の姿が浮かび上がってきた。

 瞬時にして敵の剣線をかわす見切りと体捌き。躊躇なく相手を切り伏せた心胆。


(――達兄は、何処かで人を斬っている…)


 江戸に行っていた二年の間に、達彦は何処か陸郎の知らぬ雰囲気を備えて帰ってきた。伏せた顔のすぐ向こうにいる達彦の存在に、陸郎は何か得体の知れない不安を感じて、我知らず身を固くした。


   *


 春日家を退出した陸郎は、その足で堀田左近の家へ向かった。

 堀田左近は近所でもあり、陸郎と同い年ということもあって幼い頃から親しくしてきた友であった。ともに同じ道場で腕を磨き、その技を競い合ってきた。


 堀田家は春日家や久澄家に比べれば家禄は低かったが、陸郎はそんな事を気にせず、わけへだてない友情をもって左近に接していた。


「左近、帰ったか」


 陸郎が表から声をかけると、「おお、陸郎か。こっちだ」と応ずる声が庭のほうからした。


 堀田左近は四年前に二親を流行り病で亡くして以来、独り住まいである。陸郎のところにも来ている伝蔵が手伝いに来ており、左近が達彦の後から江戸入りした一年間は、定期的に屋敷の状態を整えていた。


 勝手知ったる陸郎は、声のする庭のほうへと屋敷内に入っていった。

 左近は庭の隅のほうにしゃがみこみ、なにやら植物を植えている。陸郎の知る左近には、庭いじりの趣味はない。

 陸郎は少し驚きを感じながら、その背に声をかけた。


「左近」

「おう、陸郎、久しいな」


 元より少し丸顔の左近が、人懐っこい笑顔を向けて振り返った。


「ホオズキか」


 陸郎は左近の肩ごしに見える庭木を見て言った。少し赤らんだ紙風船のような袋実が、いくつか連なっている。

 傍らには、空になった植木鉢が置いてあった。


「江戸から持ち帰ったのか?」

「まあな」

「それは……」


 難儀なことだったろう、と言いかけて、ふと陸郎は別のことを思いついて口にした。


女子(おなご)から貰ったのか?」

「まあ――そんなとこだ」


 左近は少し恥ずかしげに、含み笑いを見せた。


「狭い庭とはいえ、小さな鉢より地面のほうがよかろうと思ってな」


 左近もまた、今までに知らない顔を見せるようになった。と、陸郎は思った。


「……お前、少し肥えたのではないか?」

「なに?」

「江戸には美味いものでもあったか。あまり稽古をしておらんのだろう、どうだ?」

「ふふ、違いない。今度の対抗試合では後れを取りそうだ」


 左近は軽やかに笑ってみせた。



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