最初の稽古
陸郎は背負子を背負うと、そよに背を向けてしゃがみこんだ。
「さあ」
「ここに座るんですの?」
「そうだ」
そよが杖を放しながら、おそるおそる背負子に腰かけると、ずしりと重さが陸郎の背中にかかってきた。
陸郎は、うん、と力を入れて立ち上がる。
「えへへ、姉ちゃんも湯に行くんだね。おらが連れてってもよかったのに」
傍で見ていた権太が笑った。
「いや、これも修行の一環なんだ。けど、権太さん、ありがとう」
「うへへ、雪で転ばないように気を付けるだよ」
権太に笑って見送られながら、陸郎は雪の残る山道を歩き始めた。
藁沓をはいた足をゆっくりと進める。
権太が踏んだ跡で大体の道はできていたが、時おり、まだ柔らかい雪も残り、陸郎は足を取られないように注意した。
(これは――きつい)
足を平らに降ろさないと、すぐにも足が滑りそうになる。その上、背中にそよの体重を背負うのは、相当の体力と神経を使う作業であった。
(権太さんは、私を運んで歩いていたのか――)
改めて権太の足腰の強靭さを、陸郎は思い知る気がした。
しばらく足元に注意しながら黙々と歩いていた陸郎に、そよが伺うように声をかける。
「――陸郎さま、大丈夫ですか?」
「大丈夫だ。そよ殿が軽くてよかった」
「まあ」
陸郎はそう言って笑ってみせると、そよも可笑しそうに笑みをこぼした。
「……陸郎さまは、空斎先生に剣術を習うのですか?」
「うん」
陸郎は軽く答える。
「大変……なのじゃないでしょうか?」
「そうかもしれん」
既にこの山路行もきつい。陸郎はぼんやりとそう思った。
「もう、追手の方々は、わたくし達が死んだと思ってるのじゃないでしょうか?」
「そうやもしれん……」
陸郎はまだ新しい雪をゆっくりと踏みながら、そよに答えた。
「……だが、そうでない場合もある。春を待って我々が移動し現れるのを、何処かで待ち構えていないとも限らん」
「――そのために、剣術を?」
「そうだ。――が、そうでない面もある」
「そうでない面とは……なんですの?」
そよは陸郎の言葉を問い訊ねてみた。
「……うまく言えないが、私は空斎先生の剣に、剣というものの持つ、もっとも重要な『高み』を見た気がする。私はあの先生の域を、自分の身体で確かめてみたいのだ」
陸郎はそう言うと、ふと足を止めて、そよを振り返った。
「――今、私は剣を習いたての頃の、達兄や左近と一緒に稽古して楽しかった、あの頃のような気持ちでいるのだ」
陸郎はそう言って微笑んだ。
その陸郎の笑顔に、そよも微笑みで返した。
その後は陸郎は懸命な足取りで山道を歩んだ。
洞穴の湯場に着いた頃には、陸郎は汗だくになっていた。
(もっと薄着で来るんだったな――)
息をつきながら、そよを背負子から降ろすと、陸郎は洞穴内に松明を置いてきて言った。
「ゆっくり湯につかって、身支度ができたら戻ってきたらいい。私は入り口で待っている」
そよはそれを聞くと、松葉杖をついて洞穴のなかへ入っていった。
陸郎はそれを見送ると、入口付近に腰を下ろす。
膝をがくがくと震えさせながらも、一つの岩に腰かけると、陸郎は手拭いで汗を拭った。
脚はすっかり疲労していた。
羽織を脱ぐと、汗ばんだ身体に冷気が心地よかった。
(今頃、そよも――)
陸郎はふとよぎった思いに、独り赤面した。
やがて戻ってきたそよに、陸郎は羽織を渡した。
「湯冷めしないように、これを着るといい」
「陸郎さまが、お寒くなりますわ」
心配そうな顔をしたそよに、陸郎は微笑んで答えた。
「いや、来る途中にはすっかり汗をかいてしまった。ない方が丁度いい」
それを聞いたそよも、思わず笑みを洩らした。
帰り道は下りの方が多く、陸郎はさらに滑らないように注意しながら山道を歩いた。
「お風呂なんて久しぶりで――とても気持ち良かったですわ」
そよの軽やかな声が背中から聞こえた。
「うん。あの温泉は実に素晴らしい。私の傷もすっかりよくなった」
「これから、わたくしもあの湯で治すのですね?」
「多分な。毎日、私が背負って来ることになるだろう」
「……陸郎さまと二人きりの時ができて……嬉しいです………」
そよの艶めいた声に、陸郎は何も言わずに山道を歩き続けた。
*
陸郎が小屋に戻ると、空斎は権太を呼んで陸郎の前に立たせた。
「権太と相撲の十番勝負をしろ」
「相撲……ですか?」
でっきり剣術の稽古をすると思っていた陸郎は、拍子抜けして尋ねた。
「うむ。ただし張り手はなし。腰、膝、手は地面についても構わんが、両肩が地面に着くと負け。衣服の何処を掴んでも構わん。とにかく投げたほうが勝ち。――要は組討ちじゃ。そう思って勝負せよ」
「はい」
陸郎は返事をすると、前もって丸く描かれた土俵のなかに権太と入った。
「うふふふ」
権太は嬉しいらしく、にこにこと笑っている。
しかし改めて対峙すると、陸郎に比べ、権太は頭一つ分以上は大きい。横幅も太く、がっしりとした体躯をしていた。
「始めよ」
権太がゆっくりと両手を上に上げる。
陸郎はがむしゃらになって、権太に組みついた。
権太の帯を右手で掴み、その身体を振ろうとする。
その瞬間、陸郎は悟った。
(う――動かん)
陸郎の渾身の力を込めても、ビクともしない。
(確かに身体は大きいが、こんな……)
陸郎は内心の動揺を感じずにはいられなかった。
その間に、陸郎は自分の背中がむんずと掴まれるのを感じた。
「ほいさ」
あっ、と思う間もなく、陸郎の身体は宙に浮き、気が付けば地面に転がされていた。
「勝負あり。続いて始め」
空斎の声を聞いて、陸郎は身体を起こす。
自分がどんな風に投げられたのか、見当もつかなかった。
が、行くしかない、と陸郎は思い切った。
「だぁっ!」
陸郎は今度は思いきり両手で権太の胴を抱きかかえた。そのまま踏んばって権太を押し出そうとする。
「うぉ?」
権太の身体が僅かによろめく。
が、権太はすぐに腰を落とし、体勢を立て直した。
「むん」
権太ががっちりと組んできて、陸郎の力を押しとどめる。権太が帯を掴んで投げようとするのを、陸郎は足を踏ん張って懸命に堪えた。
「う~ん」
陸郎が簡単には投げられないと見るや、権太は戦法を変えてきた。
外側から組んだ腕を、権太は陸郎の腕のなかに差し込んでくる。
させまじ、と抵抗していたが、やがて権太が脇から腕を差し入れ、陸郎の帯を掴んだ。
「よ~し……」
権太が呟く。
と、思った瞬間、権太が動いた。
陸郎は堪えようとしたが、次の瞬間には見事に腰投げで地面に転がされていた。
「うむ、勝負あり。続けていけ」
陸郎はその後も権太に挑んだ。しかし体格が上回り、力強く、また技らしきものも使っている権太に対して、陸郎はなす術がなかった。
「あ……ありがとうございました」
陸郎は権太に一礼すると、その場にへたり込んだ。
陸郎は十番のうち一つも勝てずに勝負を終えた。終わった後は息も絶え絶えで、相手をがっしり掴んだ腕には痺れと震えが生じていた。
「では権太、次はわしとじゃ。――陸郎、お前はまずよく見ておけ」
「は、はい」
陸郎は土俵の外に出ると、二人の勝負の行く末を見つめた。
空斎と権太が対峙する。
最初に動いたのは権太だった。
権太は手を伸ばしながら前に出て、空斎を掴もうとした。
が、その手を空斎はパッと打ち払う。逆に空斎はその間合いを詰めて、権太の肘と襟を取った。
さっと後ろに引きながら、権太の身体を引き落とす。権太はそれを前に出て踏みとどまる。
と、その足を空斎が、片足でさっと払った。
「ひゃあ」
権太は一声あげると尻餅をついた。
(え――)
陸郎は少なからず驚いた。
自分がいくら押しても引いてもどうにもならなかった権太が、こともなげに転がされている。
「こら、権太、相手はわしじゃぞ。もっと注意してかかってこんか」
「うへへ、んだった」
「今のは尻餅だから、なしじゃ。最初からじゃぞ」
空斎がそう言うと、権太は笑いながら再び向き合った。
今度は少し用心しながら、権太が手を出す。
と、大振りに掴みにきた権太の右手を、空斎は左手でさっと掴むと、いきなり身を翻した。
「あっ!」
陸郎は思わず声をあげた。
空斎は権太を背中に背負うようにし、身体を前に倒して権太の巨体を見事に地面に投げたのだった。
「うひゃあ」
地面に落ちた権太が声をあげる。
「これで一勝じゃ。さあ来い」
「よ~し」
権太は立ち上がると、またかかっていく。今度は掴み合いになり、権太が空斎を掴んだ。権太は無理やりに空斎を腰に乗せて投げようとする。
しかし空斎は肘で権太の腰を押し止め、投げさせない。
空斎はその機に、権太に足払いをかける。
今度は権太がそれに耐える。が、空斎は不意に身を沈めた。
「わあ」
空斎は地面に寝転がるように倒れ込むと、手で権太の襟を引きながら、足で腹部を蹴上げるように後方に権太を投げ飛ばした。
(こんな――)
陸郎は唖然とした。
小柄な老人の空斎が、巨漢の権太をいいようにあしらっている。
(こんな事が可能なのか――?)
その後も空斎は、挑んでくる権太を次々と投げ飛ばした。ある時は身を翻して前に転がし、ある時は足をかけて後ろに倒す。
陸郎はその技を見ながらも、信じられない思いであった。
「――どうじゃ、見たか」
十番勝負が終わると、空斎は陸郎に言った。
結局、権太は一回も勝てず、その場に座り込んで息をしている。
それに対して空斎は、少し息をついた程度で泰然としていた。
「見ました……」
陸郎は呆然としながら答えた。
空斎は黙って頷いた。それ以上、何も言おうとしなかった。
空斎は権太を下がらせると、今度は長い木薙刀を持ってきた。そして陸郎を、林の中へと連れていった。
「素振りを教える」




