若き侍、久澄陸郎
色づいた紅葉が静かに舞い落ちる木立ちのなか、若侍は木刀を振っていた。
緩やかな風は冬の訪れを予感させる涼をふくんでいたが、若侍の身体はすでに上気し、かるく汗ばんでいる。
その振り下ろされる木刀が、風を切る音を鳴らす。時折、その木刀の傍を舞った紅葉が、風圧に押されてひらりと舞い上がった。
独り黙々と稽古を続けていた若侍は、ふと森の中を近づいてくる者の気配を感じてその手を止めた。
「陸郎さま」
小走りに近づいてきたのは、清楚ないでたちの娘であった。
「そよ殿か」
若侍――久澄陸郎は、その木洩れ日のなかに現れた可憐な姿に、驚きを隠すように目を細めた。
そよは息をきらせながら陸郎の前まで駆けてくると、うちとけた笑顔を見せて立ち止まった。
「どうしたのだ? そんなに息をきらせて」
「お兄様が……帰ってきましたの」
「そうか、達兄が江戸から戻られたか!」
陸郎は思わずはずんだ声を出した。
「陸郎さまにお伝えしようとお訪ねしたら、お留守でしたので……」
「よく、ここが判ったな」
「伝蔵から稽古着で出かけたと聞きましたから……きっと、ここだろうと思いましたの。昔よく、お兄様とここで稽古なさるのを見てましたから」
そよはそう言うと、木立ちのなかで開けたその一角を懐かしそうな目で眺めた。陸郎もつられるように、視線を幼き日の記憶へと向ける。
幼い頃、三つ歳上の達彦に、陸郎はよく稽古をつけてもらった。達彦は武家の子息たちのなかでも特に太刀筋がよく、同年代のなかでは抜きんでた力量を持っていた。
木刀で寸止めするのが習わしとはいえ、時には達彦は隙だらけの陸郎を厳しく打った。そのたびに陸郎は半べそをかきながら、達彦の稽古についていったのである。
「……わたくし、一緒に稽古できないことを、どれほど歯がゆく思いましたことか」
「は?」
そよの思いがけない呟きに、陸郎は追憶から引き戻されて、目を丸くした。そよは悪戯がみつかった子供のように微笑んでいる。
「剣術をやりたかったと申すのか?」
「……というより、一緒にいたかったのです。ずっと幼い頃はどんな遊びも一緒にやってくれたのに……。わたくしばかりが、二人から遠ざけられて寂しかったのです」
悪気のない笑顔を浮かべて、そよはそう告げた。その臆すところのない言葉と瞳にあてられて、陸郎はふと感慨を洩らした。
「そう言えば……そよ殿と話すのも久しぶりだな……」
達彦とそよの兄妹と、陸郎の間には単なる幼馴染以上の深いつながりがある。
陸郎が十歳の頃、父の久澄俊郎が急死し、母親も幼い頃に亡くしていた陸郎は親なしの身となった。
すぐに親戚のもとに養子入りすることが考えられたが、俊郎の旧友であった春日達之丞が、それでは久澄家の家督を継ぐ者がいなくなることを憂い、陸郎が元服し家督を正式に継ぐまで春日家で預かると申し出たのである。それから陸郎は春日家の次男のように、達彦を兄、二歳下のそよを妹として子供時代を過ごしたのだった。
その後ほどなく家老になった春日達之丞の庇護は篤く、陸郎は文武ともに優れた師につき、充分な教育を受けることができた。そして陸郎は十七歳になった三年前に、久澄の家督を継ぎ、春日の家を出たのである。
「……二年ですわ」
だしぬけに飛び出したそよの言葉は、少し咎めるような色を帯びていた。は? と陸郎は訝る。
「お兄様が江戸にお発ちになってから二年。その間、陸郎さまとお話ししませんでしたわ」
「そうか…? そんなになるかな」
「そうですわ」
そよは抗議の色を含ませつつも、喜色を含んだ瞳で陸郎を見上げた。
(美しくなったものだ)
この言葉をかわすこともなかった二年の間に、そよの容貌が大きく様変わりしたことに、陸郎は内心では驚いていた。そもそも春日の家を出るまでは兄妹として八年もの歳月を過ごし、呼び名も常に「そよ」と呼び捨てにしていた。
それが不意に他家の娘ということになり、特に機会もないまま陸郎とそよとは、二年もの間ほとんど顔を合わせることすらなかったのである。
この日、不意に現れ言葉をかわしたそよの姿に、陸郎はそれと隠しつつも大きな戸惑いを覚えていたのだった。
「今日は、お兄様のお江戸話を聞きにいらっしゃるのでしょう?」
「……うむ、そうだな。まず、ご挨拶に行かねばなるまい。身支度を整えたらすぐに向かうから、そよ殿は先に戻っておられるがいい」
「ご一緒に戻って、お仕度を手伝いいたしますわ」
「それはいかん。人目もあることなのだし……」
陸郎はそう口を開いた後、それからを言いよどんだ。
その理由をはっきり口にすれば、それはそよと陸郎が世間的にはただの「男女」であるということである。だが陸郎には、ずっと妹として接してきたそよに、そのような事を改まって言うことが不自然なことに思えて躊躇われた。
口ごもった陸郎に対して、そよは何も言わずに澄んだ瞳を向けた。
陸郎はその真っすぐすぎる視線に気圧されるように、さりげなく目線を外した。
「……わたくしは気にしませんのに」
「そなたがそうでも、周りはそうではない…」
陸郎は視線を外したまま、口を開いた。
「じゃあ、森を抜けるまでなら、よろしいでしょう?」
「うむ……」
そよの微笑に押されるようにして、二人は連れだって木陰の道を歩き始めた。
「そうだ、堀田様もお兄様と一緒にお帰りになったと言ってましたわ」
「お、左近がか。そうか、江戸から戻ったか。奴もやはり今度の御前試合に出るつもりなのだな」
「これで北の四天王が揃い踏みですのね。南の三羽烏には、決しておくれを取りませんわ」
「これ、興味本位でそのような対抗意識を出すものじゃない。元々、二つは同流。対抗試合は、家臣全体の武芸向上のために催されるということだ」
陸郎はそよを軽くたしなめた。
『北の四天王』とは、飯山城下にある中条流の北見丹膳の道場で、特に抜きんでた剣技を持つ四人のことである。そよの兄の春日達彦、達彦や陸郎とは幼友達の堀田左近、これに陸郎と、美木利光を加えて『北の四天王』と誰ともなく口にするようになった。
しかしそもそも、『北の四天王』というのが『南の三羽烏』に対抗して作られた呼び名である。同じく中条流の南條矩直の道場に通う黒川塊山、鳥山五郎太、羽生修平の三人が特に腕が立ち、三人の名前の黒・鳥・羽から想を得て、『三羽烏』と言われたのが事の始まりであった。向こうは既にひとかどの人物達であるのに対し、北見道場の四天王はむしろ若い、これからの剣士たちばかりであった。
北見丹膳と南條矩直はともに中条流剣術で、主家の佐久間家の兵法指南をしていた斎賀維盛の弟子であった。子のいなかった師が死去すると、城主から二人ともに家臣の武術指南役を命じられたのであった。
当初は二人揃って参城し、城内で稽古をつけていたのだが、いつからか二人はそれぞれ城下に道場を構え、そこで個別に指導するようになっていった。
しかし北見道場に江戸詰めが多い春日達之丞の子息である達彦が入り、南條道場に国元の次席家老、黒川孔山の子息である塊山が入ると、勢い道場対立は家臣団内部の派閥と密接に関わるようになっていった。
そしてこの秋、これまでの研鑽の成果を君主に上覧するということで、道場対抗戦が開かれることになったのである。しかしこの道場対抗戦はまさに、各派閥が自らの力を誇示する場の雰囲気を、その開始前から国内に漂わせ始めていた。
陸郎はそういう家臣団内部の事情を知りながらも、敢えて表向きの理屈を口にしたのであった。
「けど、陸郎さま、とても熱心に稽古なさって……」
「――剣術は人と競うためのものではない。自ら克己し、鍛錬するための便法と心得ている」
そう口にしてむっつりと黙り込んだ陸郎を、そよは不安げな顔で覗き込んだ。
「お怒りになりましたの? わたくし、浅はかなことを言って…」
陸郎はしかしそよの言葉を聞くと、すぐに微笑みを返した。
「いや、そなたのことではない。国の内情を憂いていたのだ。皆が私欲を捨て、国が一つになるといいのだが……」
陸郎はそう口にすると、歩きながら視線を秋めいた木立ちへと向けた。その端正な面立ちを、そよはしばし眺めていた。
「……お変わりになりませんわ」
「うん?」
「昔から争いごとがお嫌いですものね。人と勝負したりするのも好きじゃなくて――。よく、お兄様が申しておりましたわ、『本当に剣の才があるのは陸郎だ。あいつの剣才は国でも一番だろう』って」
「まさか――」
そよは悪戯っぽく微笑みかけた。
「けど、つづきがありますのよ。『だが惜しいかな、陸郎には欲がない。後れをとるまい、なんとしても相手を打ち据える――そういう意地が肝心なところで出てこない。それが変われば、陸郎は恐るべき剣士になる』と――」
陸郎はそれを聞くと、さらに苦笑いして木立ちの上の空を見上げた。
「ふふ…達兄らしい。けどそれは、私を買いかぶりすぎだ」
「こうも申してましたのよ。その戦う気のなさは、戦場では命取りになるかもしれないと……わたくし、戦など大嫌いです」
「徳川様が天下を治めて、はや数十年。もはや太平の世なのだ。私は生涯、戦場などとは無縁でありたいものだ」
「陸郎さまは……お優しすぎるのですわ」
そう呟いて目を伏せたそよの口元には、僅かな微笑みが浮かんでいた。
その時、陸郎は視界の隅に入った向こうから歩いてくる人影に目を凝らした。それは旅姿をした壮年の侍で、どこか落ち着きのない様子で足早に木陰を歩み進んできていた。
長い旅の間にか、着物は柄もかすれるほどに汚れて煤け、髪も荒れ放題に伸びたものを無造作に束ねただけであり、口元には不精髭が生えていた。顔は日焼けと街道の砂埃にまみれて黒ずみ、眼元の白目のところだけがギョロギョロと異様な光を放っていた。
距離が近づきすれ違いざま、旅姿の侍はねめつくような目つきで、そよの姿を見た。その気配に怯えたそよは、逃げるように陸郎の陰に身を寄せた。
旅の侍はすれ違った後もまだそよを見ていたが、やがて目を逸らし、また足早に歩いていった。
「……なんでしょう、気味の悪い」
「諸国を廻ってる浪人、といったところだな」
陸郎は答えるでもなく呟いた。
そのまま何か黙ったまま森の出口まで来ると、にわかに外の様子が騒がしいのに二人は気づいた。
「どうしたのでしょう?」
「何かあったようだ」
陸郎が足早に森を抜けると、森のすぐ傍らにある民家の前で人だかりがしていた。集まっているのは近隣の百姓たちらしく、皆、畑仕事から抜けてきたいでたちだった。
「どうかしたのか?」
陸郎が人だかりの一人に声をかけると、その百姓男は恐る恐る陸郎に告げた。
「へえ、この家のもんが侍に斬られたっちゅう話で…」
陸郎が顔色を変えて人だかりをかきわけて奥を見てみると、そこにはこの家の主らしい百姓男が血を流して倒れている。
その時、粗末なつくりの家の中から悲鳴があがった。女の声だった。
陸郎がすぐに家に入ると、中では一人の女が周りの手当てを受けていた。手当てが傷に沁みるらしく、悲鳴をあげている。横向けで、痛みに耐えるように丸くなっている女は、背中をざっくりと斬られていた。陸郎は近くの百姓女に問うた。
「何があったのか判るか?」
「ヨネの話だと、浪人が来て飯を欲しがったちゅうことです。それでにぎり飯さ出すと、次は刀を抜いて金を出せちゅうて……。それで玄さんがなけなしの小銭を出すと、今度はヨネさんを手ごめにしようとして、止めようとした玄さんは侍に斬られて……助けを呼びに外へ出たところを、ばっさりともう一太刀。それを見て悲鳴をあげたヨネさんが家の中に逃げようとするところにまた斬りつけて、どっかへ逃げたっちゅうことです………」
陸郎がふと傍らを見ると、怯えた眼をして母親の様子を見ている二歳くらいの娘がいた。娘は別の百姓女にしがみついて、震えながら口もきけずに、ただ眼だけを見開いていた。
(許せん)
陸郎の背中を、瞬時に怒りの気が走った。
陸郎は片手で木刀を握り締めると、表へと飛び出した。
「陸郎さま」
「誰か城へ行って警吏の者と医者をすぐに呼んで参れ。――そよ殿、賊は先ほどの男だ。私が森を追うから、警吏が来たらその旨伝えてほしい」
陸郎はそよにそれだけ言うと、今しがた来た森の中へ再び駆け戻っていった。
(許せん――許せん!)
陸郎は激昂していた。
(あんな子どもの前で……それに親なし子となった子どもは――)
陸郎は森を駆け抜けながら、怯えた子どもの眼を想い出してわずかに涙ぐんだ。陸郎は走りながら涙を振り切ると、さらに勢いを増して木陰を疾走した。
(先回りして、待ち伏せる――)
森をよく知る陸郎は、少し小高くなっている横道へと駆け上がった。この小山を横切れば、森を迂回する道の先へ出られる。
若い陸郎の肉体が、弾むように獣道を駆け抜けた。
ほどなくして陸郎は、先回りした元の道を見下ろせる岩山に到着した。目を凝らすと、少し前に先ほどの旅姿の浪人が足早に歩いている。
(よし)