変な婚約破棄
「うーん、美味い! このローストビーフ絶品だよ! 君も食べてごらんよ」
「もう、ウィル、あまりがっつかないでよ。恥ずかしいわね」
今日は婚約者のウィルと二人で、名門ボールドウィン侯爵家が主催の夜会に来ていた。
周りの人たちは、皆貴族らしく厳かに時を過ごしているというのに、ウィルは今日も体面なんて気にもせず、食べたいだけ食べて飲みたいだけ飲むという、子どもみたいな振る舞いをしている。
本当に、ウィルは食いしん坊なんだから。
その割には大した運動もしてないのにスマートな体型を維持しているので、いったいそのカロリーはどこに消えているのか、甚だ疑問だ。
「でもさ、せっかく料理人たちが腕を奮って作ってくれた料理だよ? それを食べないで眺めてるだけなんて、そっちのほうが失礼だとは思わないかい?」
ウィルはいつものようにニッコリと、屈託なく微笑む。
「……まあ、それは確かに」
普段の言動は子どもっぽいのに、たまにこういう核心を突いてくるから侮れない。
どっちが本当のウィルなのかしら……。
「エスメラルダ、ただ今をもって、君との婚約を破棄する!」
「「「――!!!」」」
その時だった。
ボールドウィン家の嫡男であるヒューバート様が、婚約者であるエスメラルダさんに対して、右手に持った短い鞭を向けながら、そう宣言した。
ヒュ、ヒューバート様ッ!?
あまりの出来事に、辺りの空気は騒然となった。
「うーん、このポテトサラダも最高~。やっぱポテトサラダは、ジャガイモがゴロゴロしてるほうが美味しいよね」
「っ!?」
が、そんな中ウィルだけは、ヒューバート様のほうを一瞥もせず、ポテトサラダを夢中で頬張っている。
ウィルッ!!
「ど、どういうことでしょうかヒューバート様……」
唐突に婚約破棄宣言された当のエスメラルダさんは、顔面蒼白になって震える手で自分の身体を抱く。
もう夏がすぐそこまで来ているというのに、未だにエスメラルダさんは長袖のドレスに身を包んでいた。
こんな状況だというのに、暑くはないのだろうかという、どうでもいい疑問が浮かぶ私も、あまりウィルのことを言えた義理ではないのかもしれない。
「どうもこうも、そのままの意味さ。君には申し訳ないとは思っているが、僕は、真実の愛に目覚めてしまったんだ!」
そう言うなりヒューバート様は、隣に立つ男爵令嬢のアニータさんの肩を、左腕で抱いた。
そ、そんな……!
「うふふ、そういうことですエスメラルダ様。でも気を落とさないでください。きっとエスメラルダ様にも、真実の愛の相手が見付かりますから」
「……」
アニータさんは勝ち誇ったような顔を、エスメラルダさんに向ける。
そんなエスメラルダさんはどこか焦点の定まらない虚ろな瞳で、アニータさんを見据えていた。
「そういうことだ。今後僕の愛は、アニータだけに注がれることになる。君は君で、どうか幸せな人生を歩んでほしい」
な、何て勝手な……!
これだから、甘やかされて育ったボンボンは!
そんなボンボンを作り出した張本人であるボールドウィン侯爵閣下は、まるでペットの戯れを眺めるみたいな微笑ましい顔で、事の成り行きを静観している。
まったく、この親にしてこの子ありね……!
「エスメラルダ様には本当に感謝していますわ。エスメラルダ様があの日私を茶会に誘ってくださったから、ヒューバート様とこうして運命の出逢いを果たすことができたんですから」
「フフ、その通りだね、アニータ」
周りからの冷たい視線を物ともせず、二人は胸焼けしそうな甘い空気を醸している。
そんな二人のことを、エスメラルダさんは諦観じみた瞳で見つめながら、力なく笑ったのだった――。
「いやあ、デザートのイチゴタルトも実に美味しかったなー。お土産に一つもらってくればよかったかな」
夜会からの帰り道の馬車の中。
隣に座るウィルは、相変わらず食べ物の話しかしない。
「……本当に、食べ物にしか興味ないのね」
「ん? どういう意味だい?」
「別に。あんな大事件が起きてる最中でも、食欲に忠実でいられるあなたのことが、羨ましいと思っただけよ」
「あはは、そんなに褒められると、照れるなー」
ウィルは頭に手を当てて、屈託なく笑う。
「褒めてはないけどね! ……それにしても、何か変だったとは思わない?」
「ん? 何が?」
「さっきの婚約破棄よ。今やボンボンが調子に乗って婚約破棄すること自体は、さして珍しくない世の中になったわ。でも、さっきのは、どこか違和感があったのよね……。普通の婚約破棄とは違う、異質さが漂っていたというか……」
「ふむ、君の勘はよく当たるからね。どれ、腹ごなしに、僕もちょっと考えてみようかな」
「――!」
そう言うなりウィルは、こめかみに右手の人差し指を当てながら、そっと目を閉じた。
これは、ウィルが考え事をするときの癖――。
こういう時のウィルは、普段ののほほんとした態度からは想像もできないような、鋭い推理を見せることがあるのよね……。
「……うん、これかな」
程なくして目を開いたウィルは、パンと手を合わせてニッコリと微笑んだ。
「もしかして、違和感の正体がわかったの、ウィル?」
「あくまで仮説に過ぎないけどね。聞くかい?」
「も、もちろん!」
一度こういうのが気になっちゃうと、夜も眠れないのよね、私!
「――ポイントは、ヒューバート様が持っていた鞭と、未だに長袖を着ていたエスメラルダさんさ」
「鞭と、長袖……?」
「この二つから、連想できることはないかい?」
「連想…………。――あっ」
その時だった。
私の中に、とある最悪の仮説が浮かんでしまった――。
そ、そんな、まさか……。
「どうやら気付いたようだね。君の想像通り、ひょっとしたらヒューバート様は、嗜虐趣味をお持ちだったのかもしれないね」
「……!」
「そして毎日のようにあの鞭で、エスメラルダさんの身体を容赦なく叩いていたとしたら」
「酷い……! そんなの、完全に虐待じゃないッ!」
それが事実なんだとしたら、絶対に許せない!
だから身体中の傷を隠すために、エスメラルダさんは未だに長袖を着ていたのね……!
「……でも、そういうことならむしろ、偶然とはいえ婚約破棄されたのは却って僥倖だったのかもしれないわね。貴族令嬢としての経歴に傷は付いてしまうけれど、身体と心に消えない傷を付けられるよりは、百倍マシだわ」
「うん、僕もそう思うよ。……ただ、果たしてあの婚約破棄は、本当に偶然だったのかな?」
「…………え」
ウィ、ウィル……!?
「……どういうこと?」
「アニータさんが言ってたじゃないか、『エスメラルダさんがあの日茶会に誘ってくれたから、ヒューバート様と運命の出逢いを果たすことができた』とね」
「……あ。まさか――!」
「うん、そのまさかさ。エスメラルダさんはヒューバート様とアニータさんを、意図的に出逢わせたのさ。――理由はわかるよね?」
「……アニータさんを、自分の身代わりにさせるため」
「御名答。ずっとヒューバート様から逃げたいと思っていたエスメラルダさんだけれど、ただ逃げただけでは、地の果てまで追い掛けられて、今よりもっと酷い仕打ちを受けるだろう。だからエスメラルダさんが解放されるためには、誰かを生贄として捧げる必要があったのさ」
「……」
確かにそう考えると、全てに辻褄が合う。
最後に見せたエスメラルダさんの笑みは、諦めによるものではなく、計画通りに事が運んだことへの、歓喜の笑みだったのだわ……。
「……本当に、女って怖い生き物ね」
「ふふ、同じ女性の君でも、そう思うんだね」
「もう、からかわないでよ」
「まあ、全てはただの憶測に過ぎないけどね。実際はよくある平凡な、痴情のもつれに過ぎないのかもしれないよ」
「……ねえ、ウィル、何とかならないかしら?」
「ん?」
私はウィルの袖をキュッと掴んで、上目遣いでお願いする。
「もしもヒューバート様が本当にそんな酷いことをしてるんだとしたら、女として絶対に許すことはできないわ。何とかあなたのお父様のお力で、真相を調べていただくことはできないかしら?」
ウィルのお父様は、警察庁の長官を務めてらっしゃる偉大なお方。
お父様なら、きっと真実を白日の下に晒してくださるはずだわ。
「ふむ、愛しの婚約者である君の頼みだ。前払いでご褒美をくれるなら、やぶさかではないけどね」
「ご、ご褒美?」
「――お土産にもらい忘れたイチゴタルトの代わりに、君の唇をいただくよ」
「――! ちょっ、まっ、んふぅ」
私の制止も聞かずに、ウィルは熱く濃厚なキスをしてきた。
も、もう、本当に、ウィルは食いしん坊なんだから……。
――後日、ウィルの予想した通り、ヒューバート様の数々の虐待行為が発覚し、ヒューバート様は逮捕された。
案の定ヒューバート様は、アニータさんのこともあの鞭で虐待したらしく、その現場を押さえたのが逮捕の決め手になったらしい。
因みにその逮捕劇の裏で、捜査に当たっていた捜査官の一人とエスメラルダさんとの間で、ラブロマンスが繰り広げられたそうなのだけれど、それはまた別の話。