後編
決定的にすれ違ってしまった私達は、それでも表面上は今まで通りに過ごしていった。
もともとプライベートな会話は学生が居ない間に交わしていたことが多く、仕事上の接点がそれ程ない彼と私が、殊更会話を交わさなくても周囲がおかしいと思うことはなかったようだ。
ほっとしたような、気が抜けたような。
それでも彼に言ってしまった言葉は、そのまま自分の胸を抉り取る。
あんなことを言うつもりはなかったし、あんなことを思ったこともなかったのに、と。
こちらを外見や偏差値で判断する周囲に辟易していた私が、彼に対して同じことをしてしまった、結果的に。
ダブルスタンダードもここまでいくと、自分勝手としかいいようがない。これでは、私が心底嫌っていた周囲の価値観に染まりきってしまったと言われても仕方がない。
自分の中の、本当の自分を知られたくなくて、あんな暴言を吐いて、何もかも自業自得だ。
彼を傷つけて、自分が傷付いて。
だけど、私は彼に謝ることもできないでいる。
プライドだとかそんなつまらないものに縛られて、素直にごめんなさいと言えないのだ。
あほらしいことに。
そうこうしているうちに時間はどんどん過ぎていく、ごめんなさいの言葉だけを残して。
「清水君、ちょっと」
唐突に教授に呼ばれることは珍しいことじゃない。いきなり雑用やら論文書きやらがふってくるほか、まるで関係がない雑談に付き合わされるのも仕事のうちだと割り切っている。
だけど、今日はいつもより少しだけ機嫌が良さそうな教授の顔に、何かいい出来事でも起こったのだと予想するのは簡単だった。
「間島君がね、決まったよ」
「はい?」
「いや、聞いてない?」
「はあ、聞いていませんけど」
仕事の会話と挨拶以外は交わしていないのだから、知らないのも無理はない、とまさか教授にまで言うわけにはいかないのでそのまま黙っている。
「赤坂君のところに、助手としていくことが決まったんだよ。まだオフィシャルな情報じゃないから秘密だけど、早いうちに次のポスドクを決めておかないとと思って」
聞き覚えのある教授の名前に、そういえば先生の大学の後輩だったと、思い出す。本当はもっと重要なことがあるはずなのに、頭の中はそんなデータばかりをはじき出してくる。
「後輩に何人か決まってなくていいのがいますけど、決まったら声かけときましょうか?」
「頼む、何せ急なことだから」
「そういえば、赤坂先生は転任されたばかりですよね」
「ようやく助教がとれるようになって、公募をかけてたからな。一応間島君にも出してみれば?って言っておいたけど、まさかあそこに決まるとはなぁ」
感慨深げに話しこむ先生はなんとなく父親の顔をしている。
使い捨ての道具としてポスドクを利用する先生もいる中、うちの教授はかなり親身に次の就職先を探してきてくれると評判だ。ポスドクといっても期限付きの言わばアルバイトのようなもので、期限が切れる前に次の就職先を探さなくてはいけない。一番いいのは助教か講師、もしくは研究所などに雇ってもらうことだが、間島君のように新卒だけれども年を取っている場合は民間の就職がまず難しい物になる。だからこそアカポスをめぐってがんばっていたのは知っていたけれど、こんなにも早く彼が就職してしまうなんて。
そこまで思考をだとって、ようやく、彼がここからいなくなってしまうということに気がついた。
いや、気がついていたけれども、認識したくなかっただけだ。
だけど、時間は刻一刻と過ぎていくのに、私はいつまでたってもその一言が言えないままで、あっという間に彼は、研究室のメンバーの笑顔で送り出されていった。
最後まで、私と顔を合わせることもしないで。
こんなにも広いものだったのだと、そんなバカな思いを抱いてしまう。
何の変哲もない研究室の一居室で、昼間は学生達が飲み物を片手に語り合っていたスペースも深夜ともなれば寂しいものだ。
そこには、いつも私のほかにもう一人の影があって、するりと忍び寄って来ては、色々な話をしていたな、と、思い出というにはまだ生々しい彼とのやりとりを思い出す。
結局、最後まで私は自分の中にある気持ちを直視することが出来なかったと、弱虫な自分にあきれ返る。
面倒くさくて適当に放り込んだインスタントコーヒーの粉末をポットのお湯で溶かしていく。一瞬にして出現したこげ茶色の液体からは、それでもきちんと芳ばしいコーヒーの香りが漂ってくる。
まだ熱いその液体を口に含む。
ピリリと痛む舌に、自分がここにこうしてきちんと存在していることを実感する。
一日の終わり近くには、こうやって妙な確認作業をしないと、今の自分は自分を確かめることができないでいる。何をやるにも上滑りで、地に足がついていない。だけど、仕事量だけは今まで以上で、皮肉なことに余りうまくいっていなかった実験も、ここにきて軌道に乗り始めている。
だけど、何もかもが虚しいのだ。
朝起きて、身支度をして学校へ来る。学生の面倒を見ながら実験をこなして、時には学生実験のお世話をしながら、論文を書き進める。ありふれた一日のスケジュールを疑問に思ったことなど一度もないのに、ふと立ち止まると、今自分が何をしているのかがわからなくなる。 体調が悪いわけじゃない。母親のお小言が煩かったわけじゃない。
それを、何もかも今ここに不在である人物のせいだと思いたくはないけれど。
「鼻水たらして泣くぐらいなら、最初からあんなこと言わなければいいのに」
何時も通りの行動をしようと、無理して休日出勤をした日曜日。
あんなに爽快だった空はどっぷりと暮れ、明かりも点けずに書物に埋もれていた私は、いつのまにか暗闇にも埋もれていた。そんな状態で本など読めるはずもなく、目に入ってくる文字は脳をそのまま通り過ぎるのみだ。
そんな静寂の中、憎まれ口をたたきながらずっと頭から離れなかったやつの声がした。
そんなはずはない。
だけど、パチンという音とともに蛍光灯に照らされた下には、やっぱりずっとずっと心のどこかでは会いたいと思っていた人の姿があった。
「ハンカチじゃ間に合わないかな……」
そんな事を言いながら男物の大判のハンカチを差し出す。
訳もわからず受け取る。
「ひょっとして気がついていません?」
「なにが」
「なにがって、そんな状態じゃあ、紙が波打ちますよ」
わけがわからずに、でも、こいつと目をあわすのは癪だと、じっとハンカチを睨みつける。
緑色のチェックのハンカチに、なにやら水滴が吸い込まれていく。
水滴はぽたぽたといよりもボタボタといった方がよく、次から次へと真新しいハンカチへと落ちていく。
その出所が私なのだと気がついた時には、彼の右手が私の頭を乱暴に撫でていた。
「まったく、自覚がないのもここまでくると立派だとすら思えてくる」
生意気な口調に反論しようにも、泣いていたらしい私は声を出せずにいる。
「あのね、確かに移動しますよ。ここからは離れますし。でも会えない距離じゃない」
でも、彼がわざわざここに来る理由もない。新しいところへ行けば新しい交友関係に慣れていくものだ。そうしていくうちに私のことなど忘れていくに違いない。そんな事を思ったら、またチクンと胸が痛んだ。こんな年まで勉強ばかりしてきたせいか、どうしてこんな風になるのかがわからない。
「来ますよ、当然。何のためにパーマネントになったと思うんですか」
不安定なポスドクの身分ではなく、パーマネントの助手と言う職業を選ぶのは当然のことで、それ以上の意味は見出せない。ふるふると頭を振って、素直にわからないということを示す。
「あなたのため、いや、正確にはあなたとつりあうためですよ。もっともまだ僕の方が格下ですけど」
良くわからないと、再び頭を振る。
「ここまで言って、まだわからないかな、この人は」
いつのまにかハンカチは彼の手に移され、私は少し乱暴に顔を拭かれている。いつもなら反抗する彼の行動になぜだか素直に従っている。
「あなたが好きです、って言ったでしょ」
聞いたような気もする。だけどそれは気のせいで、そんな事を思ったら彼に伝わったのか、思い切りため息をつかれた。
「本気です、どこまでも本気です。だから死ぬ気で応募書類書いたり、あちこちにこねつくったりしてがんばったんじゃないですか」
実のところ昨今はドクター余りが著しい。せっかく博士号を取得しても、現実の就職先は限られている。企業に行くにしても、給料が高いドクターを求める数は遥かに少なく、最大の就職先であろうアカデミックのポストにしても数は限られている。だから、彼のように数年ポスドク生活を送り、その機会を待つ人間も多い。そんな中で彼のようにアカデミックのポストを得られるものは運も実力も人脈もある幸運な人間であると言える。だからこそ、私も喜んでみせたのだから。
「せめて、これぐらいしないと、結婚してください、なんて言えないじゃないですか」
「結婚!!!」
ようやく出せた声は素っ頓狂に裏返っている。だけど、そんな言葉は私の人生には不似合いすぎてわけがわからなくなる。
「ダメですか?」
「だめって……」
にっこりと笑っている彼は、何時もの彼で、だけどからかっているとかそういう雰囲気はなくて。
「奈保美さんだって、こんなに泣く程俺のこと思っていてくれたんでしょ」
「ちがう!これは」
「まさか、有機化学の教科書読んで泣く程器用じゃないですよね」
机の上を人差し指でたたきながら確認してくる。言われなくても私の目の端には感情移入しようもないほど化学的な記述がこれでもかってほど溢れている。
「あなたが素直じゃないのは知っていますけど、いいかげん正直に吐いたらどうですか?」
「なんでもないったら、なんでもないの!」
「ふーん」
「なによ!」
「あなたがそう言うのなら、このまま消えます。それじゃあ」
なんの迷いも感じさせずに彼が背中を向ける。
だけど、理性だとかプライドだとかそんなものを思い出すまでもなく、私は咄嗟に彼の腕を掴み取っていた。
「やだ!」
子供じみた言葉と共に。
「今、いやだって言いましたよね」
咄嗟に掴んだ腕をどうしていいかわからず抱きかかえたままの私に、彼の言葉が降りかかる。
掴んでいた手はあっという間に解かれ、逆に私が捕まれてしまった。しかも私の体を丸ごと、彼が抱え込むようにして。
「結婚しましょう」
あまりにはやい展開に、何を言われたのかがまたわからなくなる。
「奈保美さんの全部を引き受けますから」
「でも、私ひどいこと言った」
「忘れました」
「でも!」
嘘でもあんなことは言うべきではなかった。零れ落ちた瞬間後悔した。
あの時私を見た彼の視線がこちらのくだらないプライドを全て見透かすようで、恐かったのだ。だけど、そんなことは言い訳にはならない。
私は彼を傷つけた。
「だったら!」
力を込めて抱きしめられる、などという体験は初めてで、息苦しいのに心地よい。
「だったら、一生掛けて癒してください、俺の傍で」
その後、私はどう返事をしたのかも覚えていない。
覚えているのは、あの日傷つけた彼の顔を払拭するぐらい眩しい彼の笑顔だけ。
ずっとずっと胸に抱えてきた暗い塊は、いつのまにか消え去っていた。
「やっぱり、披露宴なんてするべきじゃないと思うの」
「それを自分の母親に言えるんでしたら、どうぞ」
結婚式の当日だというのにまだそんなことをぐたぐたぬかしている自分は、本当に小心者だと思う。
だけど、何時もとは違って幾重にも化粧を施された顔を見ながらため息をつく。もちろんプロがやってくれているのだから、断然元よりもいい顔にはなっているのだけれど、この化粧とこの格好で人前に出るのは一種の拷問だと思う。友人の結婚式に出席した時には素直に綺麗だな、って思えた衣装も、自分が身にまとう番になってしまえば怖気づくばかりだ。
「それに、当日になってまでそんなことを言わないでくださいよ。敵前逃亡だけはやめてくださいね、奈保美さん」
あまりよく覚えていないプロポーズからの彼の行動は素早かった。あっという間に私の両親に話をつけ、反対されると思っていた彼の家族からもすんなりと受け入れられた。
年上であることを理由に難色を示すかと思っていたのに、彼の両親はずっとフラフラしていた息子が漸く年貢を納めるといって、話はあっという間に進んでいった。私一人を置き去りにして。
もちろん、我が家サイドの浮かれ具合といったら、思い出すだけでぐったりしてしまう。
新幹線で二時間はかかる距離に住んでいる私と彼が、どうやって結婚生活をおくるのか、だとか、そういった問題に気がついてくれるものは家族には誰もおらず、最大の相談相手になると思っていた母親は、もはや聞くのも無駄な状態だったし、今でも無駄だ。
結局一番頼りになったのはもちろん彼で、女性ならではの相談事には研究室の秘書さんたちが大いに乗ってくれることとなった。今まで浮いた噂一つなく、どちらかというとたぶんとっつきにくく扱いづらかったであろう私の、最大級のおもしろい話に始終顔がにやけっぱなしだったのは、気のせいとして感謝とともに忘れる事にする。
「こんな年増な花嫁なんて誰も見たくないわよ」
「誰もじゃなくって、僕が見たいんですからいいじゃないですか、それで」
控え室にはなぜか誰もおらず、弟の報告によるとお祭り騒ぎだとばかりに両親は親戚の間を飛びまわっているらしい。こういう行事めいたものが好きなのは彼の実家も同じで、こちらもこちらで招待者へのあいさつまわりで忙しいらしい。
だから、こうやってうだうだぐだぐだ彼に愚痴を吐けたりもするのだけれど。
「僕があなたを見せびらかしたいんですよ、だからいいかげん機嫌を直してください」
いつもなら何バカな事言っているの、という突っ込みもできそうなのに、どうやら私は緊張もしているらしい。
「さあ、花嫁さん、お手をどうぞ」
促されて立ち上がる。
彼の掌に自分の手を重ね、深呼吸をする。
「行きますか」
「そうね」
そうして私達は二人で扉を開ける。
くだらないプライドも、コンプレックスもなくなったわけじゃない。醜い心は確かにまだ私の中で燻っている。だけど、前みたいにそれにとらわれて、大切な物を傷つけたりはしない。
彼の手を軽く握り締める。
大丈夫、この手があれば。
どうせ自分なんてと、捻くれた思いを抱きながら、それでも選ばれるのを待つだけの人生はやめよう。
この人と生きていこうと、二人で決めたのだから。
だから、私はシンデレラには憧れない。