中編
ふと、卓上のカレンダーに目を落とす。今日が何日だったのかを思い出そうと視線を流していくと、今日は私の誕生日だったのだと、気が付いた。
思いっきり忘れていた。
忘れようとしていたんじゃなくて、ここのところ忙しすぎて本当にころっと忘れてしまっていた。
もう何年も前から、誕生日なんて祝うものじゃなくて、ただ当たり前のように一つ年をとるだけの日となっている。だから、ああ、一年ってなんて早いんだろう、と思いこそすれ、それ以上でも以下でもな
い。ただ、今夜辺り誕生日を口実に母親からの電話がうっとうしそうだと、そんな事を思うぐらいで。
突然の間島くんの告白は聞かなかったことにした。
幸いの事に彼の方から態度を変えることもない。後は私の方がぎこちなくしなければ大丈夫なはず。新学期の忙しさにかまけて、どさくさまぎれに有耶無耶にしてしまおう。
それに、きっとあれは先輩として好意をもっているということであって、男女のそれではないはずだ。いや、そうであるはずがない。
私は彼よりも五つも六つも年上なのだから、そんなことを思うはずがない。実際に手を出されたら困るけれども、学生にも普通に女の子は存在しているし、あちらの方が見目にしても年齢にしても比べ物にならないぐらいかわいらしい。
いったい、私は何を自惚れているのだろう。
昔から勘違いをしては恥ずかしい思いをしているというのに、そそっかしいところがちっとも治らないなんて。
溜息をつきながら、自分の中でそう決着をつける。
大丈夫、何も変わらないのだから、とそう言い聞かせながら。
「やっぱり」
山程の着信略歴を目にしながら、わが親の単純行動に軽く頭を痛める。
留守電にもきっと伝言が残されているのだろう。いつものように聞きもしないで全部消去する。
やっと自分の部屋へたどり着いたのは午前零時を回ったころ。
学食でご飯は済ませてきたから、後は風呂に入って眠るだけ。
だけど、不器用な自分は仕事モードから頭を切り替えるのに色々と時間が掛かる。テレビを見たり新聞を読んだり、ゆっくりと時間を費やしながらテンションを沈めていく。そうしないと、頭の中が活性化されすぎていて、眠れないのだ。身体は疲れているというのに。
お風呂上りにバスタオルを頭から被ったまま、洗面台の前に立つ。うっすらと曇った鏡には、それでもきちんと素顔の私が映し出されている。
どこからどうみても年相応な女が映っている。お世辞にもかわいいとも綺麗だとも言える顔ではない。長年つっぱってきたせいか、険がある顔をしている。とてもじゃないけど、癒しを感じられる顔でもありはしない。
わかってはいるけれど、こうやって事実を突きつけられると少しへこむ。
どれだけ、容姿だけが女の価値じゃないと言い張ったところで、どこかで華やかな女性というものに憧れている部分はあるわけで。その矛盾した気持ちが過剰な女性性への否定にもつながっているのだろうけれど。
そこまで考えて、視線を外す。
もう、何も見たくない。
「どうしてこんなことになったんだか」
ぶつぶつ思いながらも、待ち合わせの五分前にはのこのこ現れているなんて、自分の融通の効かない性格が嫌になる。こんな場所で途方に暮れているぐらいなら、最初の段階で断ればよかったのだ。
「あ、やっぱり時間前にいた」
「悪かったわね、そういう性格で」
「別に悪い意味じゃないですよ」
にこやかに現れたのは出来るだけ避けて通ろうとしていた間島君その人で、どうやら私たちはこれから映画館に行くらしい。どうしてこうなったのか、よくわからない。
「ちょっと強引でしたからね、来てくれるかどうか心配だったんですよ」
「そう思うんならこれっきりにしてください」
私の嫌味な口調にも腹を立てる事なく、鷹揚に笑ってみせる。ここまで来て、不機嫌なままなのももったいない気がして、頭を切り替えることにする。
「まあ、いいや。映画でしょ?さっさと見に行きましょう」
「そういうところが清水さんらしいなぁ」
クスリと笑って、私の横に立つと、すっと私の右手を掴む。
何事も無かったかのように、彼はそのまま私の手を引っ張っていく。
「ちょ、ちょっと!手!」
「ん?手がどうしました?」
「離して」
「いやです」
あっさりとそういい返されながらも、彼はすたすたと歩いて行く。彼の歩調にあわせるために、私は小走りでついていかなくてはならない。転ばないようにするのに必死で、上手く言い返すことができない。
「間島君、離して」
「いやです」
何度目かの繰り返し。彼はまるで動じる様子もなく、目的地の方へとひたすらに歩いていく。振り払おうにも意外にも彼の力は強いし、立ち止まって抵抗するのもみっともなくて躊躇してしまう。
「ねえ、こんなおばさんと手を繋いでいたらおかしいでしょ??私五つ以上も年上だし」
ウィンドウに映りこんだ二人の姿を見れば、嫌でも自覚してしまう。
どう考えても二人は不似合いだ。恋人同士にも友達同士にも見えない。ヘタをすると学生にも見えてしまう彼と、この年齢の私がこうやって歩いている姿は滑稽だ、やっぱり。
「それがどうかしましたか?」
「どうかしましたかって、おかしいって言ってるの」
「どこが?」
「年の差とか、ってそれに仲間同士で手を繋ぐのって変でしょ?」
そう、なぜだか根本的なところを忘れていたけれど、私と間島君は研究室のスタッフ同士という関係以外なにもない。だからこういうのはやはりおかしい。
「別に、僕は気にしていませんから」
「私は気にするの!」
唐突に歩みを止めて、彼はこちらを振り返る。繋いだ手はそのままで。
「そんなことを気にするような男だと思っていたんですか?僕のこと。それに、告白を否定されたわけじゃないから、こうやっていても変じゃないでしょ、別に」
まるで筋が通っていないお話でも、これほど堂々とされれば呆気にとられてしまう。
私が呆然とした隙に、彼はあのニヤリとした笑顔を浮かべ、また歩き始めてしまった。
これではまるで、肯定してしまったみたいではないか。
彼のペースに乗っけられたまま、映画館にくっついていった私は、後になって何の映画なのか思い出せないほど混乱していた。この年になってこんなに余裕がないのはなぜなのだろう、と隣で悠々と映画を観覧している彼を睨みつけることは忘れなかったけれど。
「ふーん、紅茶も好きなんですね」
「ん?普通に好きだけど」
「いえ、研究室ではコーヒーしか飲んでないみたいだから」
「ああ、面倒くさいだけよ、紅茶入れるのが」
「ひょっとしてティーパックいれて捨てる、の手間が、とか?」
「悪かったわね、インスタントならボトルから入れて、お湯を注ぐだけじゃない。砂糖もクリームも入れないし」
「合理的というか、究極ですね」
いつのまにか映画も終わり、お茶などを飲んでいる。なぜだろう、あのまま帰ろうと思ったのに。
だけど、他の人と外へ出て何かをすることが久しぶりすぎて、なんとなく楽しいのだ。ここは私の地元ではないし、地元にも友人は少ないから、こうやってただ映画を見たりお茶をしたりするような機会はあまりないのだ、悲しいことに。基本的に一人で行動することが好きだから、そうやってはいるけれど、たまにはこういう風に過ごすのも悪くは無い、なんて思い始めている。
「そういえば、年下嫌いなんですか?」
「は???」
思わず手にもったカップを落としそうになる。がらりと真面目な雰囲気に変化した彼を見て、慌ててカップをソーサーの上へと戻す。
「嫌いというか」
「嫌いというわけではないんですね」
「意味にもよるけど」
「恋愛対象としては?」
「……」
「即否定しないということは、可能ということですか?」
「間島君にはもっといい人がいると思う」
「それは僕が決めることですから」
「何もこんなに年上を相手にしなくても」
「と言う事は、告白は認めてくれたということでいいですか?」
しまった、と思った時には手遅れで、彼は例の笑顔を浮かべていた。
「あまりにも態度が変わらないからどうしようかと思っていたんですよ。ちょっとぐらい動揺してくれてもいいのに」
嘘だ、あんなにうろたえていたのに、この人は何を言っているんだろう。心の声が思いっきり顔に出ていたのか、彼は溜息をつく。
「基本的にポーカーフェイスですよ、清水さんは。だからこそあんな風に意表をつくやり方をしてみたのに、一回目はかわされて二回目は無視されて。どうしようかと思いました」
「聞かなかったことに」
「ダメです。こっちも真剣なんですから、真剣に答えてもらわないと」
「だったら」
「いきなり断らないで下さい。まだ僕のこと知らないでしょ?」
「でも」
「年の差なんて気にしないでください。まったく全然気にしていませんから」
「そっちはそうでも」
「それ以外に気にするところがどこにあるんですか?僕は気にしない。周りの事は放っておいたらいいんです」
私の会話の先を遮るようにしておまけに退路までたってくれる。彼の頭が回るのか、私の回転が愚鈍なのかわからないけれど。
「本気には本気で答えてください」
小さく「はぁ」と頷いて、なんとなくその場は押し切られてしまった。
「だーーかーーらーー、まだまだ結婚する気なんてないから」
実験室にも当然電話機は設置してある。出入りの業者や事務、本当に緊急の用事でしか掛かってこないため、あまり出番はないのだけど。
その電話から一番近い作業場を陣取っているのが私で、必然的に電話に出る機会も一番多い。今日もどうせ業者だろうと高をくくりながら受話器を耳に当てた。第一声を放った瞬間、怒涛のような声の洪水に思わず受話器を静かに置いてしまいたくなった。
「あのね、今仕事中なわけ」
かけてきたのは母親で、この間の留守電をまるっと無視したことに腹を立てているらしい。どうせ同じ事しか言わないのだからと、放置しておいたら、倍のスケールで逆襲にあってしまった。
結婚しろ、仕事なんかやめろ。とここまでは相変わらずの主張だが、今回はそれに実際の見合いについて話しまくっている。会話を中断することもできず、少しだけ受話器を耳から離しながら聞き流す。
どこから集めてきたの?という男性達は、申し訳ないけれど、その人たちと結婚するぐらいなら一生独身でいた方が遥かにましだと思わせるもので、わが親ながら娘がかわいくないんだろうか、と訝しんでしまう。
もちろん、恋愛感情さえあればどんな相手でもかまわないけれど、お見合い相手といえば、本音のところを言えばスペック勝負だろう。条件があって初めてお見合いをする、そこで相手と気が合えば成立と。少なくとも私にとってのお見合いはそうだ。最初のハードルが越えられなければ会う事すらままならない。だから、私の方としても見合い市場においては高齢なため、条件が悪いと言う事は承知している。だけど、それを差っぴいてもひどい相手ばかりが羅列されている。
「で、かーさん、そんな相手でも結婚して欲しいわけ?」
やっと話し終えた母に、ようやくこれだけのことを言い返せた。
受話器の向こうで母親がヒステリックに叫んでいる。母の言葉を知覚した途端、全身から力が抜けずるずると床へと座りこみそうになる。
ここは仕事場だ、と自分自身に言い聞かせ、静かに受話器を置く。はじめからこうすれば良かったと、そうすればあんな言葉を聞くこともなかったのにと、後悔をしながら。
「どうしたんですか?」
「え?あ、ううん、なんでもない」
たぶん空中に視線が固まっていたのだろう。不自然な私に間島君が話し掛ける。だけど、彼に何かを言い返す気力もない。
彼の言葉に我に返り、途中になっている作業を開始する。何もかも忘れるように、一心不乱に手元だけを見つめて。
「飲みに行きませんか?たまには」
張り詰めすぎた空気はさすがに夕方になると切れてしまった。
そうなると一気に気分はぐだぐだになっていく。これ以上実験することも雑用をこなす事も、まして論文を書くなんてこともできないまま、ぼんやりとディスプレイだけを見つめる。
後ろに人の気配がして、振り返ると、間島君が真面目な顔をして突っ立っていた。
「そんな気分じゃないから」
「そんな気分ですよ。顔色悪いし」
「だったら家で寝てます。調子悪いし」
「体の調子じゃないでしょ?どう考えてもそのまま帰ったって寝れやしませんって」
図星を突きまくる。どうしてこの人は手にとるように私のことがわかってしまうのだろう、こんなにも私よりも年が若いくせに。だからこそ、このまま彼に流されていくのが恐いのだ。
「おいしいもの食べたら少しはよくなるんじゃないですか?単純ですけど」
「食欲ない」
「余計に食べないと、おいしい店知ってますから、あんまりおしゃれなところじゃないですけど」
「まあ、あんまりおしゃれなところでも気が引けるし、って、行くわけじゃないから」
「じゃあ、三十分後でいいですか?案内しますから、研究室の入り口で」
まんまと乗せられた格好で、あっさりと彼は行ってしまった。これではいつぞやかの映画の時みたいではないか。
ため息をつきながら、一瞬でも母親の言葉を忘れられた自分に驚く。
「恥ずかしい子、か」
呟きながらパソコンの電源を落とす。 そんなに遅い時間でもないのに、助手部屋には私以外誰もいない。呟いた言葉は私以外の耳には届かない。
母親にそう思われてしまったら、私の存在価値はどうなるのだろう。
机に鍵をかけ、キーホルダーから部屋の鍵を探し出す。
バックを抱え部屋から退出する。
カチリとドアに鍵を掛けキーホルダーをバックへと戻す。
非常灯以外の光がない廊下を一人だけで歩く。
世界中で私以外の人間が存在しないかのような錯覚に陥っていく。
私は、“恥ずかしい子”なのだから。
間島君のアレが告白だったと認めてからも、私たちの関係は表面上何も変わらない。ただの同僚。先輩と後輩。ただ、二人きりになったときの近すぎる距離と、彼の視線に胸が疼く瞬間がある。
彼は客観的に見て、いい男だとは思う。容姿が、というわけではなくて、彼の今まで培ってきた経験がいい意味で顔にでている。バイトのしすぎで留年することになったという経験ですら、一心不乱に勉強しかしてこなかった私からしてみれば、人間性を豊かにした貴重な寄り道だとさえ思えてくる。だからこそ痛感するのだ、私はつまらない人間なのだと。今まで強いて考えまいとしていた事実が明確に浮かび上がる、彼の存在によって。
学生の頃から勉強しか取り得がなかった。その取り得も本当に頭の良い人たちに比べたら情ないほどで、努力しているところを見られないように強がりながら、必死に喰らいついていただけだ。おまけに、友達づきあいもへたくそで辛うじて経験したデパートでのバイトも、周囲から何気なく浮いていた記憶しかない。あの頃は今よりももっと頭でっかちで、正しいことしかしないし言わない、だなんて粋がっていたけれど、人生経験の浅い子どもがきぃきぃ喚いているだけだったと思う。だけど、そこから自分が何を得て、何が変わったのかというと、結局のところ何も変わっていないのだ。相変わらず私は頭でっかちで気位ばかり高くて、周囲と折り合いをつけることさえできていない。ただ、周囲と馴染んでいないと気が付くことができるぐらいは進歩しているのかもしれない。
「いい返事はもらえませんか?」
「……」
彼は飄々として、固い話の間に、ふいにこんな風にプライベートな会話を混ぜ込んでくる。私が混乱することを狙っているのだろうけど、学習できない私はあっさりとその術中にはまってしまう。
本日も本日で、内心ばかりあせって気の効いた返事などできるはずもない。
彼の方は相変わらず余裕の笑顔でこちらを眺めている。悔しいけれど、今口を開けば、明後日の方向へと会話が飛びそうでそんなことできない。
「どうしてそんなに拘るんですかね、年齢に」
「普通は拘るでしょ、普通は」
彼自身を拒否する理由が見当たらない私は、もっぱら年齢差を理由に首を縦に振らない。もっとも、横にも振らせてもらえないのだけど。
「たかだか五つじゃないですか。男女の寿命差を考えればちょうどいいぐらいですよ」
「そんな先のことを言われても」
確かに女性のほうが長生きをするけれど、そんな人生において先の先の話をされても納得できるはずもない。
「もっと若くてかわいいこはいくらでもいるでしょ」
「いくらでもいますよ、そりゃあ」
「だったら」
「でも、僕には清水さんしかいないですから、関係ありません。いくらそういう女性がたくさんいたとしても」
絶句するしかないほど鮮やかに言い切ってみせる彼は、自信満々だ。
そんな態度に押されっぱなしの私は、後はもう押し黙るしかない。
「まあ、そう簡単にうなずくとは思っていませんでしたから、長期戦でいきますよ」
彼はそう言い置いて、自分のカップを手にしたまま実験室へと消えていった。
ほんのりと頬が熱を持つ。
あんな風に言い切られて、嬉しくないわけじゃない。
だけど、だめなのだ。
彼が信頼できないわけじゃない。彼のことが嫌いなわけじゃない。
私は私を信用できないだけなのだ。
このまま彼を受け入れて、その先にあるものが恐い。いや、もっと前に、こんなにつまらない女だったのかと言われてしまうのが嫌だ。殻ばかり丈夫で、中身がからっぽな私をみられたくない、これもつまらないプライドだろうか。
そんな答えの出ない問題をぐるぐると考えながら、やっぱり、自分は何一つ成長していないのだと、ため息をつく。
「間島君」
そう言いかけた言葉を丸ごと飲み込む。廊下では彼と女子学生が一緒にいたからだ。
今、私が立っている場所からは彼の顔を窺うことはできない。
もちろん、その女子学生は研究室の女の子なのだし、真面目そうな顔をして、たぶん実験についてでも話し掛けているのだろう。二人が醸し出す雰囲気はまさに師匠と弟子さながらの、甘い雰囲気とは程遠いものなのはわかっている。
だけど、ドキリとしたのだ。
若い女性と立っている彼を見る。
以前鏡に映った私と彼の姿を思い出す。
彼の隣にいるべきなのは私ではない。
そうはっきりと知覚してしまった。
チリチリと胸の奥が焦げ付く思いがする。自分でそう言っていたくせに、間島君と私は不釣合いだと他者から念を押されたようで、矛盾しているけれども捻くれた思いを抱いてしまう。
やがて、私に気が付いた彼が、何気なく笑顔でこちらへと寄って来たのに、精一杯の無表情で踵を返してしまった。まるで八つ当たりをするかのように。
こんな関係は嫌いだ。
だけど、こんな自分はもっと嫌いだ。
「何か用事があったのではないのですか?」
相変わらず深夜になるまで実験室に篭っている彼とは、こうやって深夜に顔を合わせる羽目になる。あれからずっと避けていたと言うのに、同じ研究室の人間同士では、逃げ回るといっても限界がある。
「別に、用というわけでは」
「それにしては随分不機嫌そうでしたけど」
「そんなことないと思うけど?」
素っ気無く、内面が滲み出る事がないように応える。年下の癖に全てを悟りきったような顔をする彼にどこまで通用するのか恐いけれど。
「わかっているとは思いますけど、実験の話をしていただけですよ?」
いきなりの主張に数拍頭が回転しなかった。ゆっくりと彼の言った事を反芻していき、意味が理解できた頃には拳をぎゅっと握り締めていた。
「そんなことはわかっている」
嵐のような心を知られたくなくて、感情の篭らない返事を繰り返す。
「一応念のため言ってみただけです」
私の自尊心を刺激しないようになのか、早々にこの会話を打ち切る。そのあたりの勘のよさに腹立たしささえ覚えてしまう。
「やっぱり、間島君には年相応の子が似合うと思う」
大学でプライベートな話をしないようにと、あれ程釘を指していた張本人だというのに、スラスラとこんなかわいくない言葉が飛び出してしまう。
「こだわりますね、そこのところに」
「あたりまえじゃない。私みたいなみっともない子を連れて、恥をかくのはそっちなのよ?」
「みっともないって、誰が言ったんです、そんなこと。大体そんな非常識なことを言う人間は放っておけばいいんです」
まさかそんな事を言った人間が実母です、とも言えず、わだかまったままの思いが胸の中で膨らんでいく。
「だいたいどうしてそんなにこだわるんですか?大事なのは中身でしょう」
「それは、そうだけど」
一ノ瀬君に外見だけで相手を選んだと、罵った自分の姿が浮かび上がる。
「外見だとか年齢だとか、そんなことはどうでもいいことでしょうが」
大事なのは中身だと。
「僕があなたのことを好きだということは認めてもらえないんですか?」
違う、そんなものは建前だ。
「好きだとも嫌いだとも言わない。なのに年の差だけで拒否するなんて」
年の若い彼と比べられるのが嫌で、他の多くの綺麗な女性達と比較されるのが嫌で、その全てを隠しとおして便利な言葉で覆っていたのは自分だ。
「返事を、聞かせてもらえませんか?」
間島君のこちらを全て見通すような視線が嫌いだ。
自分の中の腐った部分があからさまになっていくようで、これ以上惨めな思いをしたくない。本当はわかっている。外見だけで判断するような男たちを批判しながら、自分の中でもそういう矛盾を抱えてしまっていることぐらい。いつだってどんなときだって、外部からの評価を気にしてびくびくしていたのは私の方だ。コンプレックスを認めたくなくて、自分はこれだけやったのだから価値がある人間だと思い込みたくて。
「悪いけど、ポスドクなんて言葉はいいけどアルバイトでしょ?それに出身大学だってあれだし。おまけに浪人して留年??」
嫌だ、嫌だ。
こんなことを言いたいんじゃない、こんな顔をさせたいわけじゃない。
だけど、一番嫌いなのは狭量で世間知らずで無知な、私自身だ。
「私とつりあうと思っているわけ?」
全ての音が消えていく。
能面のように固まった彼の顔と、その視線にさらされたくなくて真正面から彼をみることができない私。
やがて彼は静かにこの部屋を去っていった。
惨めでみっともない私だけを残して。