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前編

 ずっと夢に見ていたのは、誰よりもいい成績をとっていい会社に入ること。そうすれば、世界で一番親孝行な子どもになれる、そう信じていた。






「清水先生?」

「あ、ごめん。ちょっと考え事」

「あんまり根を詰めると倒れちゃいますよ」

「丈夫なだけが取り得だから」

「そんなこと言う人間が一番危険なんですよ。過信しすぎで」


なんとなく、踏み込みすぎるこの同僚に馴染めていない私は、曖昧に笑う。

勘のよい彼はそれだけで、それ以上私のテリトリーには踏み込んでこない。

だけど、学習しないのかわざとなのか、ギリギリのラインを狙って私の方へと近寄ってくる。

と、考えるのは自意識過剰なのか。


「そういえば一ノ瀬先生が結婚されるみたいですね」

「ええ、知ってる。もちろん」

「一度婚約者の方も拝見しましたけど、むちゃくちゃかわいい人でしたよね」

「そう?そう、ね。かわいい人」


一ノ瀬君に余計なことを言って釘をさされて以来、彼女に会ったことはない。

もっとも、そうでなくても、彼女に会うつもりはなかったけれど。


「清水先生はどうなんですか?」

「ん?」


何百回と聞かれたであろうセリフを予感して、一瞬にして身構える。


「いえ、予定とかないのかなぁ、なんて」

「残念ながら、予定はありません。私みたいなじゃじゃ馬を貰ってくれる人なんて、現れないんじゃない?」

「そんなこと、そんなことありませんよ!」

「ありがとう、間島君が優しいのはわかったから、仕事に戻りましょ」


今年研究室に雇われたポスドクの彼は、ドクターを卒業してからそのままこの職についたせいか、未だに少し学生気分が抜けないところがある。そこが若々しいと言ってしまえばそれまでだけれど、こんな風に、あまり他の職員が遠慮して聞けないでいる質問をさらりと浴びせ掛けることがある。

その度に、周囲の方が固まるのだけれど、あれだけ境界線を意識して会話をしている彼が、こういったことに関してはまるで無頓着になるのが不思議だ。それに、固まっている周囲にしても好奇心の色を隠せていない。だったら、間島君のように直接聞いてくれるほうがはるかにましだ、田舎の親戚達のように。

女が三十をとっくに過ぎても独身でいるのは、よほどおかしなことだと思っているのか、母を筆頭に、ひっきりなしに縁談を進めてくる。別に、こちらでは私のように働いている女性は少なくないというのに、どれだけ声を高くして言い募ってみても、彼女達の価値観は変わることはない。しかし、今の年になって、それはそれで仕方がないとも気が付いた。半径五キロメートルぐらいが世界の全てで、近所中が血縁関係だという土地で暮らしていれば、その価値観に染まった方が生き易いだろうから。

だけど、困った事に、割と都会であり、あらゆるところから人が流入してきている職場でも、そういった空気を感じる時がある。

彼らが感じている好奇心が、ただの純粋な興味からくるものならいいのだけれど、ひょっとしてひょっとしたら、根底に流れているものが「私の年で結婚しないのはおかしい」と思っているものだとしたらば、ますます息苦しくなってくる。

普段は努めて考えまいとしていることも、同僚の結婚、弟の結婚と立て続けにやってくると、考えざるを得なくなってくる。

まして、来週は久しぶりに実家に足を踏み入れるのだから。






「いいかげん、結婚せんと」

「そんな時期じゃないって言っているでしょ」

「フラフラばっかして、やーっとアメリカから帰ってきたと思ったら、今度はN市だなんて」

「やっと定職につけたんだから、褒めてよね。このご時世どれだけアカポスを取るのが難しいかわかってる?」

「そんなものより、さっさと結婚して孫の一人でも見せてくれた方が、なんぼか親孝行です」

「子どもなんて、育児休暇とったら復帰するのに時間がかかるじゃない!馬鹿馬鹿しい」

「まったくこの子は。同級生のみーちゃんもふみちゃんも二人も三人も子どもを産んで、立派に育てているのに。どこでどう間違ったらこんなになっちゃったのかねぇ」


そのみーちゃんもふみちゃんも、中学校時代は、「あんなに成績が悪くて将来が心配だねぇ。それに比べてうちの子は!」って、悪い基準にしていたのは、すっかり忘れ去っているらしい。今では彼女達の立場と、私の置かれている立場は完全に逆転している。母親の暮らしている世界の中では。




曰く、さっさと結婚しろ、仕事なんかやめろ、親の近くに住め。

そのどれからも遠ざかっている私は、彼女のストレスの原因ワーストワンだそうだ。

だからといって、今の生活を改める気も手放す気も毛頭ないのだが。

敷いた新聞紙の上に右足を乗せ、丁寧に足の爪を切っていく。母はお茶をすすりながら何やらブツブツ文句を言っている。父親は相変わらず知らん振りをしながら野球中継を眺めている。ずっと変わらないはずの家族の団欒の時間が、これほど苦痛を帯び始めたのは大学を卒業したころからだったろうか。

元々、我が家は教育熱心な家庭だった。

時代柄行きたくても上の学校へ行けなかった両親は、長子である私にはぜひとも大学へ進学してもらいたかったらしい。そんな最初はささやかだった望みが膨らんでいってしまったのは、なまじ私の学業成績が優秀だったせいだろう。田舎ならば、当然注目を浴びるべき長男である弟の成績が、かなりぱっとしなかったせいでもある。

常にクラスでトップ、当然学年でもトップクラス。そんな成績を我が子が収めれば、当然親も期待をする。望み通り地域では一番偏差値の高い高校へ進学し、そこでも幸いよい成績を取りつづけていた。ヒートアップしてまるで冷める気配の無い親の教育熱は、進学率を上げたい教師サイドから、さらに煽られる結果となる。地域で一番の高校から日本で一番の大学へ。

そのためには、それこそ昼夜を問わず勉強するしか私の取る道は残されていなかった。

成績が良かったとは言え、頭そのものが良いとはいえなかった私は、人一倍勉強することでしか、その成績を維持する事ができなかったからだ。

だからこそ、親の期待にこたえるべく、一生懸命勉強した。学生らしいことも、何もかも振り切って。

気が付けば、望み通りの大学へ進学する事ができた。

これでやっと、親から褒めてもらえる。

望み通りの事をしたのだから、私は一生彼らにとっていい娘であると信じて疑わなかった。

だからこそ、私が就職先で悩んでいた時に母親が放った一言が忘れられない。


「なんなら、結婚すればいいじゃない。あんたの学校なら選び放題でしょ?女の子が就職して苦労するなんていいことじゃないし」


最初は何を言っているのかわからなかった。

あんなにも進学を希望していたのは、そこできちんと学んで活かすことを望んでいたからではないのか?やがて、その言葉の意味が脳まで達した時には、愕然として、一言も発することができなかった。

結局、私は嫌がらせのように、進学する事に決めたのだ、大学院の方へ。

そこから先は同じやりとりの繰り返し。

どんどん進学を決めた私と、それに対して愚痴をいう母親。


「女の子がそんなに勉強してどうするの?だいたい理系だなんて、そもそもお嬢様大学に行っとけば良かったのよ、そうすればこんな余計な事をしなくてすんだのに!」


私の研究も学業も何もかも余計な事と言い切られてしまう。

いつのまにか口答えすることが少なくなり、一人で自分勝手に話し掛けている母親をおざなりに相手にすることが多くなっていった。

いくら、弟の結婚式のためとはいえ、のこのこ実家に泊ってしまったのはまずかったのかもしれない。そう思い始めるほど、母親の愚痴はエスカレートしていく。

まあ、弟の方が先に結婚をする、という事実が母親を焦らせているのだろうが。




「よ、ねーちゃん」

「馬子にも衣装とはこのことね」

「他に言う事はねーのかよ」

「別に、男なんて結婚式じゃ、刺身のつまみたいなもんでしょ」

「だったら、あいつを見に行ってやってくれよ」

「や、家族水入らずを邪魔しちゃ悪いし」

「んーー、そうか?そういうの気にしないと思うけど」

「あんたは能天気だから」


久しぶりの対面が、弟の式の控え室だとは、笑わかせてくれる。そういえば、ここ何年も盆も正月も実家の事は忘れたフリをしていた。

間が開いたからといって、これといって話すことの無い私は、次々やってくる彼の友人達にその場を譲る。

今日主役となる弟を眺める。

現実感が伴わなくて、夢を見ているようだ。

その日は、親戚達の意味深な視線に気が付かないフリをしながら、現実味の無い一日を過ごした。


明日からは、また日常が始まる。




 一ノ瀬響という人は私にとって特別な存在だった。

年が同じなせいか、同じぐらい学校に存在しているせいか、私と一ノ瀬助教授は比較されることが多い。もちろん、同じ大学の出身でさらに同期であるから共通点がないことはないのだけれど、最近彼が結婚を決めて、ますますそのような話題を一ノ瀬君にかこつけてふってくる人間が多くなってきたのにはうんざりしてしまう。

赴任してくる前は、彼と同じ職場で働けることに少しだけ嬉しさを感じていた。数少ない、私の中で尊敬できる異性であり研究者である彼の近くで研究できるということは、私の研究人生においてもその他においても意味のあるものだと思っていたからだ。

なのに、彼の隣には、学生時代の彼女とは似ても似つかないタイプの女性が存在していた。


「馬鹿って、あなたも偏差値でしか判断できない人間なのですか」


現実を受け止めきれなくて、散々悪態を吐いた結果、吐き出した私の失言は、一ノ瀬君にあっさりとこう返された。

もうすでに数年の時を経ているというのに、鮮明に頭にこびりついている。

話があると言って私の居室にまでやってきた時には、てっきり彼女と別れたと、報告しにやってきたのだと思った。

だって、どう考えても彼女は彼に相応しくない。一ノ瀬君といえば、公正な人柄で、研究者としても一流だ。そんな彼にはやはり、それなりの妻が必要だろう。たとえば、彼女が大学教授の娘だといオプションがついていたのなら、それはありかもしれない。

けれども、何の後ろ盾も資産もなく、おまけに自分自身が三流大学の女子大生とくれば、足を引っ張る要素しか思い浮かぶ事ができない。なにより、彼自身にはお互いを高めあっていく相手が相応しいのだと、学生時代から思っていたのだ。

当時の同級生だった彼女のように。

だけど、結局彼が選んだのは、見た目がいいだけの小娘。

彼だけは対等に渡り合える相手を選ぶのだと信じていたのに。

他のクラスメート達が私たち、女子学生をどうみているかは、割と知っていた。「かわいげがない」「生意気」「女は少しぐらい馬鹿な方がいい」、そんな軽口を平然と私たちの前で叩く馬鹿もいた。だからこそ、その中にあっても彼だけは違うと思っていたのに、その思いが木っ端微塵に破壊されていく。

私自信の価値も全てが否定されたような気分になる。

彼女を選んだ彼。

誰からも選ばれない私。

取りとめのない文章の羅列となった草稿を全てゴミ箱へとぶち込む。

イライラが止まらない。






「どうしたんすか?最近調子悪いみたいですけど」

「そんなこと、ないと思うけど」

「いーや、なんかカリカリしてますって」


図星をさされてはいるものの、虚勢を張って、彼を遠ざける。なんとなく、人と係わり合いになるのがうっとうしいのだ。特に、男性とは。だけど、ここは研究室の公共スペース、専門書や共有のパソコンが置いてある家でいうところの居間のような場所だ。インスタントだけれどコーヒーや紅茶などもポットと合わせておいてあるため、こうやって人が集まってくるのはいたし方が無い。例え、今が真夜中で、教職員がいるのにもかかわらず、学生のほとんどが帰宅した後であっても。

他講座の助教と相部屋になっている私の根城にも飲み物は置いてあるけれど、生憎と現在はドクターと助教の舌戦真っ最中とあって、さすがに寛げない。仕方がなくこうやってここへと逃げては来たのだけれど、すぐにポスドクの間島君が寄って来た。他の学生さんとは一日中顔を合わせない日もあるのに、なぜだか直接関わりあいのない彼とは最低一日一回会話を交わすのはどうしてなのだろう。


「そーいえば、弟さんの結婚式に行かれたんですよね」

「教授から聞いたわけ?おしゃべりよね、あの人も」

「まあ、そう言わないで下さいよ、あの人なりに清水先生のことを心配しているんですから」


そんなことは、わかっている。

親子ほども年の違う教授は、なにかにつけ私の身辺を気遣ってくれる。それが時にはうっとうしいこともあるけれど、それでもやっぱりありがたいと思う方が上回っている。

思い余って、私に見合い話を持ってこようとしてきた時には、本気でどうしようかと思ったが。


「うちも、おかんが煩いんですよねぇ」

「うるさいって、そんな年でもないでしょ?間島君は」


珍しくうんざり、といった表情をする彼を見て、思わず聞き返す。こうやって私の方から積極的に会話に入っていったのははじめてだったと、後で気が付くのだけれど。


「いえいえ、俺の実家はド田舎ですからね。もう煩いのなんのって。おまけに二浪一留年でしょう?無駄に学生長くやっていますから、心配するのはわかるんですけど。救いはあんまり目立たない三人兄弟の真ん中ってところかな?上の兄貴なんて逃亡するために海外勤務を希望しやがりましたから」

「そう、やっぱり間島君のところも色々あるんだ」

「ところもって、ああ、そういえば清水先生のところも結構な土地でしたよね」

「はっきりと田舎って言えば?人口密度がうすーーーーーーい、何にも無い土地なのには違いないんだから」

「まあ、田舎には田舎のよさもあるんですけどね」

「鬱陶しさもついてくるけど」

「それはセット販売みたいなもんですから」


あっという間に彼の人懐っこい会話の流れに乗っかってしまった。普段はこんなに話はしないのに、ペラペラと自分の事を話してしまっている。


「間島君のところも早く結婚しろって?」

「ええ、もちろんですよ。結婚しろ、子ども作れ、田舎に帰って来い。の繰り返し」

「どこも同じなのかしらねぇ」

「やーー、どうでしょう。そうじゃない親もいますよ、絶対」

「後十年ぐらいしたらいい加減言われなくなるのかしらね。私の場合は子どもが産めない年にでもなれば、諦めてくれるだろうけど」


ポツンと呟いたような言葉に、間島君が反応を示す。


「ええ!清水さん。結婚しない気ですか?」

「いえ、しないって決めたわけじゃないけれど、相手もいないことだし」


私としても別に頑なにしないと決めているわけではない。ただ、相手がいないだけだ、悲しいことに。

それに、若いうちから男性サイドの本音というのを聞いてきたせいか、本当の事を言うと、恐いのだ。真面目に向き合うのが。

あの一ノ瀬君ですら、相手にはかわいくて御しやすそうな女性を選んだのだ。

私のように高飛車で鼻につく女をいいと思ってくれる人間がいるとは思えない。


「相手、本当にいないんですか?」

「いないわよ。いたら紹介して欲しいぐらい」


さしておいしくもないインスタントコーヒーを入れなおしながら答える。こういった質問にはこうやって冗談ぽく返しておくのが正解だと、長年の経験から学んだのだ。

だけど、いつもなら笑って終了するはずの軽い会話も、終わってはくれなかった。


「あの、本当にいないんですよね」

「いないわよ。大体いるように見える?こんなに学校にへばりついているのに」

「それだったら、一ノ瀬先生だってあんなに学校にいるのに、見つけてきたじゃないですか」

「それは、まあ、そうだけど。ともかく私は本当にいないわよ、影も形も!」


ぼんやりとコーヒーの表面を眺めながら、一息、その白い湯気を揺らす。

その湯気の向こうでは、間島君が真面目そうな顔をより一層真面目にさせてこちらを見つめていた。

その視線がなんだか痛くて、なんとなく逸らす。このスペースに流れた間がなんとなくいてもたってもいられないような気分にさせ、無理にカップに口をつける。


「好きな人も、いないんですか?」

「間島君、そういう質問には答えたくない」


まだ飲み込むには熱い液体が舌の上に流れていき、舌の上にぴりっとした痛みが走る。


「清水さん、僕は」

「聞きたくない!!」


二人の間でカップが派手な音を立てて割れていく。

その音に気がついたのか、まだ実験をしていたであろう学生が顔を出す。

学生さんは、ぶちまけられた液体と、カップの惨状を見て、慌てて掃除道具を取りに行く。

我に返った私は、慌ててマグカップを拾い上げる。

雑巾と箒を持ってきた、学生が私の前に現れた頃には、間島君はどこかへといなくなっていた。


 気まずい。

思いっきり気まずい。

間島君はあれからも、以前のスタンスで私と接してくれている。それに引き換え私の方はというと、普通に振舞おうとしてやけにテンションが高くなって余計な事をしゃべりまくっては、後悔する、というのを繰り返している。

彼があの先何を言おうとしていたかはわからない。あの先に続く言葉もわからない。今まで味わった事のないような雰囲気に怯えて、瞬間的に忌避してしまったから。

これではまるで自意識過剰で妙な自尊心がやたらと高かった思春期の頃のようだ。いや、あの頃は受験受験に追いまくられて、そういった時期をきちんと過ごしていなかったせいかもしれない。

ここにきて、思考は一向にまとまらない上に、やっぱり間島君に対しても変に意識してしまう。また、意識している自分を知られたくなくて、余計にぎくしゃくしてしまう。悪循環だ。

なんてことない風で私に接触してくる間島君の飄々とした顔にすら、八つ当たりをしたくなってしまう。






「そんなに構えなくても」

「別に、構えているわけじゃないけど」

「視線、泳いでますよ」


久しぶりに研究室の公共スペースで間島君と一緒になる。しかも二人きり。

逃げ出すのも不自然で黙り込むのはもっと不自然で、会話のきっかけを探しあぐねていた私に、彼が先に切り出してきた。


「ひょっとして、って失礼な事聞きますけど、彼氏いたことあります?」

「ほんっとーに、失礼ね。それぐらいいました」


ここ最近は常に過去形で言わなくてはいけないことが悲しいけれど、こんな私にもいたのだ、彼氏という存在が。


「それにしては、なんというか。世慣れてないですよね」

「そういう間島君は慣れてるわけ?まじめそうな外見をしているくせに、意外よね」

「別に、僕は平凡な人間ですから、平凡な人間関係しか築いていませんよ」

「どうだか、そういう善良そうな人間程、影でなにをやっているかわからないもんね」


立派に八つ当たりだ。自覚はあるけれども、済ました顔を見るにつけ、なにか一言言ってやりたくなるのだ。


「そこまで器用じゃないですから、自分」


棘棘している私をあくまで彼は柔らかく受け止める。年下の癖にやけに余裕のある態度に、さらに腹が立ってくる。

からっぽになったカップをもてあそびながら、黙りこくる。今、口を開けば嫌味しか出てこないと思うから。


「そういえば、この前の続き、言っていいですか?」

「ここで相応しい話なら」


急展開で精神的な距離を一気に縮められる。彼の行動を読めなくてアレほどまでにイライラしていたのに、今では戸惑いの方が大きくなっている。


「ふさわしい、とはいえませんね。確かに」

「だったらやめて」

「じゃあ、学外だったらいいんですか?」

「学外で会う理由なんてないから」

「ありますよ、理由なんていくらでも」


ステレオタイプな理系人といった風貌の彼は、繊細さはあってもこういう強引な物言いは似合わない。だからこそなのか、ミスマッチな言動はやけにリアルで迫力がある。

私はといえば、立場も年齢も差があるはずなのに、押されっぱなしになっている。


「研究体勢を整えるための親睦を図るため、でもいいですし、なんならもっと個人的な理由でもかまいませんよ」

「親睦なら歓迎会で済んでるし、個人的理由は却下」

「理由は?」

「悪いけど、職場の人間とは必要以上に仲良くする気はないから。外で会うのなら他の職員も混ぜたところで会いましょう」

「ガード固いっすね」

「普通だと思うけど」

「まあいいや、機会があったらまた誘いますから」

「ないない、未来永劫ないから」


穴が開きそうなほど何も満たしていないマグカップを眺めながら、なんとか彼とのやりとりを交わす。いつもは花も踏まなさそうな優しげな人間なのに、今対峙している彼はまるで猛禽類のようだ。


「そういえば、もうすぐ中間発表ですね」


唐突に、話題がオフィシャルなものへと切り替わる。鮮やかな切り返しに数秒頭が混乱する。


「今年の子達はいい子だけど切れがないから」

「まあ、そうそうシャープな人間ばかりじゃないですから」

「ずるをする人間じゃないから、それはいいところだけど」


そこから先は、いつも通りの会話が展開された。お互いの研究のことやら、今の学生について、自分が学生だったころについて。話題があちこちへ飛びながらも、機知に飛んだ彼との会話は、やはり楽しい。

実験の待ち時間が終わり、自分専用のカップを流しで洗う。

彼の方はまだ待ち時間が残っているのか、足を組んだままどっかりと椅子に座ったままである。


「じゃ、まだ処理が残ってるから」


そう言い残して入り口から半歩出かかったところで、彼から声がかかる。何か言い忘れたことでもあるのかと、無防備に振り返る。

彼のニヤリと笑った顔が見えた瞬間本能が何かを告げる。ギクリと固まった私に彼は容赦なく追い討ちをかける。


「清水さん。好きですよ」


サラリと言い放った彼は再びニヤリと笑い、別の入り口から彼の実験室へと出て行ってしまった。

何も言えず何もできなかった私は、呆然とその場に立ち尽くすのみ。




 しばらくして我に返った私は、何事もなかったかのように実験を続ける。

何をどう処理したのかも思い返せなかったけれど。

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