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異世界から聖女が召喚されたので身を引こう…としたらブチ切れられた話

作者: Koooda

お立ち寄りいただきありがとうございます。

タイトルそのまま、全てです。

相変わらず戦いの描写は少なめ。のんびり異世界、お楽しみください。



 異世界から聖女を召還することに成功した。


 その嬉しいニュースは瞬く間に王国中に広まった。


 近年、魔獣の出没頻度や凶暴性が上がっていることに魔王の復活が関連していることは誰もが知る事実だった。

 唯一魔王を封印することが出来る聖女。その力をもつ聖女を異世界から召還することは王国の悲願であった。


 王国中の魔術師が力を合わせ、文献を読み漁り、何度も魔法陣を描いて失敗して。

 ようやく。

 ようやく。

 百五十年ぶりに聖女の召還が成功した。

 その知らせに国中が湧き上がったのはたった三か月前のこと。


 私、アンジェラ・ベルトイアは小さくため息をついた。

 由緒正しきベルトイア公爵家の長女に生まれ、十歳でトラムント王国の第一王子であるカリスト・トラムント殿下と婚約を結ぶと、王太子妃教育をたたき込まれてきた。

 社交にマナー、ダンスや教養、王国中の全貴族の家系など、講義は厳しくも充実していた。


 婚約者のカリスト様は優しくて誠実で、柔らかな笑顔が良く似合う人。

 王家の特徴でもある煌めく金色の髪と透き通るような青い瞳が印象的な、端正な顔立ちの王子様。

 一緒にいられるだけで嬉しくて楽しくて、ほんの少し触れ合っただけで頬が染まってしまう。

 将来この国を彼と二人で統べるのだと思うと、必然的に講義にもレッスンにも力が入った。おかげで王太子妃教育はほとんど終了したと太鼓判を押してもらっている。


 週に一度のお茶会は穏やかで笑顔が絶えることはなく。

 政略的ながらも、私達の仲の良さは誰もが認めていた。


 そんな彼と、聖女様が現れてからほとんど会えていない。


 見知らぬ世界に突如連れてこられた聖女様は精神的にとても不安定に陥られ、カリスト様が献身的に支えたと噂されている。


 幸せに暮らしていた世界から突然連れてこられた聖女様のお気持ちには同情するし、出来る限りのことをして差し上げたいと思う。

 何より、聖女の力は特別だ。


 剣術や火魔術などで魔獣と倒すことはできるが、剣士なら二十人、魔法騎士でも五人がかりでようやくサラマンダー一体倒す状況の中、聖女様は一人で三体のサラマンダーを殲滅してしまったという。

 高度な治癒魔法まで自在に操り、誰にも成しえない魔王の封印も託されている。


 国民がこれ以上魔獣の犠牲にならないためにと、カリスト様はずっと聖女の召還に奔走してきた。ようやく迎え入れた聖女様が気持ちよく力を発揮してくれる状況は絶対に崩してはならないのだ。


 結果として、カリスト様は聖女様にかかりきりになった。


 王国一の火魔術の使い手と言われるカリスト様だが、王子と言う身分から、これまで先頭だって魔獣退治に出向くことはなかった。

 しかし今は、聖女様に請われて魔獣退治に常に同行しているという。


 お二人が初めて魔獣退治に成功した時の凱旋を思い出す。


 危険な任務から帰ってきたというカリスト様をお迎えするために、私は朝から肌を磨き髪を整え、彼の瞳の色である濃紺のドレスを着て、胸を躍らせて出迎えの席に立った。


 沿道の大歓声とともに遠くからパレードのように帰ってきたカリスト様は、簡素ながら頑丈な騎士服に身を包み、人々に笑顔で手を振ってこたえていた。

 だがそれ以上に歓声を浴びていたのは、同じオープンの馬車に乗る聖女様だった。


 肩下までまっすぐに伸びた漆黒の髪とこげ茶の瞳。この国にはない髪色で、聖女だけが持つ特徴だと言われる。

 この国の高貴な女性と比べたら短すぎる長さの髪もカリスト様は全く気にしていないようで、二人並び立つと恋人同士にしか、見えない。

 時折顔を見合わせて微笑みあう姿に胸がずきりと痛んだ。


 それからの私の立ち位置は一変した。

 お茶会でも、カリスト様と聖女様のうわさでもちきりで。


 特に聖女様は男女問わず人気だった。

 平民の子供にも分け隔てなく接するとか、身分の低い騎士が魔獣に襲われそうになった時に身を挺して守ったとか。なんでも、身分に関係なく「命は平等」とおっしゃったらしい。


 いつしか、彼女こそが未来の王妃にふさわしい、と囁かれるようになっていた。


 彼女がいなければ魔王の力は強まり続け、魔獣の活性化は避けられない。魔獣に襲われて命を落とす国民はますます増えていってしまう。

 この国の未来のためには聖女様の力が必須だ。

 今や聖女様のお言葉は絶対で、国王ですら逆らえないとも言われている。


 彼女が望むのなら、私はカリスト様を諦め、婚約者の座を明け渡さなければいけない。

 この国の未来のために。


 カリスト様‥‥。

 彼の笑顔を思い出すだけで胸が苦しくなる。


 初顔合わせの時、にっこりと笑って、

「こんな可愛らしい子と結婚できるのなら王子でいるのも悪くないな」

 と言ってくださった。


 王太子妃教育が厳しすぎて裏庭でこっそり泣いていた時に、いつの間にか隣に来てずっと一緒にいてくれた。

 思えば週に一度のお茶会が始まったのはあの時からだったかもしれない。


 アンジェラ、アンジェラ‥‥。

 耳元で囁いてくれる彼の優しい声が脳裏にこびりついて離れない。

 二人で、この先どうやって国民を導いていくか議論を尽くした。

 楽しくも有意義な日々。

 彼と離れるなんて考えたこともなかった。


 けれど。

 何の力も持たない私。一応治癒魔法は使えるけれど、疲労回復程度で、聖女様に比べるとヒヨコにも劣る。

 聖女様が望めば、私の想いなど紙より軽いのだ。


 そして間もなく、彼らは魔王討伐の旅に出る。

 何か月もかかるというその遠征。

 厳しい旅になるため、厳選された精鋭達、少人数で出立するという。

 その旅で二人の仲はますます深まるだろう。

 そこに私が入る隙はない。

 きっとその前に、この婚約は解消されるのだ。


 聖女様からお茶会の招待状が届いたのはそんな時だった。


 ***


 陽の光がまばゆい王宮のガゼボで、聖女様は白い椅子に腰かけて私を待っていた。


 ここは。

 私とカリスト様がいつもお茶をしたガゼボ。

 聖女様はそれをわかっていて、あえて指定したのだろうか。


「この度はお招きいただきましてありがとうございます」

 私はスカートをつまみ、完璧なる淑女の礼をとる。


 いつの間にかこの王宮の庭園は彼女のもので、私は招かれる客になっていた。


「貴方がアンジェラさんね。噂にはよく聞いていたわ」


 アンジェラ、さん‥‥。

 庶民のような声掛けに呆然とする。


 今後王太子妃になろうという方が、こんな作法でいいのだろうか。これから王太子妃教育をしたとして、一体何年必要なのだろう。


 ちらりと横を見ると、一月ぶりに顔を見るカリスト様が、柱にもたれて立っていた。

 畏れ多くも王太子様を立たせて自分だけが座っているなんて。

 それでも、聖女様と彼の間に微妙な距離があることに安堵する。


 彼と目が合うと、私を見て、一瞬苦しそうに顔を歪めた。

 私はその表情の意味を測りかねる。

 これから捨てるであろう私への罪悪感なのか。

 ‥‥それとも多少は未練のようなものを感じてくれているのだろうか。


「そんなところにいつまでも立っていないで、さ、こっちに来て座って」


 聖女様は屈託なく笑った。

 私は向かいの席にすうっと座る。


「アンジェラ様にも同じ紅茶を」

 侍女に声をかけると、私に向かってにっこりと笑った。「様」と言うことも出来るのね。

「この紅茶、とっても美味しいのよ」


 知ってる。

 誰よりも、知っている。

 こみ上げてくる悔しさと情けなさを隠し、鉄壁の微笑みを返した。


 一口飲み終わった聖女様がカップを置いた。

 かちゃり、とかすかに聞こえる音に、思わずぴくりと眉が上がる。

 とはいえ、完璧な淑女のマナーをもって平静を装い、私は物音ひとつ立てずに静かにカップを置いた。


 ‥‥その瞬間、聖女様から笑みが消えた。


「アンジェラ様、でいいのよね?」

「はい」

 いきなりの詰問口調に身構える。


「貴方、カリストの婚約者なんですって?」


 カリスト‥‥。不敬とも言える馴れ馴れしい呼び捨てに、心がざわめく。

「はい」


 必死に押し殺して微笑めば、彼女も口の端をほんの少し上げた。

 そこには先ほどまでの屈託のない笑みはない。


「カリストの婚約者ってことは、将来この国の王妃になるってことよね?」


 ‥‥‥‥出た。

 今日、私が呼ばれたのはこの話をするためだったのね。


「はい。そう心得ております」

 私は慎重に言葉を選びながら答えた。

 今はまだカリスト様の婚約者なのだから、こう答えることに間違いはないはず。


「そう。で?あなた、王妃になるために、どんなことを学んできたの?」


 値踏みするような視線にも怯むことなく、背筋を伸ばして答える。


「マナーや社交、乗馬、ダンスだけでなく、この国の歴史や貴族名鑑、政治や諸国の言語まで、幅広く学んでまいりました」

 これだけが私が誇れるものなのだから。

 学んできた日々に、努力にだけは自信がある。正々堂々と答えられる。


 聖女様はふっと目を細めた。

「そう。頑張ったのね」


 意外にもねぎらいの言葉を駆けられて目を丸くする。


「で?」

 だが言葉が続いた。


 で?とは?


「で?貴方はその知識を使って、国民のために何をしてきたの?」


 ‥‥何を?して?


「‥‥‥‥これから殿下と二人、この国を統べるべく研鑽を積んで‥‥」

「だ・か・ら。この国のために貴方自身がやってきたことを聞きたいの」

 私の言葉は途中で遮られた。


「何を、と申しますと?」

 彼女の真意を測りかねて問い返す。


 聖女様は少しイラついたように、早口で話し始めた。

「ほら。魔獣が活発化して、死者も怪我人も増えているでしょう?地方によっては魔獣を恐れて十分な農作物も得られないところもあるというわ。そんな人たちのためにあなた自身がしてきたことを知りたいのよ」


 呆然としながらも気づいてしまった。

 彼女は、私を責めたいのだ。

 国民のために魔獣退治を繰り返してきた自分の方がカリスト様にふさわしいと。だから私に身を引けと、言いたいのだ。


「私は、殿下のお味方を増やすために社交界でうまく立ち回り」

「ごめん。だからそれが、国民のために何になるのかを聞いてるのよ。お腹を空かせた人たちにどんな恩恵があるのかってこと」


 ああ。

 それなら私だってしてきた。


「孤児院への寄付を行っていました。もちろん、ただお金を渡すだけではなく、慰問して、自らの手で食料を与え、子供たちと触れ合うよう努めています」

 これは胸を張って言える。

 下々の生活まで気を配り、優しい王族のイメージを保つことは婚約者としての大切な役目だ。


「それは素晴らしいわね」

 ようやく聖女様もにこりと笑ってくれた。

 ほっと胸を撫でおろす。


「それで?その食料を買うお金はどうやって稼いだの?」


 ‥‥は?

 言っている意味が分からない。

 ぽかんとする私に、聖女様は続けた。


「まさか、父親が稼いだお金で買った食料を配ったなんて言わないわよね?ましてや領民が汗水たらして稼いだお金を税金としてかすめ取って、そのお金で、なんて」


 え?

 何を言っているの?


「‥‥何もやましいことは全くしておりません。しっかりと法に基づいた上納金です」


 きっぱりと断言した私に、聖女様、ははあああああっと大きなため息をついた。

「誰かが稼いだお金で物を買って他の人に渡すのは、なーんにもやってないのと同じことよ。買い物なんて子供でも出来るでしょう?私は、あなた自身の力で行ったことを聞きたいの」


 そして私に蔑むような視線を投げかけてくる。


「ねえ。まさかとは思うけど、貴方、物音ひとつ立てずに座ってお茶を飲むことが出来るその所作が王妃の資質だなんて、思ってないわよね?」


 なっ!!!

 思わず顔が赤らむのを必死で抑える。


「それだけが資質だなどと思ってはおりません。ですが大切なマナーの一つだとは考えております。」


 思わず声を荒げてしまった。

 けれど彼女の侮蔑の表情は変わらない。

「‥‥それで?お茶を綺麗に飲めたら国民の空腹がどう和らぐのか、教えてくれる?」


 ‥‥何も言えない。

 そもそも、王太子妃教育と国民の食糧問題を同一に議論することがおかしいのだ。

 けれど今、聖女様に面と向かってたてつくわけにはいかない。


「ちなみに、あなたも治癒魔法が使えると聞いたのだけど?」

「‥‥はい。でも私の魔力では疲労を回復する程度で、聖女様の足元にも及びませんが」


 もはや治癒魔法と言うより回復魔法程度だ。

 俯いて答える。

「で、毎日どのぐらい、どんな人の手当てをしてるの?」


 ‥‥きっと私の答えは聖女様のお気に召さないだろう。しかし、私は私の矜持を伝える。

「王太子妃たるもの、目先の一人二人を救うのではなく、大局を見据えるべしと、と。そう習いました」


「‥‥つまり?」

 彼女は首を傾げる。


「つまり。今後王家の一員になる身として、個々の救済に目を奪われるべきではないと、そう教えられております」

 私ははっきりと彼女を見据えて答えた。


 それでも彼女はたじろぐ様子もない。

「じゃあその、大局を見て、誰を、どのように助けたの?」


 ‥‥何も言い返せない。

 自分は直接多くの人を助けてきた。自分の方が王太子妃にふさわしい。そう言いたいのだろう。



「‥‥‥‥聖女様の活躍は耳にしております。国民のために、尽くしてい‥」

「貴方、これからどうするつもり?何をするの?」


 またしても私の言葉は遮られた。


 ‥‥これは。

 私に身を引け、と言う意味なのだろう。


 私は下を向いたまま顔をあげられなかった。

 カリスト様がどのような表情をしているか、見ることも出来ない。

 俯いたまま、震える声で答える。


「‥‥‥‥何の力もない私がカリスト殿下の婚約者などと、おこがましいこととは存じています。私は潔く身を引きますので、今後は聖女様が王太子妃としてカリスト様と‥‥」

「はあああ!!!???」

 やっぱり遮られた。

 地を這うような低い声に身震いがする


「ちょっと、あんた、何様のつもり!?」


 ‥‥とうとう、あんた、になってしまった。

 到底淑女とは思えない言葉遣いだ。

 しかし彼女の怒りを前に、それどころではない。


「何様、と言われましても…」

「なんの権利があって、私の結婚相手を勝手に決めてるのかって聞いてるのよ!?」


 私は完全に混乱してしまった。

 一体なぜ、聖女様が怒っているのか理解できない。


「しかし聖女様は…」

「何で、勝手に見知らぬ世界に連れてこられて。更にはなーんにもしていない、見たこともない小娘のあなたに私の結婚相手だの未来だのを決められなきゃいけないのよ!?」


「き、決めつけているわけでは‥‥」

 途端におどおどと返してしまう。


「決めつけてるでしょう!?貴方、私の気持ちを一切聞かずに物事を決めようとしたじゃない!」


 そう言われれば。

 でも。


「ですが、聖女様は遠征にカリスト様の同行を望まれたと」

「当たり前でしょう!!!!」

 また怒鳴られてしまった。


「自分の世界で幸せに生きてたのに、突然変なところに呼びつけられて、義理も恩もない国民のために危険な場所に出向いて戦ってほしいなんて頭下げられて。そしたら、肝心のこの国の上に立つ人間が、最も強い魔力を持っているのに、自分はそんな危険なところにはいかないとか言い出しやがったのよ!?」


 私はぽかんと聖女様を見て、そしてそのまま視線をカリスト様に移した。

 彼はバツが悪そうに顔を背ける。


「実際連れて行って正解だったわ。魔獣に襲われ、転がされ、砂だらけになって怪我三昧で。自分がどんな危険な場所に自分達の都合だけで見知らぬ女の子を遣わそうとしていたか、身をもって知ったと思うわ」


 フンっと鼻息荒く上を向く彼女が、なんだかかわいく見えてきてしまった。


「貴方もよ。どうせ、外でどんなに人々が苦しんでるか知りもしないでのんきにお茶なんか飲んでるから、私がこの男に懸想して、遠征先で二人イチャイチャしてるなんてくだらない想像してたんでしょ」


 ‥‥あまりにも図星で赤くなる。


「こんな税金の無駄遣いみたいな場所で、平民は一生のうち一度もお目にかかれないようなお菓子に囲まれてあははうふふなんて笑ってるのが仕事なんて思ってるから、そんな脳内お花畑みたいな発想になるのよ」


 もはや言い返す言葉もない。


 でも。

 だったら。


「‥‥では、私はどうすればいいのでしょう?」


 素直に聞いてしまった。

 私だって力になりたい。

 でも何をどうやればいいのかわからないのだ。


 聖女様は、はあ、と一つため息をついた。


「遠征に、ついていらっしゃい」


 は?

 遠征に?


「ですが‥‥。私が同行しても足手まといになるだけで‥」

「足手まといになるつもりなの?またお姫様みたいに座ってるだけで何もしないつもりなの?」


 挑戦的な言い方に、ついムキになる。

「やります!何だって!」


 彼女は満足そうにうなずいた。

「そうよ。料理だって洗濯だって野営の準備だって、何だってやらなければ邪魔なだけよ」

 は?洗濯?

 私に聖女様のお世話をしろと?

 屈辱で頭に血が上る。


「お嬢様に侍女やメイドのようなことをさせるおつもりですか!?」

 怒りの声をあげたのは、私に古くから仕えてくれる侍女だった。

「聖女様とて、公爵令嬢であるアンジェラ様を下僕のように扱うなど、許されるはずがありません!」

「あら。私の世話じゃないわよ。みんなのお世話。決まってるじゃない」


 侍女の抗議を意に介することもなく、彼女は飄々と言い放った。

 そして私ににっこりと笑いかける。


「どう?やってみる気、ある?」

 私は下を向いたまま震えていた。

 屈辱と怒りと、なのに何も言い返せない情けなさで頭が真っ白になる。

 このまま彼女の言いなりになって同行すれば、カリスト様の前で召使のように扱われ、辱めを受けるのだろうか。

 けれど、今の私に選択肢など持ちえなかった。


 震える声を抑えて声を絞り出す。


「‥‥‥‥はい。同行させてください」


「ただ付いてくるだけじゃダメよ?ちゃんと働くのよ?」

「もちろんです。これから出発まで、頑張って身に付けます」

 粉々にされた自尊心をなんとか奮い立たせ、答えた。


 聖女様はにやりと笑った。

「じゃ、決まり。明日から、早速特訓ね」


 そう言い捨てると、聖女様は颯爽と踵を返してガゼボを後にした。


 あとに残された私は下を向いたまま、カリスト様を見ることが出来なかった。


 まさか、カリスト様の目の前でこのように侮辱されるとは思わなかった。

 屈辱と恥ずかしさで肩が震えそうになる。


 ‥‥と、カリスト様がぼそりと呟いた。

「大丈夫だ」


 え?

 思わず顔をあげる。

 カリスト様は顔を背けたまま、続けた。


「俺も、やられた」

 カリスト様が遠い目をしていた。



 ***


「聖女様はやったことがあるんじゃないのですか?」

 翌朝のこと。

 私はジトリと聖女様を見た。

 竈の前、薪に火をつけようと私達二人で格闘するも、未だに火が付く気配がないのだ。


「あるわけないじゃない。私の世界ではボタン一つで火が付いたのよ」

 プリプリと口をとがらせる聖女様は意外と可愛い。

「昨日の自信満々の口ぶりから、何でもできるお方なのかと」


 聖女様に見下されながらこき使われることを覚悟して登城した直後。

 気づけば二人で悪戦苦闘している。


「私は身を粉にして、日々魔獣やっつけて怪我人治療してるの!これ以上人使い荒いこと言わないでよ!」

 

「そう言いながらも一緒にチャレンジしてくださるんですね」


 召使のように扱われるのかと心配していたのだが、相変わらず偉そうにふんぞり返りながらもきっちりエプロンを着こんだ聖女様に出迎えられた。

 私一人だけにやらせようとせず、一緒にやってくれる気らしい。その意外な優しさにくすりと笑うと、彼女は少しだけ赤くなりながら、またマッチを擦った。

「あ、聖女様、それはもう少し短く持った方が」

「リナ、よ」

「え?」

「リナ・マスダ。私にも両親がつけてくれた名前があるの」


 竈から目を逸らすことなく、不機嫌そうに彼女は言う。

 そうか。彼女だって、一人の女の子だ。

「‥‥リナ、様」


 おそるおそる呼ぶと、彼女はにこっと微笑んだ。

 あ。やっぱり可愛い。

「ありがとう。貴方のことはアンジェラ、と呼んでも?」


 後ろの方で、お嬢様を呼び捨てになんて!と騒ぐ声が聞こえたが気にしない。

「はい、リナ様」

 私も素直に微笑んだ。

「ところでリナ様。遠征には火魔法を使える者が複数名同行しますのに、何故私達が火おこしを担わなければならないのでしょう?」


 素直に疑問を口に出すと。


「それ、早く言ってよ!!」

 何故か叱られてしまった。

「今までの遠征ではどうしていたのですか?」

「ここまではそんなに街はずれには行かなかったから、野営の必要はなかったのよ」


 確かに、これから控える遠征はあまりにも遠く、あまりにも厳しい。

 今まで考えたこともなかった、生きるための知恵と言うものが必要なのだと改めて気づかされた。


 それから出発までの二週間、ほとんどの時間をリナ様と過ごした。

 リナ様は何でもできるようで何にもできなかった。

 そしてこの国の常識を全然知らない。

 それでも一生懸命前を向いて、出来ることを全力でやろうとしている。


 生まれついてのお嬢様で何もできない私と、文明とやらが進んで、何もしなくても生活できたリナ様。どうしようもなく不器用な二人。

 二人で野菜の皮をむいたりパンを焼いたり、洗濯をやろう…として一瞬で断念して、水魔法と風魔法の使い手にバトンタッチしたり。

 はらはらしながらつい手を出そうとしてリナ様に叱られ、すごすごと引き下がるコックやメイド達には申し訳ないけれど、新しいことにチャレンジする時間は想像以上に楽しかった。


「アンジェラ!アンジェラ!見て見て!パンを焼いたはずなのに、何故かクッキーが出来た!」


 そんなわけはない。


 だけど、屈託なく笑う彼女を見ていると、これから大変な遠征に出かけるなんて思えない。


 一緒にいて気づいたことがある。

 それは、想像していたほどカリスト様と聖女様は一緒に行動してはいなかったということ。よく考えれば当たり前の話で。

 カリスト様は遠征準備以外にも王太子としての政務がある。

 それぞれが重い役割を担っている中、一緒に行動できる時間など限られているのだ。


 カリスト様に変わって聖女様の後ろに常に控えているのは、風魔法の使い手でリナ様の護衛騎士となったアルフォンソだった。

 一定の距離を保ちつつ常に側で控え、真剣な表情を崩さずリナ様を守りながらも、ふとした瞬間に柔らかく優しい瞳でリナ様を見つめている。

 リナ様も、彼にだけは心を許しているようだった。


 そんな彼女と二人で頑張っていると、カリスト様も忙しい合間を縫って覗きに来てくれる。長くいられるわけではないけれど、一言二言話せるだけでも幸せだった。

 きっと遠征に参加しなかったら、カリスト様とこのような時間を取ることもできなかっただろうと思うと、誘ってくれたリナ様には感謝しかない。


 あっという間に、遠征出発は目前に迫っていた。


 魔王の封印にあたり、リナ様は三つの条件を出した。

 一つは王国民から徴収する税の減額、二つ目は全国民の職業選択の自由。これは、法が成立しないと出立しないとまで言われ、すでに法が可決している。


 そして三つめは。

「魔王の封印に成功したら、私を元の世界に戻すこと」

 これが、リナ様が魔王封印に出かけるための条件だった。

「もしもこれらの約束が実行されなかった場合、魔王の封印を再度解き、その後は二度とこの国のために力を貸しません」


 それは脅しにも近い内容だが、彼女の気持ちを考えたら当たり前だ。

 彼女には彼女の世界が、生活があるのだから。

 本当は、ほんのちょっとだけ。アルフォンソと一緒になって残ってくれないかな、なんて期待がなかったわけじゃないけど。


「ああ。必ず戻す。約束だ」

 しっかりと、力強く答えたカリスト様が格好良くて、思わずうっとりとしてしまった。


 ***


 旅のメンバーは、なんと、たった十二人だった。

 女性は私とリナ様、それに身の回りの世話と護衛を兼ねた女性騎士のユリアだけ。

 残りはカリスト様を筆頭に、火や水、風魔法の使い手達だった。もちろんアルフォンソも入っている。

 このメンバーで国の外れまで旅をし、そこからは魔獣と戦いながら、魔王のいる場所を目指す。

 馬車で行けるところまでは、御者や荷馬車などが同行してくれる。


 私は簡素ながら丈夫な、綿で出来たシャツとズボンに身を包み、馬車に乗り込んだ。はじめて身に着ける質素な衣服に家の者は涙ぐんだけれど、私は初めての冒険を目の前にしてドキドキしていた。

 馬車に乗るのは女性陣三人のみ。

 男性陣は皆、馬に乗って移動するらしい。

 朝早いというのに王都中から人々が集まり、盛大に見送られながら、私達は王宮を出発した。


 見慣れた王都の景色が少しずつ遠ざかる。

 これから長い旅が始まるのだ。


 緊張と、少しのワクワクで胸が高鳴る。


 長距離移動用の小型の馬車は、いつもの公爵家の豪奢な馬車と違い、簡素で揺れが直接的に響く。腰に負担がかかるが、これまでもこんな馬車で旅をしてきたであろうリナ様の前で弱音など吐いてはいられない。


 出発して一時間後。


「もーーー!!!マジ無理!!」

 いきなりリナ様が声をあげた。


「リナ様!!??」

 私は驚いて声をあげる。

「どうされました?」


 リナ様は早くも泣きそうな顔で腰をさすっていた。

「だって、ガタガタガタガタガタガタガタガタ、腰に響くんだもん!」


 思わずぽかんと口が開いてしまった。

「リナ様はこれまでも討伐の旅をしてきて慣れていらっしゃるのではないのですか?」

「慣れるわけないじゃない!」


 リナ様は大きな声で続ける。

「車輪にはゴムがついてないし道は舗装されていないからガタガタガタガタ。ほんっとに無理!!」


 ずいぶんガタガタが多い。


「ゴム?とは?」

 いぶかし気に首を傾げる私を無視してリナ様は続けた。

「アスファルトが懐かしい!新幹線が欲しい!飛行機で行きたい!」


 アスファルト?新幹線?飛行機?

 全く意味不明だが、おそらく聖女様の世界の何かなのでしょう。


 それより。

「リナ様もこの振動は苦手なのですね」

 思わず笑ってしまった。


「こんなの、大丈夫な人いないでしょ!?」

 リナ様の返事に

「良かった。実は私も苦手で」

 ちょっとだけホッとする。


「私は全く平気ですが?」

 そんな私達を尻目に、1ミリも姿勢を崩さず、ユリアが答えた。

 騎士様の鍛え方は尊敬に値する。



 そんな一行は順調に王都を抜け、郊外を走る。

 十日も走ると、だんだんと民家もまばらになってきた。


「ここからは宿も少なくなってくる。街と街の間は野営になるが、大丈夫か?」

 カリスト様の声掛けに、私は力強く頷いた。

 もとよりそのつもりで、少しでも力になりたくて来ているのだ。


 少し開けた丘の上で火をおこし、野営の準備を始める。

 リナ様と特訓した料理だけれども、結局私が作れたのはスープだけだった。

 これなら焦がすこともないし、野菜の形が多少不格好でも煮込んでしまえばごまかせる。


 野営初日の夕食づくりは張り切りすぎてしまったかもしれない。

 一人で全員分のスープを作ろうと頑張っていたら、見かねた火魔法騎士のアライドさんと水魔法の使い手のガーンさんが手伝ってくれた。

 あんなに特訓したのに、二人の包丁さばきに全く敵わず、少しだけ悲しくなる。


「ああ。いい匂いだな。美味しそうだ」

 天幕を張り終えたカリスト様が顔を出してくれた。


 ここではみんな手分けして働く。王子だから、公爵令嬢だからとふんぞり返っていたら、他の人に迷惑がかかる。

 最初に話を聞いた時に、自分に聖女様の世話をさせるのかと考えてしまった自分が恥ずかしい。

 聖女様だって今この時間、アルフォンソと一緒に薪を拾いに行ってくれているのだ。


 やがて、みんな集まってきて、夕食タイムとなる。

 木のボウルにスープを注ぎ、一人ずつ配って回った。

 カリスト様に手渡す時、ほんの少し小指が触れた。

「…っ。すまない」

 とっさに手を引いて謝られたが、たったそれだけで頬が上気するのがわかる。

「いえ‥‥。どうぞ」

 俯いて小さな声で渡すと、カリスト様もそろそろと手を再度伸ばしてボウルを受け取ってくれた。


「‥‥‥‥そこ。暑い」

 リナ様の低い声が飛んできた。

「寂しい独り身ばっかなんだから。いちゃいちゃしない」


 そういうリナ様だって、ちゃっかりアルフォンソの隣を確保していますよね?


「アンジェラの作るスープってさ、ほっとするよね。疲れが取れる感じ。やっぱり疲労回復の治癒魔法が使えるからかな?」

 リナ様がスプーンを持つ手を止めることなく呟く。


「‥‥物質に魔法を籠める力はありませんが?」

 首を傾げると。

「理屈じゃないのよ、こういうものは」


 なんだかわかったようなわからないような説明をされてしまった。

 でも、褒められるのは嬉しい。


「疲れが取れるのであれば作った甲斐がありました。たくさんあるのでおかわりしてくださいね」

 私はにっこりと微笑んだ。


「ユリアも一緒に座って食べよう」

「いえ、私はここで。アンジェラ様と聖女様をお守りする役目がありますので」

 リナ様の声掛けに、ユリアの固い声が返ってきた。

 真面目過ぎるユリアらしい回答だが、その言葉にリナ様の眉間にぎゅっと皺が寄る。


「ユリア。今日の貴方の勤務時間は何時から何時まで?何時間働いたの?」

 は?

 私をはじめとしたその場の全員が、リナ様の言葉の意味が分からずぽかんとする。


「護衛騎士としての勤務時間を聞いているのよ」

「私は専属護衛ですので、お側にいる間はしっかりとお守りさせていただきます」

 まさに護衛騎士の模範解答ともいえるその言葉は、リナ様の怒りに触れてしまったようだ。


「ちょっと!カリスト!貴方がユリアの雇用主なのよね?彼女の勤務時間は何時から何時までで、休憩時間や食事の時間はどうなってるの?」


 目を三角にして、その怒りの矛先がカリスト様に向けられた。

 リナ様の突然の怒りにカリスト様も動揺を隠せない。

「勤務、時間…と言われても」

 それはそうだろう。護衛騎士たるもの、守護対象の隣にいる間は常に気をついてはいけない。一瞬の気のゆるみが大惨事につながるのだ。


「じゃあ、ユリアはいつ休むの?貴方、ユリアの護衛時間と同じだけ魔獣と戦い続けられるの?」

「護衛と魔獣退治を同じに語られても…」

「同じよ!一瞬だって気が抜けないなんて、気が休まる時がないじゃない!」

「しかし‥‥」


 リナ様はカリスト様とユリアに向き直ると高らかに宣言した。

「貴方の今日の勤務は終わりです。どうしても護衛する必要があるのなら、カリスト、他の者を護衛につかせるか、雇い主の責務として貴方が護衛しなさい」

 あまりにも強引な話の運びに絶句する。

「ユリア。貴方も、自分の体調は自分で管理しなきゃダメよ。人間の集中力なんてそう長くは続かないんだから。ブラックな長時間勤務は油断とミスを生むの。カリスト、この後長く続く遠征に備えて、見張り役のローテーションをちゃんと組んで。無理な体制なら私は同行しないからね」


 聖女様の同行が無ければこの遠征はまるで意味をなさない。簡単に強権を発動する彼女に思うところがないわけじゃないが、カリスト様はそれを飲み込むことにしたようだ。

「わかった。ガーン、食べ終わったのならそこで見張りに立ってくれ。ユリア、今日はもう護衛の任は解く。ゆっくり食事を摂って、体を休めてくれ」


 その言葉に、リナ様は満足したように頷いた。

 



 ***


「魔獣は本当に全て淘汰する必要があるの?」

 女性三人が並んで横になった天幕で、リナ様は何度目かわからない、同じ質問を繰り返してきた。

 入口はユリアが陣取り、横になりつつも私達を守ってくれている。リナ様に叱られてから一緒に横になることを受け入れたようだ。


「魔獣は人々を襲います。倒さなければこちらがやられます」

「都市部まで魔獣が来れば防衛する必要はあるわよね。でも、わざわざこちらから出向いてまで倒す必要がある?」


 リナ様はこの国の者なら子供でも知っていることを繰り返し質問する。私にはリナ様が何に悩んでいるのかわからない。


「魔獣に心はありません。倒さなければやられるだけです」

 私はまた同じセリフを繰り返す。

「じゃあ魔獣は何のために存在するんだろう…」


 魔獣の存在意義なんて考えたこともなかったし、意義があるとは到底思えない。

「リナ様は魔獣を倒すのがお嫌なのですか?」

「わざわざ出向いてまで殺すという行為に疑問を感じるだけよ」

「出向いて殺らなければ増えすぎて農村だけでなく、王都までも被害を受けます」

「村の人達が殺されてもかまわないと思っているわけではないわ。ただ、どうして魔獣が増えるのか、魔王は何故存在して、滅ぼすことが出来ないのか、それがわからなくて」


 私にはリナ様のお考えがわからない。

 魔獣も魔王も、太古の昔からずっと存在する。気を抜けば殺られる。その前にこちらから殺るだけだ。

「全ての生き物が共存する世界など、夢物語です」

「アンジェラは強いよね」

「そう、ですか?」

「ときどき、ね」


 そう言いながら、リナ様はあっという間に夢の中に引き込まれていったようだった。


 翌日からも旅は続き、魔獣の数と強さは少しずつ増していった。

 悩みや戸惑いを持ちつつも、リナ様は圧倒的な力で魔獣を殲滅していく。


 戦いを終えたリナ様は疲れた体に鞭をうち、怪我人の治療を行っていく。

 ぱっくりと開いた傷を閉じたり火傷の皮膚を治す力は私にはない。

 せめて何かの力になれればと、わずかばかりの回復魔法を使った。疲れ切って木にもたれかかっている火使いの魔法騎士様の両手をしっかりと握り、目を閉じて魔力を流す。その澱んだ目に僅かばかりの力が戻ってきたのを確認し、私は次の魔法騎士様に足を伸ばした。


「アンジェラ様のおかげで明日もまた頑張れそうです」

 夕食をほおばりながら声をかけてくれた魔法騎士様の言葉に、私は思わず頬を緩めた。よかった、こんな自分でも多少は役に立てたようだ。


 けれど斜め向かいに座っているカリスト様の表情は固かった。

「アンジェラ、無理をするな。お前の魔力は少ないのだから」

 その冷たい言い方に私の背中は凍り付く。魔力が少ないのは事実なだけに、反論のしようもない。けれど。

「この程度の魔力なら一晩眠れば回復します。もともと体力回復程度の力しかないのですから大したお役にはたてませんが」

 我ながらきつい言い方になったかもしれない。

 でも、少しでも役立てていると思えることを取り上げられるのは辛かった。

「体力回復程度なら彼らも一晩眠れば復活する」

「しかし!」


「あーあ。カリスト、それじゃダメだよ」

 更に反論しようとした私をリナ様が遮った。

 私達の会話にこんな風に割り込めるのは、聖女様以外には存在しない。


 二人してリナ様に顔を向ける。

「カリスト、何が嫌なのか、アンジェラにはっきり伝えないと」


 え?嫌?

 何かカリスト様を不快にさせるようなことをしてしまったのだろうか。

 途端に不安そうな表情をする私に、カリスト様は気まずそうに目を背けた。


「ほらほら。ちゃんと言う!要するにアンジェラが他の男の手を握るのが嫌なんでしょ?」

「お、俺はそんな…!」

 カリスト様が真っ赤になって否定する。


 手を握るのが?いや?

 でも‥‥。

「私はリナ様ほど魔力が強くないので、かざすだけでは力を注ぎこむことが出来ないのです」

 自分の魔力の弱さに恥ずかしくなって下を向く。


「理屈じゃないのよ。必要なこととわかっていても、嫌なものは嫌だからね…」

 リナ様は何故かわかったような顔で、うんうんと頷いていた。

 確かに、むやみと異性の手を握るなど、公爵令嬢としてはふさわしくないかもしれない。


「でも。今は非常事態です。疲れを残すわけにはいかないでしょう?」

「そうよ。だから男の嫉妬もたいがいにしておかないと」

 え?嫉妬?

 ‥‥嫉妬!?

 カリスト様が?


 見上げると、彼はプイッと顔を背けてしまったが、その耳は真っ赤に染まっていた。

 

 嫉妬‥‥。カリスト様が‥‥。

 心の中で何度も繰り返す。嬉しさがこみ上げて、私の顔も真っ赤になっていることがわかる。


「ふふ。ふふふふふ‥‥」

 我ながら貴族らしからぬ笑い方だと思う。リナ様の悪い癖が移ってしまった。

「何がおかしい!」

「うふふ。カリスト様。申し訳ありません。でも、これからカリスト様の回復を最初にさせていただきますね」

 にやける顔をおされられないまま伝えると、カリスト様はプリプリと怒りながら天幕の方に歩いて行ってしまった。

 残された私はリナ様と顔を見合わせ、また吹き出した。



 ***


「この先の山は危険すぎる。アンジェラは次の宿で待機していて欲しい」

 魔王のいる山を目前にした最後の砦、マルトス山。

 ずっと行動を共にしてきたのに、とうとうここにきて、私は居残りを命じられてしまった。


 いや、これまでも馬車に残って、前線の戦いからは遠ざかっていたのだからしょうがない。私に戦闘能力はないのだから。


「承知しました。無事のお帰りをお待ちしております」

 私は膝を折り、丁寧な礼をしてカリスト様を見送る。


「アンジェラ!明日の夕方には帰ってくるから!美味しい夕ご飯、たっくさん準備して待っていてね!」

 リナ様は大げさに手を振って、何度も何度も振り返りながら馬にのって出発していった。


 馬に乗れないリナ様は、アルフォンソと同じ馬に乗る。

 もし仮にカリスト様と同じ馬に乗っていたとしても、私の胸は以前のように痛むことはなかったろう。

 やるべきこと、必要なことがわかっているから。


「さて、皆様が帰ってきたらすぐにくつろげるように、いつ帰ってきてもいいように、お風呂も寝具も食事も、完璧に準備しないとね!ゆっくりしている暇はありませんよ!」

 従者と共に残された私は周りを見回し、あえて明るく声をかけた。


 翌日の夜に帰ってくると言っていた一行は、三日目になっても戻ってこなかった。嫌な雰囲気が辺りに押し寄せる。

 

「予備の食糧は持って行っています。ここは皆さまの力を信用して、待ちましょう」

 そう声をかけながらも、私の視線は窓の外に行ってしまう。


「王太子様ご一行、マルトス山の魔獣退治に成功!まもなく戻られます!」

 日も傾き始めた時分に、息せき切って転がり込んできた先ぶれの報告に基地となっている宿屋はどよめきたった。


「皆さん疲れて、お腹もすかせて戻ってくるでしょう。急いで夕食の支度を。お風呂の準備は終わっていますか?」

 てきぱきと指示を出しつつ、私はスープの仕上げに取り掛かる。


 彼らはきっとこの三日間、ほとんどまともに寝ることも食べることも出来ていないだろう。それがどれだけ大変なことか、王都にいたころに比べれば多少はイメージできると自負している。

 やがて、宿中に香ばしい猪肉の焼ける匂いとスープの優しい香りが充満し始めた頃、リナ様達が帰ってきた。

 全員砂と埃にまみれて全身が灰色がかり、怪我だか汚れだかわからないシミがあちこちについている。リナ様は半分眠りかけて馬からずり落ちそうになりつつ、アルフォンソに後ろから抱えられてようやく保っている状態だった。


「アンジェラ~!会いたかったぁ。アンジェラのスープ、食べた~い」

 馬から降りると同時に転げるように私に抱き着き、そのままなし崩しに食堂に入ろうとする。そんなリナ様の襟首をカリスト様がぐいっと掴んだ。

「リナ!飯は風呂に入ってからだ!とりあえず埃を落とせ!」

 いつでも優しく礼儀正しかったカリスト様の、王族らしからぬ粗雑なふるまいに驚いて固まってしまう。

「アンジェラ、湯の用意はできているか?」

「はい。食事もお風呂も、いつでも大丈夫です」

「リナ、聞いたか?というわけで、皆!!食事の前に風呂だ!汚れを落としてさっぱりしてから食事をいただこう!」


「いやだ~。私は今ご飯を食べるんだ。あったかいごはん…」

 襟首をつかまれたままリナ様だけがじたばたと暴れている。

「食べたらすぐに寝るだろう!こんな汚れた状態で、寝落ちされたらたまったもんじゃない」


 カリスト様は振り返ると大きな声で指示を出した。

「みんな!すぐに風呂に!出てきたものから食事をしてくれ。早いもん勝ちだ。俺を待つ必要はない」

 その声を合図に、うわあっと湯殿に走っていった。


「聖女様もあちらに」

「ううう…。ごはん…」

 アルフォンソがいやがるリナ様の手を取り、湯殿に導いていく。


 私達はその間にスープをよそい、テーブルを整えた。


「アンジェラ!お風呂あがったよ!スープ!肉!!」

 ものすごい速さでリナ様はお風呂からあがってきた。湯上りそのままで、髪からぽたぽたと水を垂らしながら。

「あらあらリナ様。こんなに濡らしたままで。風邪をひきますよ」

 我ながら台詞が乳母みたいになってきた気がする。可愛らしくて無邪気でどこか放っておけない彼女は、実は私よりも7つも年上らしい。最初聞かされた時は腰を抜かしそうになった。


「アンジェラ、リナを甘やかさなくていい。その程度では風邪はひかん」

 タオルでリナ様の髪を優しく包んで水けを拭いていると、後ろから聞きなれた声がした。

「カリスト様も、髪がまだ濡れたままじゃないですか」

 振り返って声をかけると、ガシガシと頭を拭きながらカリスト様が大股で近づいてきた。

「まあ、腹が減っているのはリナだけじゃないからな」


 各々席に着き、用意された食事にありつく。

「ううう。アンジェラのスープ、最高すぎる。三日間乾パンとジャーキーだけなんて鬼畜すぎる…」

 リナ様がむせび泣きながら食べてくれる。

「ありがとうございます。たくさんありますから、慌てないでゆっくり食べてくださいね」

「アンジェラのスープは絶品だからな。疲れも取れるし」

 カリスト様の言葉に嬉しくなる。

「少しでもお役に立てたのならよかった」

「十分助かってるよ。アンジェラのおかげで、ちゃんと生きて帰ってきたって実感できる」

「お勤めご苦労様でした。無事のお帰り、何よりです」

 カリスト様の優しい眼差しに、つい見入ってしまう。瞬間とはいえ、大勢の前で二人だけの世界に浸ってしまったことが恥ずかしく、視線をずらせば、リナ様が手を止めて俯いていた。


「…みんな、今回は、本当にごめん」

 彼女のセリフに、騒がしかった食堂に沈黙が落ちる。私一人、なんのことだかわからずおたおたと皆の顔を見比べた。

「聖女様のせいではありません。私達が力不足だったのです」

 アライドさんが声をあげる。

「それに、こうやって全員無事で帰ってこられました」

 アルフォンソも加勢した。


「だけど、私があそこで躊躇しなかったら…!」

 心配顔の私と目が合うと、リナ様の顔がぐしゃりと歪んだ。

 思わず駆け寄って抱きしめる。


「リナ様…」

 何が何だかわからないまま、肩を抱きながら回復魔法をかける。

「…アンジェラの魔法、あったかい。アンジェラのスープと同じ」

 私は何も言えないまま、肩をさすり続けた。


「…最初の群れに遭遇した時にね、躊躇しちゃったの」

「‥‥」

「わざわざ魔獣の群れの場所に出向いて、殲滅することが本当にいいのかどうか、自信が無くなっちゃって」

 ああ。リナ様はいつも気にしていた。魔獣を狩ることが本当にいいことなのかどうかと。


「その結果、みんなを危険に巻き込んだ…」

 リナ様の声は震えていた。

「今、こうやって全員が揃っているのは、リナ様のおかげです」

「違う。…結局、偉そうなこと言ったって、私も平和なぬるま湯の世界でのほほんと生きてきただけの人間だったってことなのよ」


 そうだ。リナ様だって、ただの一人の女の子だ。どんなにすごい魔力を持っていたって、この世界で唯一の力を持っていたって。

「大丈夫です。リナ様は一人ではありません。みんなリナ様の味方です。ここにいるみんなを頼ってください。一緒に、戦いましょう」


 一番何の力もない私の言葉だけど、リナ様はようやく顔をあげて、ふやっと笑ってくれた。

 そしてそのまま、崩れるようにテーブルに突っ伏す。

 

「え?リナ様!?」

「うわ!おい!リナ!食べながら寝るな!」

 カリスト様が乱暴に肩を揺さぶるけれど、気づけばリナ様はスプーンを持ったまま寝落ちしていた。

「あー、もう、手が焼けるな。アルフォンソ頼めるか?」

「もちろんです。聖女様、ベッドまでお連れしますね」

 カリスト様の声掛けを待たず、アルフォンソがリナ様を優しく抱え上げ、寝室へと運び始めている。


「本当に、お疲れさまでした」

 その後ろ姿に小さく声かけた。


 ***


 翌日には隊員たちの疲れも回復し、最終目的地への出発は可能な状態になった。しかし、リナ様に躊躇が見られる状態で魔王のいる山に向かうことは死を意味する。


 私達は様子を伺いながら、リナ様の覚悟が決まるまでしばらく待つことにした。


 リナ様は愁いを帯びた表情で深く考え込むことが増えた。

 先ほどもふらりと散歩に出かけ、その後ろをアルフォンソが付いていく。


 私は声をかけることも出来ず、離れたところからそっと様子を見守るだけだった。


「みんな、やきもきしてるでしょうね」

 リナ様が呟く。

「聖女様の御心が決まるまで、皆、いつまででも待ちます」

「情けないわね。この弱い心のせいでみんなを危険な目にあわせたばかりだというのに」

「だからこそ、迷っておられるのでしょう?」

 アルフォンソは優しく答えていた。


「…わからないの。どうして魔王は消滅させることが出来ないのか。定期的に復活するのか。もしかして、魔王は神様じゃないのか、なんて。例えば人間が壊そうとしている山や森を守っているのだとしたら…」

「‥‥」

「そしたら、私は見知らぬこの地の人々のために、一人悪役を背負い込むことになる」

「‥‥」


 やがて、アルフォンソがぽつりとつぶやいた。

「私は、聖女様をお守りするためなら、神様でも女神でも、切ることが出来ます」

 リナ様は驚いたように振り返った。

「聖女様を助けるためと言われたら、生まれたばかりの赤ん坊でも躊躇なく殺すでしょう。私は所詮、その程度の人間です。生き延びるためならどんなことだってする」

 リナ様の顔が歪んだ。

「…そうしないと生きていけない世界なのよね」

「聖女様の世界は、無条件に全ての命が救われる、優しい場所だったのですね」

「…平和だったのよ」

 リナ様は遠くを見た。


「私は、聖女様の身を守るためなら、魔獣だろうが魔王だろうが、倒すことに躊躇はありません。ですが、残念ながら私には魔王を封印する力はない」

 アルフォンソが悔しそうに呟く。

「できるなら、その苦しみを変わって差し上げたかった」

「アルフォンソは十分やってくれているわ。私に、覚悟が足りないだけ」


 沈黙が二人を覆う。

「もうちょっと。もうちょっとだけ、待っていてちょうだい」

「御心のままに」


 私はそっとその場を離れた。


 ***


「明日から五日間の休暇とする。皆、最後の決戦に備えて英気を養うように」

 夕食時にカリスト様が声をあげた。

 わあっと歓声が上がり、久しぶりの華やいだ空気に包まれる。

「村の者達がお礼と歓迎の意味を込めて明日の夜、祭りを開いてくれるそうだ。せっかくだから、楽しめ」


 祭り。宴ではなく、祭り。

 魔獣がいなくなったお祝いも兼ねているのだろう。

 村の人達がどれだけ喜んでくれているのかわかる。


「私達も二人で出かけよう」

 カリスト様に耳元で囁かれ、どくんと心臓が跳ねた。


 シンプルなワンピースとはいえ、久しぶりのスカートに身を包んだ私は、浮かれる気持ちを抑えながら、篝火のたかれた道をカリスト様と並んで歩いていた。

 つないだ手から感じる熱がこそばゆく面映ゆい。

 ちらりと左を見上げると、カリスト様も嬉しそうに笑い返してくれた。


 王都にいる頃はこんな風に二人で歩いて出かけるなど考えられなかった。ましてや肉汁が滴る串焼きに歩きながら齧り付くなんて、半年前の自分が見たら卒倒しているだろう。

 でもどうしようもなく幸せで、何度も何度もカリスト様を見てしまう。その度に視線があい、嬉しくてうふふと笑みを漏らす。


 やがて、にぎやかな通りを少し離れた石段に腰を掛け、にぎわう祭りの様子を遠めに眺めていた。大人も子供も、村中の人が出てきているのではないかと思う程の人々。みな幸せそうに踊って歌って、食べて飲んで。

 それを見ているだけでも、来てよかったと思える。

 この幸せを守っていくために、自分に出来ることを探したいと思える。


「無事に魔王を封印して王都に戻ったら」

 突然、カリスト様が神妙な口調で話し始めた。

「おそらく大変な日々が待っていると思う。リナと約束した職業選択の自由は新しい風を吹き込むかもしれないがきっと大きな混乱ももたらす」

 私は静かに頷く。

「魔獣の被害からの復興はまだまだ時間がかかる。それでも」

 彼は真剣な眼で私を見た。

「私の全てをかけて、人々を幸せに、この国を支えていきたいと思っている」


 支える。

 今まで、私達はこの国をどう「導く」か、と議論していた。

 それが、いつの間にか「支える」という表現になっている。

 きっと彼も、思うところがたくさんあったのだろう。リナ様との旅は、それほどに新しい発見をもたらしてくれた。


「決して楽な道ではないが、アンジェラ、一緒に歩いてくれるか?」


 私は驚いて彼を見る。

 それはまるで、プロポーズのような言葉だった。


「アンジェラと一緒に。ずっと、一緒に、生きていきたい」


 間違いなく、プロポーズの言葉だった。

 こみ上げる想いに視界が揺らぐ。

 私は零れそうな涙を必死にこらえて、なんとか首を縦に振った。


「‥‥はい。はい。私も、カリスト様と一緒に生きていきたいです」

 私の涙はとうとう我慢してくれなくなった。

 零れ堕ちたその一滴を手の甲で優しく拭い、彼も泣きそうな顔で微笑んだ。


「好きだ。アンジェラ」

 私の涙腺は完全に崩壊した。

 両手で顔を覆い、何度もこくこくと頷く。


「私も。私もお慕いしています。愛しています」

 震える声で繰り返す。


 彼の逞しい腕が私を覆い、優しく引き寄せてくれた。

 私は心ごと体を預ける。

 政略結婚だけれど、親の都合で決められた相手だけれど。こうやって心を寄せ合える。信頼しあえる相手に恵まれたことに心から感謝しながら。


 やがて、ようやく私の涙が引いた頃、二人で篝火の方へ戻っていく。


 途中、二人で歩くリナ様とアルフォンソを見かけた。

 常にリナ様の後ろに控えていたアルフォンソがなんと!リナ様と並んで手を繋いで歩いている!


 私はあんぐりと口を開けたまま、淑女の体裁を取ることも忘れて指をさしてしまった。

「カリスト様、あれ、あれ…!!」


「なによ、アンジェラだって、甘々濃厚な空気駄々洩れのくせに!」

 何故か恨みがまし気なリナ様に絡まれる。


「リナ様、足元お気を付けください」

 注意を促すアルフォンソにも驚きを隠せない。

「リナ様って!リナ様って言った!聖女様呼びから格上げしてる!二人いつの間に…」

「ああ!もう!人のことはいいから!」


 何故か半切れのリナ様に背中を押され、私達は苦笑を浮かべながら宿に戻っていった。


 祭りと言うものはロマンスが生まれるものだと初めて知った、夜。


 ***

 

 思い思いの休暇を終えて、いよいよ出発の時が近づいてきた。

 私をどのぐらい近くまで連れていくかでリナ様とカリスト様が言い争っている様子は聞こえてきたけれど、私は指示に従うまでだ。出来るだけ役に立ちたいとも思うし、足手まといにもなりたくない。

 その判断はカリスト様がしてくれる。


 休暇の名残で賑やかに浮かれた気分で出発した一行は、日が経つにつれだんだんと口数も少なく疲弊感が漂ってきた。


「…遠い」

 リナ様が憮然と呟く。


 私もここまで時間がかかると思わなかった。

 最後の宿を出立してはや十日。目的の険しい山までたどり着く気配が全くない。


 食料を節約すべく魔猪の肉を食べることも覚えた。これも、リナ様の光魔法だと魔獣が殲滅してしまって跡形も残らないし、カリスト様の火魔法だと丸焦げで食べられたものではない。食料にするためには多少危険でも、剣を使って倒す必要があるのだ。

 私は魔獣を倒すことも解体することも力になれないが、山に入って野草や果物、栗などを取ることは覚えた。

 野草は苦みが強いことも知ったし、栗は拾っても拾ってもむいてもむいても腹の足しにならないことも知った。

 日ごろ当たり前のように並べられていた栗のタルト一つのために、どれだけの栗が使われているのか、考えただけでくらくらする。


 それでも、皆で同じ火を囲み、同じものを食べる時間は楽しかった。

 あれ以来独占欲を隠すこともなく私の隣を離れないカリスト様とのたわいない会話も幸せに感じる。


 王太子妃の吟持も尊厳も関係ない。皆同じ。

 ああ、リナ様が言っていた、「命は平等」と言う意味がようやく分かった気がする。このメンバーの一人として欠けて欲しくない。平民も貴族も関係ない。全員大切な仲間なのだ。


 そうして、いよいよ本丸に乗り込む時が来た。

 山のふもとにたどり着いたのだ。


「‥‥え?」


 そこには、あれほどいた魔獣が一体もいなかった。

 ただ、氷のように冷えた空気と、頂上近くに漂う黒い靄。

 何も、ない。

 そう表現するのが一番しっくりきた。


「アンジェラも、来て」

 リナ様が手を伸ばす。


 カリスト様が何か言いかけたが、私は迷わずその手を取った。


 戸惑う魔法騎士たちとは裏腹に、リナ様には全てを理解しているようだった。だとしたら私はついていくまでだ。


 何も出ない、ただ険しいだけの山。草木すらまばらになり、岩や石がごろつく中、皆は私とリナ様を囲うように陣形をとりながら登っていく。

 一歩一歩踏みしめながら。


 やがて頂上付近に着くと、そこには先ほどから見えていた靄が、巨大な大きさで待ち構えていた。

 この靄の中に魔王がいるのか、それともこの靄自体が魔王なのか。さっぱり見当がつかない。


 途方に暮れて立ち尽くす我々とは対照的に、リナ様はすべきことを分かっているようで、しっかりとした足取りで歩き出した。

 彼女の身体が淡い光に包まれていく。


 きっとどこかで膝をついて、いつものようにリナ様が祈りを捧げればこの靄は霧散するのだろう。

 そう願う私達を嘲笑うように、彼女は歩みを止めない。


 やがてその靄の淵にたどり着いた時、彼女はゆっくりと振り返り、微笑んだ。


 行ってしまう!

 そう感じた瞬間、勝手に動き出そうとした体を、カリスト様に抑えられる。


「リナ様!」

 飛び出そうとしたアルフォンソも、仲間に取り押さえられていた。


 なすすべもなく見守る中、彼女は靄の中に入っていく。

 やがて、彼女の姿も光も、全てが靄に包まれ、消えていった。


 我々は呆然と見守る。

 靄は小さくなることも大きくなることもなく、依然としてそこに在り続けた。


 どれぐらい時間が経ったのだろう。


「聖女様は…、封印に失敗したのか?」

 誰かが呟いた。

「聖女様は、消えてしまわれたのか?」

 そんなわけない!!叫ぼうとしてもその気力すら出せなかった。


「…しばらく様子を見よう」

 カリスト様が苦しそうに声を絞り出した。


 靄は相変わらずそのままで、何の変化も怒らないまま、夜のとばりが下りる。

 私達はまんじりともせず、夜を過ごした。


 やがて日が昇り、変わらぬ朝を迎えた。

 靄は相変わらずそこに在る。


 何故リナ様はこの靄の中に入っていったのか。この靄からは魔獣が一匹も出てこないのか。何もわからないまま、時間だけが過ぎていった。


「ふもとのベースまで戻る」

 日も高く上った頃、カリスト様が皆に伝えた。

「それは!!」

 アルフォンソが苦しそうに訴える。


「ここにいられるのも時間の問題だ。状況を整理するためにも休息をとるためにも、一度ベースに戻る必要がある」

 カリスト様の判断に、アルフォンソは退かなかった。

「…私は。私はここに残ります」

「アルフォンソ!!」

「三日、三日でいいのです!残らせてください。お願いします」


 跪き、許しを請うアルフォンソに、誰も何も言えなかった。


「…わかった。だが一人で残るのは認められない。誰か他の者も残す」

「いえ。一人で、いたいのです」


 それは、彼にとって、リナ様と決別するための時間なのかもしれない。

 単独行動することの危険さを知りながらも、どうしても拒めなかった。


「水と保存食を置いておく。だが、期限は三日。それ以上は待てない。良いな」

 カリスト様は大きくため息をつくとそう伝えた。

「生きて。必ず生きて戻れ」


 言葉を発しないまま、私達は沈痛な面持ちでふもとに戻った。


 あれから毎朝、山の頂を眺める。残ったままの二人を思い出しながら。

 リナ様はどうしてあの靄を消し去らなかったのだろう。何故あの中に入って行ってしまったのだろう。

 魔獣は、今後減らないのだろうか。

 私達の生活は。


 わからないまま二日が過ぎた。

「明日、もう一度山に登る。アルフォンソを迎えに行く」

 火を囲みながらカリスト様が話し出した。


 きっとアルフォンソは戻ってこない。引きずり降ろしてでも連れ帰る必要があるのだと、みんな気づいていた。


 ガサリ。

 ふいに音がして振り返る。


 そこには、リナ様を背負ったアルフォンソが立っていた。

「リナ様!」

 リナ様はぐったりとアルフォンソにもたれかかっているが、意識はあるようだ。


「ちょっと!みんなして私を置いて帰るって、ひどくない?」

 何故か声だけ威勢のいい、相変わらずなリナ様がそこにいた。


 思わずリナ様に走り寄る。

「こらこら!」

 抱き着こうとしたその手前で、カリスト様に首根っこを掴まれた。


「こんな時までヤキモチなんて、カリストもたいがいね」

 アルフォンソに体重を預けながら、リナ様がからかう。

 確かに、今抱き着いたらそれはリナ様でなく、間違いなくアルフォンソに抱き着くことになっていた。

 気まずくなってごまかしながらも、二人が帰ってきた嬉しさを隠しきれない。


 うわあ!!

 気づけば二人は皆に囲まれていた。


「どうして!どうして聖女様はあの中に入られたのですか?」

「よくぞ御無事で!」

「魔王は?魔王はどうなったのですか?」


 聞きたいことが多すぎて、皆口々に声をかける。

「まあまあ皆さん、慌てずに」

 そんな面々を何とか抑え、アルフォンソがそっとリナ様を下ろした。

「魔王は無事封印されました。今はとにかく、リナ様を休ませましょう。目が覚めたらゆっくり話を聞けばいい。時間は十分にあります」

 優しく彼女を見つめるアルフォンソの瞼も、とろりと落ち始めている。

「アルフォンソも寝ていないのだろう。二人ともゆっくり休むといい。我々が警護しておくから」

 カリスト様の声掛けに、アルフォンソがようやく安心したように微笑んだ。


「ありがとうございます。ではお言葉に甘えて…」

 言うやいなや、崩れ落ちるように二人その場で倒れ込む。


 あっという間に二人抱き合うように眠ってしまった。

 二人に毛布を掛けると、私達は見守るように焚火の近くに移動した。


「お腹も空いているだろうに。スープ、食べさせてあげたかったな」

「起きたらすぐに食べられるように、準備しておこう」


 先ほどと同じ静かな空間なのに、優しく、暖かな時間が流れていた。


 ***


 二人は丸一日近く眠り続けた。


 そして目が覚めた瞬間、怒涛の勢いで食事に齧り付く。

「魔王はね、封印したよ。ちっちゃい黒い球になった」

 モグモグとほおばりながら、リナ様は話す。


「どうして靄の中に入ったのですか?」

 私の質問は皆が聞きたかったこと。

「魔王と話す必要があると思ったから」

「魔王と話が出来たのですか!?」

 驚く皆に、

「ううん、出来なかった」

 あっさりと答えた。


 え。じゃあ…。

「でもなんとなくはわかったよ。魔王が思ってること」

「どんな?」


「うーん」

 リナ様は肉の塊を一旦皿に置いて考えるそぶりを見せる。

「多分、だけど。私を待ってたんだと思う」

「え?封印されるのを望んでいたと?」

「それとも違うかな~?大きな靄を作るのも、黒い小さな球体になるのも、どっちも在るべき姿だととらえているというか」

 よくわからない。


「とにかく、次の魔王討伐?は150年後じゃなくて100年後だよ、早めの対策が必要だね」

「なんでわかるんですか!?」

「うーん…。なんと、なく?」

 彼女はまた肉を手に取りながら首を傾げた。


「よくわからないけど、魔獣が現れることも討伐されることも、魔王が活性化することも封印されることも、この世界には必要な摂理で、繰り返されるんだって。だからまた、次の世代の人が頑張らなきゃいけないらしい」


 私達が全く理解できない場所で、リナ様は何かを感じ取ったのだろう。


 ちなみに。

「リナ様が私を連れて行った理由は何だったのでしょう?」

 結局私どころか、魔法騎士の誰も何の役にも立たなかった。けれどリナ様は最後にみんな一緒に行くことを望んだ。なにか理由があったのだろうか。


「別に?ただ、一緒がいいなって思っただけ」

 一緒。…一緒。

 わからないことだらけだけれど、その言葉に嬉しくなる。


「リナ様」

「ん?」

「お疲れさまでした。そして、ありがとうございました」

 丁寧に頭を下げると、大輪のような笑顔が戻ってきた。

「うん!」

「一緒に、帰りましょう」

「うん!帰ろう!」


 今までで一番の笑顔を見せてくれた。


 ***


 王都への凱旋は、それはそれは大歓迎で大騒ぎで迎え入れられた。

 何もしていないと尻込みする私の背中を押してくれたのはカリスト様で。曰く、

「何もしていないと言われたら私達も同じだ」

 なのだそうで。


 凱旋パレードの先頭はカリスト様と私が乗ったオープンの馬車。

 その後ろに続くのはリナ様とアルフォンソが乗った馬車だった。


 紙吹雪舞う沿道で二人仲良く手を振る様は見ていて微笑ましく。このままリナ様がこの世界に残ってくれればいいのにと願ってしまう。


 それでも、リナ様が元の世界に戻る時は近づいていた。


 ***


 王宮の大広間に、新たな魔法陣が展開される。

 リナ様を戻すための魔法陣。


 アルフォンソの手を離し、リナ様が静かにその中央に向かって歩く。


「リナ様!!」

 アルフォンソがリナ様の手をがしっと掴んだ。

「私もリナ様の世界に連れて行ってください!」


 リナ様は驚いたようにアルフォンソを見て、そして静かに首を横に振った。

「あの世界でアルフォンソが生きていくのは難しいと思います」

「でしたら!」

 アルフォンソが跪き、リナ様の手を取る。

「どうか、どうかこの世界に。私と。生涯を共に。私の全てをリナ様に捧げますから」

 アルフォンソはリナ様の手を額に当てると、絞り出すような声で懇願した。


「アルフォンソ…」

「愛しています。愛しています、リナ様。どうか、どうか…!」


 誰もが息を詰めて見守る。


 リナ様は困ったように首を傾げると、アルフォンソの頬にその手を沿わした。


「ありがとう。私もね、考えてはみたの。この世界でアルフォンソと生きていけたらって」

「でしたら!」

「でもね」


 リナ様はアルフォンソの言葉を遮るように続ける。

「やっぱり私は、スマホとコンビニのない世界では、生きていけない」


 きっぱりと断言すると、くるりと背を向けて魔法陣に足を踏み入れた。

「リナ様…!!」


 眩しいほどの光が放たれて、一瞬にしてリナ様が消える。


 ありがとう、楽しかったよ。アンジェラ、厳しいことをたくさん言ってごめんね。貴方なら、この国を支えていけるよ…。


 遠くから、そんな声が響いていた。


 呆然と座り込むアルフォンソに、誰もがどう声をかけていいかわからない。

「あの…」

 ようやく声をあげたのはカリスト様だった。


「うん。まあ、気を落とすな」

 ポンっと彼の肩に手を置く。


 皆気まずそうに目を逸らす。

 私も何も言えず、ただ突っ立っていた。


 まさか、あちらの世界にリナ様の恋人がいるとは思わなかった。しかも二人も。

 もちろん、それぞれの世界の価値観があるのだから、それを否定するつもりはない。

 私もこの世界で頑張っていくと決めたように。


 だから静かに祈る。


 どうか元の世界でも、スマホさんとコンビニさんとお幸せに…。



すみません。

オチがなんだか…。

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― 新着の感想 ―
落ちに全部持っていかれましたw
[一言] イイハナシダナーと思ってたら最後の最後でとんでもない勘違いがw
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