魔王を倒したので禁煙します。
オプリクは足早に廊下を歩く。
予定の時間を二十分ほど過ぎたところだった。
すれ違う同僚と会釈を交わすこともなく、草臥れた浅葱色の絨毯にたまに靴裏を擦らせながら、目的の部屋まで急ぐ。
オプリクだけではない。現在城内にいる人間のほとんどが忙しなく、前のめりになってそれぞれの仕事に勤しんでいた。
雑に束ねた書類を鼻先の高さまで抱え、汗だくで走り回る小太りの男。
通行人の妨げになっていることも気づかずに、道のど真ん中でしかめ面を寄せ合って会議を行う老人集団。
桶に入った水を豪快に零しながらよたよたと歩く眉のない若い女。
どこからか湧いて出たネズミの大家族。
それを追いかけるどこからか迷い込んだ二匹の野良猫。
いつからそこに放置されているか定かではない熟し過ぎた林檎。
それぞれが、自分が一番忙しいのだと言わんばかりの顔をしている。
そんな人間、獣、果物、ガラクタの間をすり抜け、時折飛び越えながら、オプリクは思った。
平和とは、こんなにも騒々しいものだったのかと。
転がるように階段を駆け降りた。
各階の踊り場を通り過ぎるごとに、喧騒は遠ざかる。
目的の階に着いた頃にはほとんど聞こえなくなっていて、代わりに外で囀る小鳥の声が、穏やかな陽光と共に窓から入り込んできた。
ふと立ち止まり、窓から見える景色を眺める。そこには小さな噴水を中心に正方形に形作られた中庭があった。
敷き詰められた青い芝生の上で、時折雀が数羽小さく飛び跳ねるのが見えた。
風が運んでくる甘い香りは、噴水の周りにチラホラと咲いている黄色い花のものだろうか。
花の名前こそ覚えていないが、独特の香りは害虫避けになるのだと顔見知りの庭師が話していたのを思い出す。
その庭師といえば午前の作業を丁度終えたところのようで、城壁の側にぽつんと置かれた石造りのベンチに腰掛け、今日の仕事の出来栄えをぼうっと見つめていた。
城での仕事を始めてから六年、今までに何度も見た光景だ。
噴水の水も、芝の色も、庭師の少し右に傾いた座り方も、そこに目新しさなどはない。
しかしいくつか気づいたことがあった。
噴き上がった水が落ちた時、周りの石畳を少し濡らして煌めくこと。
均一に見える芝生の中に、素朴で冴えない白い花が蕾を作っていること。
庭師の足元に置かれた麻の袋に、幾つか小さな穴が空いていること。
いつか旅にでも出てみようか。オプリクはそんなことを思った。数ヶ月前の自分と今の自分とでは、見える景色が少しばかり違うらしい。
慣れ親しんだ城の中でそう感じるのであれば、今まで見てきた世界は、現在の彼の目にはどう映るのだろう。
「説得が大変そうだな」
今頃自宅で家事と子育てに追われているであろう妻の顔が頭をよぎり、少し笑った。
笑ったところで先ほどまで弾んでいた息が収まっていることに気づき、はっとなる。
そういえば、自分は先を急いでいたのだった。
窓の外から視線を切って駆け出そうとしたところで、もう一つ重要なことを思い出す。
今から通るのは、迎賓室の立ち並ぶ前にある廊下だった。
彼が今把握しているだけでも、他国から足を運んだ数名の客人がそれぞれの部屋で体を休めている筈だ。
先ほどよりも格段に慎重に、しかしその足取りはやはり忙しなく、長い廊下の先にある重厚な扉を目指す。
現在進行形で待たせてしまっている面々の非難の言葉を思い浮かべながら、オプリクは額の汗を雑に拭った。
「遅くなって申し訳ない…!」
立て付けの悪い扉を強引に押し開け、開口一番謝罪を述べた。
応える言葉のない中でオプリクは部屋を見渡し、自分が座るべき席を探す。
彼が入ってきた扉は部屋の後方にあり、目当ての椅子は円卓を挟んだその反対側にあった。
「その…朝からばたばたでね。他の約束を二つ、いや三つほどすっ飛ばして来たんだけど」
取るに足らない言い訳を口にしながら、部屋の中を足早に進む。
これもまた返事はない。
どうやら本当に怒らせてしまったようだ。
目を合わせることも憚られ、オプリクは右手で顔を隠しながら机の横を通り過ぎた。
ガタガタと音を立てて椅子を引き出し、半ばよろけるようにして勢いよく腰を下ろす。
その際、事前に用意して置いておいた書類が数枚めくれ上がり、床の上に散らばった。
あわあわと拾い集めて再度机の上に置き直し、乱れた前髪を整えて、やっとのことで待ちぼうけを食らった面々と相対する姿勢に落ち着いた。
「こちらから呼びつけておいて、本当に申し訳ない」
弾んだ息もそのままに、オプリクは机に手をついて深々と頭を下げた。
やはり、静寂。
身動きする気配もない。
呆れて物も言えないのか。
それとも、自分の二の句を待っているのだろうか。
相変わらず続く沈黙に耐えきれず、再びオプリクが口を開いたその時、初めて「ぐぅ」という微かな声が聞こえた。
顔を上げると、呼び集めた五人全員が、みな思い思いの寝姿を晒していた。
正面に座る無精髭を生やした大男は腕を組み、眉間に皺を寄せて俯いている。膨れ上がった両肩がゆっくりと上下する様を見て、大型種の魔獣のようだとオプリクは思った。
オプリクから見てその右隣には、大男と比べればあまりにも小柄で華奢な少女が、机に頬をつけて静かに寝息を立てている。肩の辺りで切りそろえた栗色の髪の隙間から、少しだけ尖った耳がちらと見えた。
少女の反対側では椅子に浅く腰掛けた赤髪の青年が、背もたれを使って豪快に顔を仰け反らせていた。弛緩した口は小さく開き、時折何か声にならない呟きを発している。何故だか自分の寝顔が少しだけ心配になったオプリクは、自分のすぐ右隣に座る若い女に視線を向けた。先の三人と違い真っ直ぐな姿勢で座り、礼儀正しく両手を膝の上に乗せた彼女だったが、なるほど確かに寝ているようだった。目尻の美しい両目はしっかりと閉じており、極めつけに固く結んだ口端からは綺麗な透明の液体が一筋、顎に向かって垂れている。オプリクの間違いでなければ、先程の寝息は彼女の方から聞こえてきたはずだ。
オプリクは気が抜けたと同時に、それもそうかと浅くため息をついた。
彼らはおよそ七年もの間、魔王軍の侵略から人々を守るために休む間もなく戦い続けていたのだ。
魔王とその本隊を打ち破ってから、まだひと月と経っていない。消耗し切った体と心を休めるには、あまりにも短い時間だった。
「んごっ」
すぐ左隣でテーブルに突っ伏している男が間抜けにいびきをかいた。少しの間呼吸が止まっていたらしい。
早く乱れた寝息は少しずつテンポを緩め、やがて規則的なそれに落ち着いていく。
昔から変わらない四方八方に癖のついた灰色の頭を見ながら、オプリクは微笑んだ。
三者三様、もとい五者五様の寝姿を無防備に晒しながら、英雄達は無意識の中で平和を噛み締める。
せめて最初の一人が起きるまではそっとしておこう。
そう思ったオプリクは、誰の耳にも入らないように小さな声で一言だけ呟いた。
「おかえり」
はじめに目を覚ましたのは小柄な少女だった。
ゆっくり片目を擦りながら、まだ夢の中にいる仲間の姿をもう片方の目で順に見回す。
その寝ぼけ眼がオプリクの顔を捉えると、ややあってから照れ臭そうに笑った。
「ごめんね、寝ちゃってた」
「まだ眠っていて大丈夫だよアルマ」
「ううん、オプリク忙しいんでしょう。今みんな起こすね」
そう言ってアルマはすぐ左隣に座る人物の肩を優しく揺らした。
「起きてラピス。もうオプリク来てるよ」
「ん」
ラピスと呼ばれた女は、本当に今まで眠っていたのか疑問に思うほどあっさりと目を開けた。
驚いたオプリクの顔を見つけると真っ直ぐにその目を合わせ、片方の眉を怪訝そうに顰める。
研ぎ澄まされた剣の切っ先を思わせる瞳は、思わずたじろいだオプリクの視線を掴んで離さない。
「…えっと、僕の顔に何かついてる?」
「オプリク、どうして君が女性用トイレに 」
「ここはお手洗いじゃないよ」
真面目な顔ですっとぼけた事を言うラピスを後ろ姿で窘め、アルマは次に大男の傍に歩み寄る。
椅子に座りながらなお自分の頭より高い位置にある男の横っ面を、おもむろに平手で強く打った。
「フリアも起きてね」
「お?」
目の前で起きた突然の暴力に顔が引き攣ったオプリクを他所に、フリアは乾いた目をしぱしぱと瞬かせながら、はたかれた頬を小指でかいた。
「おお、オプリク。久しぶりだな」
「君はいつもそんな風に起こされているのかい?」
「そんな風ってのは?」
「いや…知らないならいいんだ」
次は赤髪の青年だった。オプリクは恐々としながらアルマの動きを見守る。この少女、可愛い顔をしながらとんでもない胆力である。
先の二人よりも更に半歩椅子に近づき、アルマは少しだけ屈んでその口元を青年の耳元に寄せた。
「エリノア」
「ぁんっ」
耳の穴に優しく息を吹き込まれた男は、聞くに堪えない嬌声を一つ漏らす。オプリクは表情を失った。
目の前の面々が救世主であるという事実を思わず忘れてしまいそうになる。
「フーモは、どうしよう」
「いいよそいつは。一度寝たら自分のタイミングでしか起きないし」
「そうだね。ふふ」
アルマは目を細め、口に手を当てて笑った。
「幼馴染って感じ。いいね」
「えらく遠い存在になっちゃったけどな」
「そう思う?」
「思うよ」
自分と同じくこの国で燻っていた少年が、今や救世主の一人として世界で最も有名な存在になった。
友としてこの上なく誇り高い気持ちは勿論あまりある。同時に感じる小指の先程の寂しさも、偽りなくオプリクの本音だった。
「片やこっちはただのしがない公務員だからな」
「ここからがオプリクの手腕が光るところでしょ」
アルマは屈託なく笑ってそう言うと、オプリクの後ろを通って自分の席に戻った。
どこまでやれるかな。そんな言葉を飲み込んで、オプリクは小さく息を吸った。
一人を除いた英雄達の視線が自分の顔に集まる。
これから始まるのは、魔族による蹂躙のない世界。
人類は、まだ誰も経験したことのない時代に足を踏み入れた。
誰もが平和を享受できる世界、ではないのかもしれない。たった数ヶ月の間で新たに浮き彫りになった問題は山積みで、目が眩むほどに高く積み上げられている。
それでも、まずはこの国から導かなければ。
吸った息を一気に吐き出して、オプリクは未来を見据える。
「それじゃ、始めようか」
僕らのこれからについての話を。
「…と、まあ。逃げ残った魔族に関する報告はこれくらいかな。いくつかの国で交戦したという知らせはあるけれど、今のところ最小限の被害で済んでるみたいだ」
どの国でも死者は出ていない旨を付け加え、オプリクは一つ区切りを入れる。直近の世界情勢に関する報告をいくつか終えたところだった。
最後の大きな戦いを終えてから今日に至るまで、アルマ達はその日々の大半を治療と休養に充てている。
少しばかり世間の動きに耳遠くなった頃合いだろう。
「とりあえず残党狩りは急務だな」
フリアが口を開いた。
「具体的にどこの国だ」
「ダストリア、シュラ、ノードン、ポリプス諸島」
「海を渡ったのか」
フリアは不服そうに鼻を鳴らし、背もたれに身を預けた。
「短い期間で随分と遠くまで散らばったもんだな」