100万回おはようと言って
「おーい。起きろよー。」
なんだ?地震が来たのか?と思ったがそんな訳はない。
制服の型が顔に付いて赤くなっているであろうことが自分でわかる。
身体を起こし上を向くとそこには笑顔でこちらを見下ろしている蘭がいる。
寝起きの夕暮れ前の日差しが眩しいのか蘭の笑顔が眩しいのかわからなかったからわかろうとするのをやめた。
「おはよう、杏奈。」
殺人的な笑顔。私が童貞ならきっと殺されていただろう。これでもし蘭が例のセーターをきていたら私は2回死んでいる。
「よーーー寝たあ。ホームルームで先生なんか大事なこと言ってた?」
「えーっと、進路の紙を今月までに出すようにって。お前らもうすぐ3年なんだからどうたらこうたらって」
「ふーん」
相槌を打ちながら鞄から使わなくなったサブのiPhoneとエアポッズを取り出す。放課後の私たちの必需品だ。右耳用を蘭に渡しながら鞄を持って立ち上がり、毛布がわりにしていたブランケットを肩から羽織り直す。
「杏奈が毎日寝てるおかげでホームルーム中先生の話しっかり聞くようになったよ」
「セミのこえをきーくたびにー」
「相変わらず椎名林檎好きやなあ。ほんで相変わらず人の話聞かんなあ」
「まあまあお姉さん。歌おうぜ。音楽室までパレードよ」
「私はアルゲディが好きなの。いつになったら聞いてくれるのよ」
「お姉さん、アップルミュージックにないバンドの歌なんて聞けねえよ」
「今度ライブあるから一緒に行こうよ」
「めにうかぶクジューークリハマー」
「もういいわ。ため息も出ん。」
そう言いつつもハーっと言う蘭の前をスキップしながらカプリコを片手に音楽室に向かう。イチゴ味。グランドからサッカー部の掛け声が聞こえる。スリッパが脱げそうになる。
世界の主役は私たち2人。世界一大好きな時間。
私はいつものようにグランドピアノの前に座る。蘭はシャーーっという音ともにカーテンを勢いよく開け、グランドを見下ろしている。in音楽室。
蘭は世界に向かってフルートで知らない音を奏でている。アルゲディのなんたらって曲だ。なんだっけ。忘れた。まあいいや。
私はでたらめに鍵盤を叩きながら大声で歌う。
「やーくそくはーいらーないわーーー」
「杏奈の声量ほんとどうなってんよ。」
と蘭はこちらを振り向いて笑う。
凶器じみた笑顔に後ろからオレンジの光が差す。私が中高一貫男子校出身なら余裕のオーバーキル。危ない。
「防音やから大丈夫っていつも言ってるやろ。」
「そうゆうことじゃない。私の演奏がめちゃくちゃになるのよ。」
「へへ。すまんすまん。」
窓の外に向き直り演奏を始めた蘭の後ろ姿を眺めながら教室の隅の椅子に座り机に体を横たえる。蘭の上に飾ってある舌を出した過去の偉人が目につき、不毛なにらめっこを仕掛ける。惨敗。蘭の演奏を敗北のBGMにしてしまった。ごめん。世界一大好きな時間その2。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
不意に目が覚める。眠ってしまっていたようだ。
「おはよう、杏奈。」
そう言う蘭はもういない。
別れは突然だった。
彼女は遠くへ行ってしまった。どれだけお金を払っても辿り着けないところへ。私も同じところへ行こうと何度も試みた。行き方はいくつも知ってる。
蘭のいない世界は全てが灰色に見えた。アダムにはイブが必要なように、ナルトにはサスケが必要なように、私には、杏奈には蘭が必要だ。
彼女のいない不完全な世界に価値はない。
そう思っていた。
でも、もう二度と会えないと思っていた蘭にまた、会えた。
長い夢だった。天国から蘭が私に見せてくれたのかもしれない。完全な世界が永遠に続くなら二度と覚めなくていいのにと思った。
アルゲディのCDを胸に抱きしめ、もう一度海のように深い暗闇に意識を預けた。
「おはよう、杏奈」