彼女に花を贈る者③
囚われたロブが攻撃を受けるさ中、エレンが目を覚ます。
彼を打ったバットは、次の標的をエレンに定めるが……。
最初は、何が起きたのか全然理解出来なかった。
側頭部に感じた衝撃は即座に痛みに変わり、ひどい耳鳴りのようになって頭の中で木霊している。
頭に被せられたバケツが傾き、視界が少し開ける。
今目に映るのは自分の足元で、そのすぐ傍に、デコボコとして汚れた金属バットがある。
ああ、なるほど。
俺はバケツを被せられて、横っ面をフルスイングされたみたいだった。
まるで、ガキのケンカじゃないか。
「おーーっとぉ!」
「ちっとやり過ぎちまったかな?」
布袋の連中だろうか。
何匹かが、興奮気味に声を上げた。
その声から察するに、まだかなり若そうだ。
「口のきき方には、気を付けてほしいな」
「僕の雇った連中が、何をしでかすか分からないよ?」
オオカミがそう言うのを聞いて、バケツの中で俺はほくそ笑んだ。
雇った連中なんて言えば聞こえはいいけど、蓋を開ければ、そこらの不良少年たちを金で釣った程度のことか。
そういうことでしか自分を大きく見せられないなんて、こいつは本当に、大したことのないヤツに違いない。
とはいえ、だ。
自分のことは何とかするとして、エレンが心配だった。
成り行きによっては、シローさんの手を借りるべきか……。
「おいおい、このオッサン、中でノビてんじゃね?」
「マジかよ、あの一撃で?」
バケツ越しに、不良少年たちの囁き声が聞こえてくる。
オッサン、というフレーズに、少なからずカチンときた。
「……オッサン、はやめろよ」
「お前らこそ、金に釣られてバカなことするんじゃない」
「あんなヤツに関わったって、何も得することはないからな」
「うるさい、うるさい!」
「やれっ、やってやれぇ!!」
オオカミが喚くように叫ぶのが聞こえ、一瞬の間を置き、バケツスイングが再開された。
今回は連打で、さすがにキツい。
ただ、些細な挑発で激高するところを見ると、あいつは間違いなく素人だ。
何回目かの殴打で、俺はとうとう、椅子ごと横にひっくり返った。
倒れた拍子に頭を打ち、鼻の奥がツンと痛む。
「ハアッ、ハアッ、ハアッ」
「ざまあみろ! この、クソオオカミ!」
お前もオオカミだろと思いつつ、俺は鼻血が流れ出してくるのを感じていた。
いくら素人とはいえ、いい加減どうにかしないといけない。
そう思った時だった。
「ん……んん」
小さな声を上げ、エレンが目を覚ましたのだ。
こめかみの辺りを押さえ、マットからゆっくりと体を起こす。
痩せたオオカミは、ぎょっとしている。
「ここは……」
「あれ、わたし……」
定まらない視線をふらふらとさせたエレンは、見知らぬ景色の中に俺を見つけたみたいだった。
風邪を引き、部屋で寝ているはずの俺が床に転がっているのを見て、彼女は心底驚いていた。
「ロ、ロブ!?」
「どうしたの!?」
自分の置かれている状況を飲み込めないままにも、エレンは俺の元に走り寄ろうとしていた。
その腕を、オオカミが掴む。
「い、いけません!」
「どうして彼の元へ行くんですか!?」
自分の腕を取ったオオカミを見て、エレンは目を見開いた。
一瞬、相手が誰なのか分からないような顔をしていた。
「あなた……あの、お客さん?」
「離してください!」
驚いた様子のエレンだったが、すぐさま彼を振り払う。
何だか妙な展開になったことで、布袋の連中もざわつき始めた。
「ロブ!」
「一体どうしちゃったの!?」
「やあ……何ともない?」
「わたしは何ともないわよ」
「ひどい、誰がこんなこと……」
椅子ごと床にひっくり返っている俺の頭を抱き、エレンは呟いた。
エレンが目覚めるのはシナリオになかったのか、布袋たちはどうしていいか分からないといった感じだ。
混乱の中、バットを持っていた1匹がエレンに振りかぶったのが見えた。
「エレン!」
「やめろぉ!!」
俺とあいつ、2匹のオオカミが同時に叫んだ。
俺を散々打ち据えたバットが、今にも彼女を打とうとしている……。
ヒュッと空気を切り、バットは俺のすぐ目の前に振り下ろされた。
間一髪のところで、エレンはバットの打撃を避けたのだ。
それも驚くべきことだったけど、俺の驚きは、それだけでは終わらなかった。
彼女は無駄のないステップを踏むと、バットを持つ少年の後ろに回り込んだ。
相手が反応する前に、バットを持つ手を後ろでひねり上げる。
「うぐっ! い、痛ぇ!」
「おいっ、こんなの聞いてねーぞ!!」
エレンに腕を捻られた少年は、呻いて床にバットを落とした。
エレンがすぐにそれを拾い上げ、今度は少年たちに向ける。
「い、行くぞ!」
「やってらんねーよ!」
バタバタという足音が遠ざかっていくのを、俺は背中で聞いていた。
それを見送ったらしいエレンが、今度はオオカミに向き直る。
「あなたがやったんですか?」
「だったら、わたしはあなたを許しません」
エレンはオオカミに向かって、すっとバットをかざしてみせた。
痩せたオオカミの顔に、悲しみと苦渋が広がっていくのが分かる。
やがて彼はじりじりと後退ると、少年たちの後を追うように部屋から消えたのだった。
「はぁーーーっ」
「よ、よかった……」
大きな息を吐いて、エレンは膝を折った。
俺の隣にぺたんと座り込むと、バットが床を転がっていく。
「……ええと」
「俺、熱に浮かされてる?」
「何か、すごいものを見た気がするんだけど……」
「その話は、ちょっと待って」
「今、縄を解くから」
手際よく縄を解くと、彼女は肩を貸して俺を起き上がらせた。
もしかして、目の前にいるエレンは、全くの別人だったりするだろうか?
そう思ってまじまじと顔を見つめたけど、やっぱりいつものエレンにしか見えない。
俺は真相を知りたかったけど、エレンはすぐにここを離れるつもりみたいだった。
俺たちは下で待っていてくれたシローさんの車に乗り込み、家まで送ってもらうことにした。
「すごかったよ、さっきの」
「ああいうの、前から出来たの?」
「ううん、最近覚えたの」
「わたし、前にも連れ去られたことがあったでしょ?」
「ロブも大変な仕事をしてるし、足手まといにはなりたくなくて……」
後部座席で膝枕をしてもらいながら、俺はエレンの話に耳を傾けた。
下から胸のふくらみ越しに見上げる彼女は、少し照れたような顔をしている。
「前に行った……クロヒョウがオーナーをしているレストランを覚えてる?」
「ブラッツ・キッチンのこと? うん、よく覚えてる」
忘れるわけがない。
彼女とあの店に行き、面倒ごとに巻き込まれ、それで初めてキスをしたんだから。
「オーナーのブラットが、護身術を教えてるって聞いて……それで、内緒で通ってたのよ」
「まさか、あんなにちゃんと使えるようになってたとは、思ってなかったけど」
ばつが悪そうな顔をして笑うと、エレンは髪を耳にかけた。
そんな仕草に、俺は車に揺られながら見とれていた。
俺は今さらながらに思った。
俺はもしかしたら、とんでもなく素敵な女性を射止めたんじゃないだろうか、と。
「……どう思った?」
「ちょっと、乱暴だったかしら?」
不安げに俺を見る彼女に、もう我慢できるはずもなかった。
膝枕から頭を持ち上げると、右手で彼女の顔を引き寄せた。
「いや、すごくよかった」
「惚れ直した……」
俺たちの会話も、俺がエレンにキスをしたのも、シローさんにはばっちり知られてしまったはずだ。
彼がどんな顔をしていたかまでは、見えなかった。
ただ何となく居心地の悪そうな咳払いが、運転席の方から聞こえただけだった。