地獄の夜間訓練①
特犯に入った新人は、秋口に行われる「夜間訓練」とやらに参加する決まりになっていた。
かつて参加したシローの話を聞き、戦々恐々とするロブだったが……。
「フン、フン、フフフーーン」
「珍しいですね、ドミニクさんが鼻歌なんて……」
俺はデスクワークをしながら、隣の席にシローさんに囁いた。
暑い夏もようやく過ぎ、過ごしやすい秋の気配が見え始めた今日この頃。
シロクマは暑さに弱いらしいから、ドミニクはそれで喜んでいるものだとばかり思っていた。
「ああ……アレね……」
「……今年も、アレの季節がやって来ましたね……」
暗い顔でシローさんが応じたのに、ムースが乗っかってきた。
ムースに至っては常時がこんな感じだけど、シローさんがメスに振られた話以外で、こんなに塞いだ表情を見せるのも珍しい。
「アレって、何なんです?」
「アレって、アレだよ……夜間訓練」
「夜間訓練?」
「……ロブ、覚悟した方がいいですよ……」
「……その年の新入りは、強制参加ですから……」
相変わらず薄暗い表情のまま、ムースが念を押してきた。
2匹の話から推測すると、どうやら俺が参加しなくてはいけない夜間訓練とやらが、近々あるらしい。
「それとドミニクさんの機嫌がいいのと、何か関係あるんですか?」
「ドミニクはさぁ、寒ーいとこが好きなんだよ」
「ほんで、夜間訓練は、もう雪が積もっちゃってる寒ーい山奥でやるんだよ」
「……彼は、ストイックなところがありますからね……」
「……死ぬほど疲れるのが、嬉しくてたまらないんです……」
ムースの言葉に、俺はちょっと背筋が寒くなった。
シローさんを窺うと、彼もまた、ちょっと青くなっている。
「夜間訓練は、新入りの力試しも兼ねて行われるんだ」
「あー、だから俺は強制参加なのか……」
「オレが入った時も、そりゃあ大変でさあ」
「昼過ぎから山に入って、オールで訓練するんだよ」
「次の日はそのまま直帰出来るんだけど、オレ、玄関で倒れて半日寝たわ」
「……」
俺は、ごくりと唾を飲み込んで、シローさんの話に耳を傾けていた。
彼は、どこか遠い目をして話を続ける。
「んで、当時同棲してた彼女に発見されてさ」
「記憶にないんだけど、そこで彼女のこと押し倒したらしくて」
「また半日後に玄関で、今度は素っ裸で目ぇ覚ました……」
「傍に『あんなことするなんて信じられない! 死ね!』って殴り書きしたメモがあってさ」
「こっちは記憶ないし、もうパニックだよ」
「後で彼女に聞いたら、相当酷いプレイしたみたいでさー」
「それまで超いい感じだったのに、別れたの……」
「あー……そうなんですか……」
そこまで話すと、当時のことを思い出したのか、シローさんはぐったりとうな垂れた。
そこへ、ムースが補足を入れてくる。
「……死にかけると、子孫を残そうっていうセンサーが強く働くみたいですね……」
「……ロブも、シローのようにならないければいいけど……」
ムースの最後の一言は、まるで地を這って吹く風のように響いた。
俺は、全身を嫌な気分が包み込むのを感じていた。
「というわけだから、ロブ」
「おまえにはスタミナもあるし、大した訓練でもないだろ」
「まあ、ちょっと大変な遠足くらいに思っていてくれ、ワッハッハッハ!」
数日後、俺はドミニク直々に、夜間訓練への誘いを受けた。
誘いというか、強制参加なので、断ることは出来ない。
ドミニクの機嫌のよさと、ちょっと大変な遠足という言い方が、逆に怖かった。
*
訓練当日。
今夜を過ごす舞台は、町から車で3時間ほど離れた、小さな田舎町にある山だった。
標高こそそんなに高くはないものの、そういう地方なのか、10月初めにも関わらず雪が積もっていた。
最小限の荷物だけをまとめたリュックを背負い、俺とドミニクは昼過ぎから登山を始めた。
登山すらまともにやったことがないのに、まして雪山だ。
俺は何度も足を取られ、ドミニクを振り返らせることになった。
山の夜は早い。
俺は、エレンを山奥のシェルターに迎えに行った時のことを思い出していた。
あの時もあっという間に暗くなって、山って怖いなと思ったんだった。
車が故障して、車中泊することになって、それで彼女と……。
自分を元気づけようと巡らせた甘い思い出は、雪混じりの暴風に瞬時に吹き飛ばされた。
寒い!
寒い、寒い、寒い、寒い、寒い!!
あまりの寒さに、もう寒い以外の言葉が浮かんでこない。
少し先を行くドミニクは黒い半袖Tシャツ1枚で、喜々として歩いているように見える。
これはおそらく、とんでもないことになりそうだ。
「雪が強くなってきたなあ! ちょっとここらで休憩するかー!」
「は、はははははは、はい……」
休憩などと言っても、気の利いた山小屋があるわけでもない。
俺たちは各々で木の陰に身を寄せ、持って来た夕食用の缶詰を食べるのだ。
ドミニクは相変わらず上機嫌でワハハと笑いながら、缶詰の中身を豪快に口に放り込んでいる。
やはり彼は特犯のリーダーたるべきオスだと、俺は痛感した。
一方の俺は手がかじかみ、缶の蓋を開けるのにすら大苦戦していた。
やっと開いた缶詰も、手を滑らせて雪の中にひっくり返す始末。
「あー、やっちまったな、ロブ!」
「みんなやるんだよな、それ! ワハハハハッ!」
この訓練前、ドミニクは麻薬犯罪組織へのガサ入れを行っていた。
彼はきっと、そこで気化したアブない薬を吸ってしまったんじゃないか?
そう思うほどに、彼はテンションが高かった。
雪の中から缶詰を拾って食べる気力もなく、俺はこの日の食事を諦めることにした。
ドミニクの言う通り、オオカミの持つスタミナが俺の強みだ。
一食抜いたくらいで、ヘバるわけはないだろう……多分。
夜間訓練と言っても、何か特別な訓練をするわけではないようだった。
俺とドミニクはマンツーマンで、ひたすら夜の荒れた雪山を歩き回った。
多分これ死ぬなという局面が、何度か俺の前に訪れたのは言うまでもない……。