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レオの追憶③

保健所から脱走して数年の月日が流れ、レオはエレンを探すようにして生きていた。

そんな時、職場の同僚に人間の恋人がいると知って……。

「おいっ、ボサッとしてんじゃねぇ!!」

「ったく、仕事があるだけありがたく思いやがれってんだ」

「生きる価値もない、人間の癖によ」


あの雪の日から数年後。

とある倉庫街で、俺は肉体労働者として働いていた。


そこを監督している中年のウシは、何にしても人間が気に食わないらしかった。

人間をいたぶりたいがために俺を雇ったという、かなり歪んだやつだった。


殴られることには慣れている。

やっぱり、そうだった。

内も外も、大した変わりはない世界だった。


別に、生きることに何かの希望を見出しているわけじゃなかった。

今日が酷い日でも、明日はきっといい日になるだなんて、そんな夢みたいなことを考えていたわけじゃない。


俺が考えていたのは、あいつのことだけだった。

俺が突き飛ばした先を知らない、あの小さな黒髪の女の子。


チビスケは、あれからだうしただろう。

そう考えて、ふと思う。

あれからどうしたもこうしたも、あの日に死んでしまった可能性だってあるじゃないか。

そして手を下したのは、間違いなく俺だ。


あの時は、ああするより他なかった。

2人一緒にいては、きっと逃げられなかった。

俺はあいつが逃げおおせることを信じて、手を離したんだ。


でも、それは正しかっただろうか。

彼女のためを思って逃げたのに、俺は最後まで見届けてやらなくてよかったのか。

あいつが外の世界で、どんな風に生きていくのかを。


俺はそのためだけに生きてきた。

どれだけ蔑まれ、どんな下らない奴に唾を吐きかけられても、死のうとは思わなかった。

もうこの世にいないかもしれない、チビスケに会うために……。



いつしか俺は大きな都市にたどり着き、獣の元で仕事をしていた。

ボスのシロクマは変わり者で、犯罪組織で用心棒をやっていた俺を、その能力を買ってわざわざ引き抜いてきた。

獣に助けられて生きていくなんて、俺も焼きが回ってもんだ。


ある時、新入りがやって来た。

ドミニクがどこかで見つけてきたという、図体がデカいだけのオオカミだった。

肉食獣に似つかわしい闘争本能も窺えず、とんだ甘ったれだった。


仕事終わりにビルの前で一服していると、エントランスからあの馬鹿面が現れた。

あの甘ちゃん野郎には、悪趣味にも人間の恋人がいるらしい。

聞くつもりはなかったが、同僚の話が耳に届いた。


人間の女を囲う獣がいるのは、別に珍しいことじゃない。

特に、獣のオスが人間の女を飼うことはだ。

やっぱり、収容所の内でも外でも、獣共のやることに大した違いはない。


向こうから、女が駆けてくる。

あいつの傍に寄り、親し気に話をしている。


黒い髪をなびかせ、青い瞳を細めて笑っている。

黒い髪と、青い目の、女。


「おまえ、チビスケか?」


気付くと俺は女の腕を掴み、その顔を食い入るように見つめていた。

最初こそ呆気にとられ、怯えにも似た色を目に浮かべていたが、彼女はすぐに、俺が誰だか分かったみたいだった。


「お兄ちゃんなの?」


彼女は俺の眉の傷に触れ、震える声でそう言った。

彼女は、チビスケだった。

俺が想像した通り、あるいはそれ以上に、美しい大人の女性になっていた。


俺は激しく動揺していた。

表情には出さなかったが、何をどこから整理すればいいのか分からなかった。


もしあいつが、オオカミに向かって痣だらけの顔で機嫌を窺うように笑っていたとしたら。

俺はその場でやつを殺し、またチビスケの手を取って逃げただろう。


でも、現実は違った。


彼女は生き生きとして明るく、心底幸せそうに微笑んでいた。

よりにもよって、獣を相手に。


その表情に嘘がないのは、よく分かっていた。

飾らない彼女の笑顔は、俺が一番よく知っている。


あの腐りきった収容所でかつては俺に向けられていた青い瞳は、今はあのいけ好かないオオカミに向かって優しく光っている。

気に食わなかった。


その後、俺たちは連絡を取り合い、今までの空白を埋めるべく、色々な話をした。

彼女は今はエレンという名前を持ち、俺もまた、レオという名前を持っていた。

いつまでもチビスケ、お兄ちゃんなどと呼び合うわけにもいかず、新しく持った名前を、互いに呼ぶようになった。


エレンはあの脱走の後、運よく変わり者のオオカミに拾われたらしい。

そこでまっとうな扱いを受け、獣の社会に上手く溶け込むことが出来たようだった。


「あの日、一緒に逃げてやれなくて悪かった……」


エレンが俺を部屋に尋ねてきた時、俺はとうとうそのことに触れた。

ずっと心の中に引っかかっていた、重苦しい気持ちだった。


「いいの、分かってるから」

「あの時そうしてくれてなかったら、わたし、きっと逃げきれなかったから」

「自分が囮になって、わたしを逃がしてくれたんだよね」


エレンは、ずっとそう信じていてくれた。

そのほんのわずかな会話だけで、俺の長年の悩みは、いとも簡単に消えたのだった。


彼女の話と照らし合わせると、エレンがあのオオカミと上手くいっているのは間違いなさそうだった。

妙な関係でないことが分かり、ひとまずは安心した。


ただ、あの甘ったれにどうしてそこまで惹かれるのか、理解には苦しんだ。

あいつの呆けた顔を見るたび、虫唾が走った。

元々獣は嫌いだったが、エレンの相手と知って、一層憎らしくなった。


それで俺は、エレンにキスをした。

夕食でもどうかと部屋に招かれた、その帰り際だった。


ドアの外で、俺は帰って来るあいつを見た。

あいつが自分の部屋から出て来た俺を認め、ぎょっとした顔をしたのは気持ちがよかった。

もっと苦しめばいいと思って、エレンの頬にキスをした。


これで関係がこじれて、別れでもすればいい。

俺にあったのは、その程度の気持ちだった。


当然、自分が取って代わりたいなどという気持ちは微塵もなかった。

彼女はあくまで、俺の中では【チビスケ】のままなのだから。

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