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叱られた夜

ロブが医務室で目を覚ますと、学祭はもう終わろうとしていた。

様子を見に来たエリオットから、エレンが模擬店を手伝ってくれたことを聞いた彼は、居ても立ってもいられなくなる。


夏の匂い。

暑さを和らげてくれる木陰と、冷たい小川のせせらぎ。

俺が生まれ育った村の風景だ。


夏の太陽の下で、そのナイフは嫌な感じで光っていた。

刃先は不安定に揺れながらも、しっかりと俺の方を向いている。


「やっぱりお前も、野蛮な獣だったんだ!」

「お前ら肉食獣は、生き物の肉を食う、汚い生き物なんだよ!!」


彼は叫ぶと、やたらめったらにナイフを振り回す。

その先が、薄く皮膚に食い込んだ。

10歳の俺の、右の手の平に。


殺される!


心より体が素早く反応し、無意識に立った爪が、相手を切りつける。


地面に落ちたナイフ。

その上に滴る、赤い血。

その赤さは、俺の爪の先をも染めていた……。


*****


「はっ!!」


大きく息を吸い込んで、俺は跳ね起きた。

急に起き上がったものだから、また視界が揺れる。


くらくらする頭を抱え、俺は室内を見回した。

薄いカーテン越しに、外がもう暗くなり始めているのが分かった。


「あら、起きたのね」


部屋に入って来たのは、見知らぬ獣だった。

毛並みの美しいロシアンブルーで、白衣を着ている。


「あの、ここは……」

「ここ? ここは医務室よ」


「覚えてないの?」

「あなた、熱中症で倒れて運び込まれたのよ」


メスのロシアンブルーは、ベッドの傍に来た。

大人っぽい、強めの香水の匂い。


彼女は俺の目をこじ開け、ペンライトのようなもので何か確認しているみたいだった。

腕を取って脈を測り、額に手も当てた。


「うん、もう大丈夫そうね」

「過労が原因の熱中症ね」

「若いからって、油断しちゃダメよ」


女医はしなやかな指を突き出して、俺の鼻をちょこんと押した。

もう片方の手は、俺の脚をシーツ越しにひと撫でする。

何かが起こりそうな気配を孕んだ、薄明りの灯った医務室……。


「ロブゥーー!!!」


バァンと勢いよくドアが開いて、どてどてっとエリオットさんが転がり込んで来た。

ロシアンブルーは小さく舌打ちをして、俺から離れる。


「おまえ、もう大丈夫なのか?」

「心配したぞぉぉ」


「エリオットさん……心配掛けてすみませんでした」

「もう大丈夫です、多分」


安心したように息を吐き、エリオットさんはベッド際の丸椅子に腰掛けた。

一応付け加えると、足は床に付いていない。


「あの、店は?」

「もう片付けたよ」


時計は、既に8時前を指していた。

ユリフェストは、間もなく終わる。

俺の初めての学祭は、ぶっ倒れたことであっけなく幕を閉じたらしかった。


「それで……鉢植えは?」

「ふっふっふっ……」


「何と、完売だぜい!!」

「本当に?」


「ほんとだよ」

「オレが華麗に売り捌いた……って言いたいとこだけど、実際はエレンさんのおかげなんだ」

「エレンが?」


「やっぱり花屋だけあって、売り方上手かったなー」

「多肉の知識もしっかりあって、お客も満足してたよ」

「ロブが倒れた時も、周りに指示してすぐに医務室に運ばせたし」


俺は、エリオットさんの方に身を乗り出した。

体重を掛けたベッドのマットレスが、大きく軋んだ。


「それで、あの、彼女は?」

「エレンさんなら、もう帰ったよ」


「結局、片付けの手伝いもしてくれたんだよ」

「今度、菓子折りでも持ってお礼言いに行かなきゃだなー」


エリオットさんは、丸椅子の上で足をブラブラさせていた。

俺は居ても立ってもいられなくなって、ベッドから下りた。


「あの、先生、俺もう帰っても大丈夫ですか?」

「ひとりで帰れる?」

「はい、大丈夫です!」


エリオットさんに別れを告げて、俺は鞄を持って走り出していた。

病み上がりなんだから注意しないとと思うけど、気持ちが前に前に出てしまう。

途中足がもつれて、転びそうになりながらも俺は走っていた。



俺の記憶は、確かだった。

目の前には、古びた小さなアパート。

街頭に照らされたそこは、俺が初めてエレンと会ったときに連れて来てもらった場所だった。


エントランスのガラス戸を開けて、中に入る。

あの時は気付かなかったけど、ずいぶんと薄暗かった。

ゆっくりと階段を上がって、2階の角を目指す。


今になって、走り過ぎたことを後悔した。

胸に、尋常じゃない鼓動を感じている。

それが走ったせいだけでないことは、自分でも薄々分かっている。


201号室の、旧式のインターホン。

押しても手ごたえはなく、室内で音が鳴ったのかも分からなかった。


ほんの少し待ったけど、誰も出て来ない。

彼女は、もしかしたら不在なのかもしれない。

あるいは、本当にインターホンが鳴ってないのか……。


ドクドクと疼くように脈打つのを感じながら、俺は考えていた。

そのせいか、ゆっくりとドアが開いたのに気付くのが少し遅れてしまったらしい。


「ロブ……?」


ドアの前に立っている俺を見て、彼女は今までで一番驚いた顔をしていた。

しかしそれも一瞬で、次には彼女の眉はきゅっと中心に寄った。


彼女は怒ってる。

そうなっても当然だ。

今回の件で、俺は嫌ってほど迷惑を掛けたんだから。


「エレン……」

「本当にごめん!」


俺は体をぐっと折り曲げて、彼女に頭を下げた。

その空気の流れで、ふわっと香るものがある。


俺も一度使わせてもらったことのある、バスルームに置いてあるボディーソープの香りだ。

それで呑気に、ああ彼女はもうシャワーを浴びたのかなんて考えてしまう。


「鉢植えのこともそうだし……今日も倒れて、本当に迷惑掛けたと思ってる」

「本当に、ごめんなさい」

「本当に……」


俺は、言葉が継げなくなった。

これ以上、何を言えばいいのか分からなくなってしまったのだ。

あれやこれや言葉を並べても、もう意味がないような気もした。


「いつまでそうしているつもり?」


静かな声でそう言われ、俺はゆっくりと頭を上げた。

子どもの時に、母親から叱られた場面を思い出す。


「全く……」


エレンは大きく息を吐く。

目をつぶって何かを考えているようにも見えたけど、その表情はなおも厳しい。

俺は彼女にどんなに責められても、受け入れるつもりでいた。


「きみって、本当に子どもね」

「え?」


「こんな時間に、息を切らせてどうしたかと思えば……わたしに謝りに来たっていうの?」

「さっき倒れたばかりなのに?」

「自分の体を、もっと大切にしなさい!」


俺は、彼女に叱られた。

そのくせ、訳が分からずポカンとしていた。


「もう、本当に子ども!」

「全部わたしが好きでやったことなんだから、謝らなくたっていいのに」


「それをまあ、わざわざ病み上がりの体を引きずって来るんだもの」

「呆れて物も言えないわよ」


いや、言ってるけど……。

これは完璧な揚げ足取りなので、口はつぐんでおいた。


「直接言いに来ないで、電話で済ませたらいいでしょ?」

「……番号、知らない」


そう言った俺を見て、エレンは何か言おうと大きく口を開いた。

しかし何も言わず、まだ少し濡れている髪を、ぐしゃぐしゃとかき回した。


「ちょっと待ってて」


ドアはバタンと閉じられて、俺はその前に放置された。

部屋の中では、彼女がパタパタと動き回る音、何かの戸を開けたり閉めたりする音がしている。


「はい、これ」


再び俺の前に現れながらもそっぽを向いた彼女は、何かを手渡す。

茶色の紙袋に入っていて、袋の口は折り曲げてあった。


「何、これ?」

「ハーブ入りの自家製ドリンク」

「夏バテ防止に飲んでね」


俺はその場で、紙袋の中をそっと覗いてみた。

小ぶりな瓶の他に、何かメモのようなものが入っている。


「それと、番号」

「次からは、そこに掛けてきて」

「分かった?」


「分かった」

「そうする……」


依然としてポカンとしたまま、俺は何とか返事だけはした。

そんな俺を見て、彼女はようやく表情を崩してくれた。


「じゃあ、またね」

「今日はゆっくり休むのよ?」


優しくそう言うと、ドアをゆっくりと閉めようとした。

閉まり切らないうちにと、俺は急いだ。


「あの、エレン!」

「本当にありがとう……」

「その、番号も」


うん、と一言残して、ドアは完全に閉まり切った。

最後に隙間から覗いていた彼女は、優しい笑顔を浮かべていたと思う。


彼女のアパートからの帰り道、俺は袋から瓶を取り出してみた。

濃いピンク色の、透き通ったドリンクだった。

そしてそこにへばりついていた、黄色いメモ用紙。


それをなくさないように折り畳んでポケットにしまうと、俺は軽い足取りで家路を急いだ。

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