レオの追憶②
保健所で、レオは幼いエレンと出会う。
最初は目障りに感じていた彼女を、徐々に愛しく思うようになり……。
収容所に入れられた人間に、そこを出る日はやって来ない。
それはずっと分かっていたことだったし、外に出たところで、居場所がないのも分かっていた。
収容所の塀の中にはうんざりしていたけど、外の世界に憧れることもなかった。
少なくとも、今の俺にはあいつもいる。
他に必要な物は、多分、なかった。
ところがある日、あいつが言い出したことで、俺はそれまでの考えを大きく変えざるを得ないと思うようになった。
俺たちが知り合って、多少の歳月が流れていた。
チビスケは相変わらずチビのままで汚かったけど、その中にも、女の子らしさみたいなものが漂うようになってきていた。
「ねえ、お兄ちゃん……」
「わたしね、この前、変なもの見ちゃったの」
変な物?
俺は訝しがったが、彼女に先を続けさせた。
「あのね、あの、通路の隅に、木の箱が置いてある場所があるでしょ」
「ああ」
「そこでね……何かしてたの」
「何かって、何だよ」
「分かんない」
「でもね、何だかずっと、見ているしか出来なかったの」
チビスケの青い目は俺からついと離れ、薄汚れた窓の先を見ていた。
まるでそこに、彼女が見た変な光景とやらがあるとでも言いたいように。
「箱にね、女の人が押しつけられてたの」
「それで、その上に大きな獣が乗っかってて……」
「箱がギシッ、ギシッて鳴るの」
「その音がする時、女の人が苦しそうに声を出すの」
「お兄ちゃん……」
「ねえ、あれって何だったのかな……」
「あの人たち、あそこで何をしてたのかな……」
チビスケの無垢な問いかけに、俺は黙り込んだ。
そういうことは、ここでは珍しくない。
ごくごく稀に、人間に同情的な獣もいる。
しかしここで働く看守たちの大半は、俺たちを生きる価値のないクズだと思っている。
クズには、何の拒否権もない。
獣の思うがまま、されるがままになるしかない。
俺だって、そういう現場に居合わせたことがないわけじゃなかった。
何らかの見返りを求めて、自分の意思で獣に体を差し出す女もいた。
人間の女と獣のオスなら、まだいい方だ。
腐れ看守の中には好き嫌いをしない輩もいて、一度、俺もそういうのに引っ掛かったことがある。
食糧庫に呼び出され、パンがほしけりゃオレを慰めてみろと言われた。
相手が鼻息も荒くベルトを外しにかかっているところを、思いきり蹴り上げてやった。
その場は逃げおおせたが、報復がないわけはない。
数匹にリンチされ、半殺しの目に遭った。
目の所にあるのは、その時の古傷だ。
男でもそういうことがあるくらいだから、女はもっと危険だ。
俺は、隣にいるチビスケを見た。
こいつはそう遠くない先、それなりの女になる。
俺には、それが分かっていた。
彼女の青い瞳には、人も獣も惹きつける、不思議な魅力がある。
そしてこいつがそういう女になった時、どういうことが起こるのかは想像に難くなかった。
チビスケが薄暗い廊下の隅で見たあの光景は、そっくりそのまま、彼女のものになるってことだ。
そう思った時、俺は背筋が寒くなるのを感じた。
あいつが、獣に。
それは想像するだけで、恐ろしいことだった。
つまるところチビスケは、俺にとってそこまでの存在になっていたというわけだった。
選択肢はひとつしかない。
彼女を守るには、こうするしかないと思った。
それで俺はあの冬の日、チビスケを連れて収容所を脱走した。
ここの連中には、危機感がない。
人間が逃げ出すなんてことは、微塵も考えていないかのようだ。
脱走の夜、俺はチビスケを連れて、あらかじめ作っておいた金網の隙間から外へ出た。
収容所の庭も金網の先も、体が半分埋まってしまうくらいの、雪深さだった。
その中を、俺はチビスケの手を引いて走った。
寒かった。
とてつもなく、寒かった。
看守たちに脱走されるかもという危機感がないのは、結局はこういうことだったのだ。
仮に出たとして、その先どうするんだって話だった。
俺たち人間は狭い場所に押し込まれて、ろくに運動も出来ずに体力を落としている。
そこへきて、この辺りは年中寒く、特に冬場は、馬鹿げた量の雪が降る。
つまりは、そういうことだった。
逃げ切れやしない、ということだ。
「頑張れ、何とかここから離れないと……」
「おに、い、ちゃん……寒いよ」
チビスケを励ましていると、少し離れた収容所でサイレンが鳴るのが聞こえた。
俺たちの脱走がバレたらしかった。
看守の中にはホッキョクキツネやマウンテンゴートなど、雪や寒さに強い獣もいる。
あいつらが追って来るとなると、こちらに勝ち目はないだろう。
どうする、どうする?
俺はここへ来て、自分の考えがいかに甘かったかを知った。
今にして思えば、脱走という考えはこいつのためってわけでもなかった気がした。
本当は俺が、俺自身が、あのクソッたれな場所から逃げ出したかったんだ。
それをチビスケを守ることと混同して、こんなことになってしまった。
雪の中で息を荒くしている俺を、チビスケがじっと見ていた。
俺も、その青い瞳を見返す。
今は、余計なことを考えている場合じゃないと思い直す。
「行くぞ、走れ!」
俺は半ば引っ張るようにして、チビスケを手を引いていた。
俺よりもずっと小さな彼女は、雪に埋もれるようにして、それでも足を止めない。
走った距離は、きっとそんなに長くはなかった。
それでも、まるで1日中走り続けていたような気がしていた。
互いに息が切れ、チビスケが間もなく力尽きるのは明白だった。
俺は、次の手を考えなくてはならなかった。
その時だった。
「いたぞ、2人いる!」
「お兄ちゃん!」
不意に、雪の中から白いキツネが現れた。
俺たちを追ってきた、ホッキョクキツネの看守だった。
「お兄ちゃん、わたしたち、どうなっちゃうの?」
「……」
ここで捕まったら、一体どうなるだろう?
脱走者がどういう目に遭うのか、俺は知らなかった。
まず、これまで通りってわけにはいかないだろう……。
キツネの声を合図に、少し離れてはいるが、追手が迫ってきている。
どうする、どうする?
「チビスケ、ごめん……」
その声が彼女に届いたかは、分からなかった。
お兄ちゃん? と彼女が言い終わる前に、俺はチビスケを丘の下へと突き飛ばした。
声もなく、彼女は落ちていく。
黒い髪が顔を覆い隠し、あの美しい目にどんな感情が浮かんだかを見ることは出来なかった。