新生活
大学を卒業し、エレンと暮らし始めたロブ。
新しい生活にも慣れ出した頃、彼はとうとう、初出勤日を迎えることになって……。
どっくん、どっくん、どっくん。
こういう鼓動、懐かしい。
「ロブ」
「初日なのに、そんなにラフな格好でいいの?」
赤いパーカーに袖を通してキッチンに現れた俺を見て、エレンは少し驚いたみたいだった。
パーカーは着やすくて、好きな服だ。
黒だとかこげ茶だとか、同じようなものは何枚も持ってるけど、赤い色のはこの1枚だけ。
これはエレンと暮らし始めて、彼女と一緒に買い物に行った時に買ったものだった。
こういう色も似合うわよと、彼女が見立ててくれた1枚。
鮮やかな赤が気持ちを奮い立たせてくれるような気がして、今日みたいな日にはちょうどいい気がした。
「いいんだって」
「入社式もないしね」
ドミニクから電話をもらったのは、2日前のこと。
初出勤日も動きやすいラフな格好でいい、スーツなんか着て来るんじゃないぞと、笑って言われたのだった。
キッチンのテーブルでは、既に朝食が湯気を立てている。
仕切りのある白いプレートには、ケチャップ付きのスクランブルエッグと厚切りのトースト、白っぽいドレッシングのかかったグリーンサラダが載っている。
絵に描いたような、完璧な朝食じゃないか。
エレンはキッチンからコーヒーのポットを手に戻って来ると、エプロンを締めたまま、俺の向かいに腰を下ろす。
淡いブルーにミモザの柄が入ったエプロンは腰で縛られ、胸元に寄る皺が、胸の丸みを浮かび上がらせていた。
「うん、やっぱり似合ってる」
「その赤色、あなたの毛の色によく合うわね」
マグカップに注いだコーヒーを俺に手渡し、エレンはにっこりと笑った。
俺は妙に照れて、ひくっと口元を上げるしか出来ない。
卒業後にエレンと暮らし始めて、もう2週間になろうとしている。
今までそれなりにべったりしてきたつもりだったけど、一緒に暮らすっていうのは、まるで勝手が違った。
朝、仕事に出掛ける彼女を送り出す。
夕方には、エレンは当然のように俺のいる部屋に帰って来る。
朝にはおはようと言って同じベッドで目覚め、夜も同じベッドに潜り込む。
エレンはもう、終電終電とうるさく言わなくなった。
引っ越しの晩、初めて一緒に寝た時は緊張しまくってしまった。
「……失礼、します」
「何それ、かしこまっちゃって」
エレンは、ぎこちない俺を笑う。
先に引っ越していた彼女が使っていたベッドには、既にその匂いが移っている。
潜り込むと微かに香るそれに、俺はドキドキが止まらない。
互いの部屋に泊まり、一緒に寝るなんてことは今までにもあった。
体の関係だってあるのに何を今さらと、自分でも思う。
同棲初夜は、それでもそんな感じでモヤモヤと過ぎたのだった。
この生活にもようやく慣れ出した今日、俺は初出勤を迎えることになったのだ。
警察関係の職場ではあるけど、いわば出先機関のような扱いでもあるらしい。
ドミニクの働く部署は、警察署外にあった。
「行ってらっしゃい」
「うん」
俺よりも後に出掛けるエレンが、もたもたと靴紐を結ぶ背中に声をかけた。
新しい環境に踏み込んでいくのは、いつだって憂鬱だ。
しかしそれも、彼女の一言で少しは紛れる。
これからどんな嫌なことがあっても、家に帰ればエレンがいる。
そう思うだけでも、頑張れそうな気がした。
最後に鼻先にキスをもらって、俺は新しい生活への一歩を踏み出したのだった。
*
ドミニクが電話の後に送ってきた地図データをスマホで見ながら、俺は職場にたどり着いた。
10階建てビルのワンフロアに、特殊犯罪対策部のオフィスがあるらしい。
当日は、オフィスまで直に来てくれ。
ドミニクからはそう言われていた。
エレベータに乗るとオフィスのある8階のボタンを押し、ゆっくりと上がっていく箱の中で身を固くした。
8階には着いたが、フロアは意外にも広かった。
思い返せば、正確にはどの部屋に行けばいいのか、聞いていなかった気がする。
俺も俺だけど、ドミニクもドミニクってとこだ。
約束の時間より、まだ30分も早い。
そのせいか、フロアは静まり返っている。
突っ立っていても仕方がないので、俺は誰かいないか探してみることにした。
フロアをあちこちしていると、資料室だの休憩室だの、用途の分かる表示がしてある部屋もあった。
おそらくそこに用はないと考え、誰かいそうな部屋を探した。
とある部屋の前に差し掛かると、中から何か音がした。
どうやら、ラジオみたいだ。
誰かがいると反射的に考えた俺は、ノックをして応答を待つ。
返事はなかったが、気が付いていないだけではと思い、ゆっくりとドアを開けた。
部屋の中にいたのは1匹のメスのコーギーで、予想通り、ノックには気付いていないみたいだった。
大きな三角の耳がある頭をリズムに乗せて揺らしながら、脚を上げてストッキングを履いていた。
固まる俺、そして、それに気付くコーギー。
「あ、え、キャ、キャアアーーッ」
案の定な展開になってしまった。
俺は自分の間の悪さを呪いながらも、誤解だけは避けなくてはと頭をフル回転させていた。
「いや、俺、あの、ちが……」
「な、あなた、誰!?」
頭をフル回転させた割には、月並みな動揺しか出てこない。
俺は、そんな自分をまた呪った。
話がややこしくならないうちに、事態を収拾しなければ!
そう思った俺は、コーギーの元に一歩踏み出した。
その時だった。
何か物凄い力が、俺の腰を引っ張った。
何だと思った瞬間には後ろに引き倒され、ぐっと押さえ込まれる形になってしまった。
分かりやすく言えば、俺は犯罪者のように取り押さえられたのだった。
「……何だ、お前」
俺を押さえ込んでいたのは、オオカミよりも小柄なイヌだった。
全体的にフワフワとした毛並みの中で、つぶらな瞳が怒りで静かに燃えている。
「アリーナをどうしようっていうんだ、この変態野郎」
「いえ、俺、違うんです」
「俺、今日からここで……」
小柄なイヌに押さえ込まれているせいもあるけど、俺はやっぱり、動揺することしか出来なかった。
状況を順を追って説明したくても、すぐに言葉が出て来ない。
「アリーナ、変なことされなかった?」
「だ、大丈夫だけど……」
「シローくん、その彼ってもしかして……」
コーギーは、何かに気付いたようだった。
俺が押さえ込まれている背後に、誰かがぬっと現れた。
「あれ、ロブくん?」
「きみたち、何やってんの?」
大柄な体を不思議そうに揺らしたのは、ドミニクだった。
こうして、特殊犯罪対策部での初日が始まった。