卒業
3月のある晴れたある日、ロブはスーツを着て出掛けようとしていた。
大学でフローリアンやチャドと待ち合わせたロブは……。
まもなく、町にも春がやって来る。
部屋にある姿見の中にいる俺を、エレンが優しく見つめている。
「ネクタイ、曲がってない?」
「大丈夫、完璧」
今日は平日で、彼女はこれから仕事に行く。
その前にどうしても、俺のスーツ姿を見たいと部屋に寄ってくれた。
「別に、普通でしょ?」
「てか、入学式の時と一緒だし」
「前に一緒に出掛けた時も、これ着てたじゃん……」
彼女がニコニコして俺を見るもんだから、何だかくすぐったかった。
入学した頃に出会った遠い人は、今は俺のすぐ傍にいる。
「いいの、いいの」
「式には行けないから、先に言っておきたかっただけよ」
「卒業、おめでとう」
天気予報によれば、今日は1日穏やかに晴れるらしい。
朝の柔らかな光の中で、エレンは目を細めて微笑んだ。
「おはよう、ロブ」
4年前に入学式を行った大講堂前では、フローリアンが先に待っていた。
モテパカの彼は、当然ながら入学式と同じスーツなんか着ない。
ドット柄のネクタイを締めたグレーのスーツは、体毛の色が濃い彼にとてもよく似合っている。
「ちっすー」
「あー、遅刻するかと思ったぜ」
チャドは、ズボンのポケットに片手を突っ込んで現れた。
遅刻って言うけど、おまえの下宿先はこっから徒歩5分だろうが。
最後の最後まで、だらしないやつだと思った。
「ロブんとこは、ご両親来られるの?」
「母親が来たがってたっぽかったけど、止めてもらったよ」
「大学生にもなって、卒業式に来られるのもなあ」
「そうなんだよねー」
「うちは親バカだからさ、両親揃って来るんだよ」
「卒業後も院に行くから、実家の方には帰らないじゃない?」
「だから母が寂しがってるみたいでね」
フローリアンは珍しく、困ったような顔をして話した。
カウンセラーになるという夢を叶えるべく、彼は次の4月から大学院に進むことになっている。
「ロブもこっちで就職なんでしょ?」
「うん」
「えっと……警備関係だっけ?」
「そうそう、そんなとこ」
俺は実家の両親にも、そんな風に伝えていた。
特殊犯罪を扱う警察の部署で働くなんて聞いたら、また母さんがキイキイ言いそうだ……。
フローリアンやチャドには打ち明けてもよかったけど、言霊って言うのか、変に話さないほうが上手くいくような気もした。
「ほんっとにおまえらは、親不孝もんたちだよ」
「オレを見習えよ」
一番意外な進路をたどることになったのは、間違いなくチャドだろう。
何を思ってかチャドは、彼の地元の小学校で語学を教える非常勤講師になったのだった。
チャドくんとはしばらく遠恋だよーと、ライムが嘆いてたっけ。
「ま、卒論とかで一番危なかったチャドも、無事に卒業出来ることになってよかったね」
「いや、ヨユーだし」
「ヨユーじゃなかっただろ、どう考えても」
立ち話をしているうちに、卒業式の開始時刻が迫ってきた。
俺たちは同じく卒業する獣の群れに紛れて、講堂の中へと足を踏み入れた。
失礼を承知で言うと、学長や学部長によるお祝いの言葉なんて、誰も聞いてやしない。
それでも俺たちはフローリアンを真ん中にして座り、内容は頭に入ってこなくても、行儀よく話に耳を傾けていた。
この後何をするか、どこの店で卒業パーティーをするかで、盛り上がっているやつらもいる。
女の子たちは着飾り、互いの服装を褒め合っている。
何だか感極まってハンカチを目に当てている子もいたけど、そんなのはごく少数派だった。
講堂の中に、獣の群れがぎっしりと詰まっている。
俺は何となく、入学式の日のことを思い出していた。
あの頃の俺は、今よりもずっと生き辛さを感じていた。
出来るなら、あの日、部員勧誘の列から逃げ出した自分に教えてやりたい。
大丈夫。
おまえはおまえのままでいいんだ、ロブ。
それを認めて、受け入れてくれる人がきっと現れるから。
だから、その人の手を、何があっても離しちゃいけない。
どんなことがあっても、離すんじゃないぞ……。
何だか胸がギュッと締めつけられるのを感じ、俺はわざと咳払いをした。
そうでもしないと、何だか泣いてしまうんじゃないかって気がした。
式も滞りなく終わり、講堂から獣たちがぞろぞろと吐き出されてきた。
あの時と同じように、今ここにいる者の多くが、新しい道を歩き始めている。
俺だって、例に漏れず。
「じゃあ、また来週ね」
「おう、いつもの店な!」
大学の門の前で、俺たちはもう一度言葉を交わす。
夜には飲み会を予定してたけど、フローリアンが両親と食事に行くことになったので延期になったのだ。
俺たちはひとまず別れ、それぞれ違った道を歩いて帰路に着いた。
エレンと初めて会ったあの日みたいに、俺は地下鉄に乗らずに帰ることにした。
部屋を出た時に着ていた薄いコートは着ないで、今は手に持って歩いている。
この何ていうこともない道にも、意外と思い出がこもっていることに気付く。
ドブ川の汚水を滴らせて、彼女の後ろを付いて行ったあの日。
熱中症で倒れた後、彼女に会いたくなって走ったあの日。
別れを切り出され、今にもはち切れそうな悲しみを知ったあの日。
あの日俺がはまり込んだドブ川は、半年ほど前になくなってしまった。
今は埋め立てられ、地域の花壇になっていた。
春を前に咲き出したチューリップが、3月の風に揺れていた。