未踏の領域②
エレンの持つ、未踏の領域。
そのせいで、かつて彼女がやらかしてしまったことをロブは思い出す……。
そういえば、こんなこともあった。
「僕たちもこれからどんどん忙しくなってくるし、一度みんなで集まらない?」
「みんなって?」
「だから、僕たちと、それぞれの彼女とで」
少し前、フローリアンがそんな提案をしてきた。
何でも彼は、俺たちみんなが彼女持ちになったら、一度はホームパーティーをやりたかったらしい。
チャドとライム、そして俺とエレンが付き合ったことで、彼のその夢は実現に向かって走り出したというわけだった。
そうしてフローリアンのうちに集まったのが、先週の土曜日のこと。
フローリアンの今の彼女は同じアルパカでクレアといい、2つ年上の院生らしい、スマートな雰囲気のあるメスだった。
土曜日の昼間から軽くアルコールも入り、俺たちはめいめいに寛いでいた。
少し酔ったライムがその話を始めた時、エレンはクレアが焼いたというチョコレートケーキを食べていたところだったと思う。
「ちょっとぉ、聞いてくださいよー」
「チャドくんたらね、酷いんですよ」
チャドくんが酷いだろうことはもう知ってるぞと思いながら、俺は何気なくライムの話を聞いていた。
この先に何が起こるかなんて、全く考えもせずに……。
「この前ね、あたしがサプライズで会いに行ったら、部屋でアレ見てたんですよ!」
「あの、女豹シリーズってやつぅ」
ライムは頬をぷうっと膨らませて、チャドの方を睨んだ。
当のチャドはどこ吹く風といった風情で、瓶入りのビールをちびちびとやっていた。
「あー、女豹シリーズって、あのファビエンヌとかいう女優のやつだよね?」
「私の元彼も、熱狂的なファンでさあ」
「何なの、そんなにいいの?」
ダイニングテーブルに着くフローリアンを背後から突き、クレアが含みのある笑顔で尋ねた。
じゃあ、今度一緒に見てみようかなんて、フローリアンはフローリアンで涼しい顔をしている。
「でもさ、そういうの見たって浮気じゃないでしょ?」
「それはそれ、オスの性として認めてあげたら?」
クレアがフォローしても、ライムはなおもむくれたままだった。
そんなやり取りを、エレンはニコニコしながら聞いていたのを覚えている。
そして口の中にあったチョコレートケーキを飲み込むと、唐突に言ったのだった。
「その女豹シリーズって、ドラマか何か?」
「そんなに面白いなら、わたしも一度見てみようかな」
え……。
その場にいたエレン以外のみんなが、口をポカンと開けた。
もちろん、俺も。
「ちょ、エレン」
「何でそんな」
サークル繋がりで彼女と面識のあるライムが、酔いも醒めたような顔をしてエレンににじり寄った。
そんなライムに、エレンはきょとんとしている。
「変なこと言った?」
「だってね、そのタイトルのDVD、ロブの部屋にもあったから……」
「そんなに有名な作品なら、わたしも見てみたいなって」
ここへ来て、俺はやっと思い出した。
かつてエレンとの別れ話が出た時、落ち込んだ俺を励まそうと、チャドがAVのコピーディスクをくれたことがあったっけ。
そういえばあれ、どこにやったかと思ってたんだよ……。
「エレン、それ、どこで見つけたの……?」
「あなたの部屋の、机の裏に落ちてたのよ」
「何気なく見たら、同じタイトルのものばかりだったからよく覚えてて……」
先輩もあんなの見るんだと言いたげな、ライムの視線が痛い。
違う、俺は見てない!
そもそもそれを俺に寄越したのは、きみの彼氏だから!!
「で、どんな話なの?」
「ロブはもう見たの?」
再びケーキを食べ始めながら、エレンがにこやかに聞いた。
いかん、これはどうにかしないと……。
彼女は別に、無理をして話に入っていったわけじゃなかった。
そうすることで、みんなと仲良くしようなんて思ったわけじゃなかった。
彼女は単純に、疑問に思っていたことを口にしてみただけに過ぎない。
ただ、話題が悪過ぎた。
「エレン、ちょっと来て」
「どうしたの?」
話題を振った罪悪感からか、ライムは立ち上がると、エレンの手を引いてリビングを後にした。
残された者たちは、誰もがそれとなく聞き耳を立てている。
「えっ」
ぼそぼそとした話声の中に、ひときわ大きいエレンの声が上がった。
そして、静寂に包まれる。
俺たちが見守る中、ライムとエレンはまたリビングに戻って来た。
ライムの後に続くエレンの表情は、いつもと全く同じように見えた。
ソファに腰掛けた彼女は、皿にケーキが残っていたのを認め、それをパクパクと食べ出した。
俺がごくりと喉を鳴らす中、彼女はケーキを食べ終え、口元を拭った。
そしてそのままクッションの下に潜り込むと、出て来なくなってしまったのだった。
頭だけをクッションの下に押し込んだエレンは、それから30分近くそうしていた。
俺が何とか説得して引っ張り出した時には、いじけた子どものように顔を赤くして、今にも泣き出しそうな顔をしていた。
*
今回も、俺は何だかんだとごまかして、彼女にはっきりとした答えを教えなかった。
少し片付けたい課題があるからなんて嘘を吐いて、シャワーを浴びようとバスルームに逃げ込んだのだった。
熱いシャワーを浴びながら、しかし俺は考えていた。
俺のこの行動は、果たして正解なのだろうか。
童貞という言葉の意味は、彼女の山の、未だ誰も足を踏み入れていない領域にある。
今になってそこを開拓するには、彼女自身の努力が必要だ。
ただ、何も1人で足を踏み入れる必要はなくないか?
つまり、誰か手伝ってやれる者がいるなら、手助けをしてやってもいいんじゃないか。
そして今、それを出来るのは俺じゃないか?
逃げ回るのは、もうたくさんだ。
俺は、強くならなければならない……。
心を決めた俺はシャワーを止めると、体を拭くのもそこそこにバスルームを出た。
さあロブ、彼女に真実を伝えるんだ!!
「エレ……あれ?」
キッチンにもリビングにも、彼女の姿はなかった。
ただ、ソファ前のテーブルには、俺のノートパソコンが開いたままで置いてある。
薄明りの中で光を放ち、それが何かを表示しているのが分かった。
【童貞の意味とは?】
ネットの検索窓には、そんな言葉が記されていた。
彼女はページこそ開いていなかったけど、ざっと出た検索結果から知ってしまったらしい。
この言葉の意味、そして、自分がどんなことをしてしまったのかを……。
俺は首にタオルを掛けたまま、彼女の姿を探した。
ふと寝室を見ると、ベッドの端から何かが突き出していた。
それは、エレンの足先だった。
自らの犯した失敗を恥じ、エレンは再びカタツムリになってしまった。
俺はまた彼女を説得して引っ張り出すことになり、もはやイチャイチャどころじゃなくなってしまったのだった。