未踏の領域①
いつものように、週末を共に過ごしていたエレンとロブ。
彼女が口にした些細な言葉で、穏やかだった土曜日の晩は揺れて……。
土曜日の晩は、いつもソワソワしてしまう。
金曜日の夕方、仕事を終えたエレンが俺の部屋にやって来る。
そして日曜日の夕食後に、彼女は月曜からの仕事に向けて帰って行く。
それが、ここ最近の俺たちの過ごし方だった。
その間、彼女が俺の部屋で過ごす夜は2回。
金曜日の晩と、土曜日の晩だ。
ウィークエンドである金曜日は、その週の最後だけあって、誰だって疲れてる。
仕事をしているエレンはもちろんのこと、俺だってだ。
ということはつまり、チャンスは土曜日の晩だけということになる。
そう、つまりはそういうことだ。
俺がエレンと、ただ寝る以上のことをするとしたら、その晩ってことになる。
そして今日が、その土曜日の晩なのだ。
俺たちはキッチンのテーブルに着いて、いつものように一緒に夕食を食べていた。
今夜はカレーライスで、俺が作ったものだった。
エレンに料理の感想を聞いたり、昼間に行った美術館の話をしたりと、ごくごくいつも通りの土曜日が過ぎていく……はずだった。
「ねえ、あの」
「ん?」
エレンが不意にスプーンを持つ手を止め、顔を曇らせた。
口元を押さえ、何か言いたそうにしている。
俺のカレーに何か問題でもあったかと思い、俺は不安になった。
「……どうかした?」
「うん……あのね……」
歯切れの悪いエレンに、俺の不安は募るばかりだ。
彼女がこんな表情をするなんて、滅多にあるもんじゃない。
彼女は今、よほど深刻なことについて話そうとしているに違いない。
「あの」
「うん……?」
「あの」
「童貞って、どういう意味?」
「ブフッ!!」
別に深刻じゃなかったけど、全く予想もしていなかった問いが飛び出してきて、俺は大いに泡を食った。
口の中身を噴きそうになったけど、正面にはエレンがいる。
それはいけないと思って口をつぐんだ結果、カレーは鼻へと逆流したのだった。
しかも今日のカレーは、辛口のルウのみを使ったものだった。
いつもは中辛と辛口を混ぜるんだけど、今日は何となくガツンと辛くしたかったのだ。
その結果がこれだ。
俺は激しく咳込み、涙目になって鼻をかんだ。
2回ほどそうしてから、やっとエレンと向き合った。
「ど……どこでそんなこと」
「どこでっていうか……この間、TVで見たの」
「夜中に目が覚めちゃって眠れなくて、何となくTVを付けたのね」
「そしたら、バラエティーがやってて……ほらあの、最近よく見るタレントの」
「彼が深刻そうに言ってたのよ」
「最近、肉食獣のオスの草食化が激しいって」
「成熟したオスの童貞率も、高いんだって」
俺はなおも鼻の奥にカレーの刺激を感じ、つい、大きなくしゃみをしてしまった。
その後にエレンの顔を見ても、やっぱり彼女は深刻そうな顔をしていた。
今になってやっと分かったことだけど、エレンはどうやら、目の前にいる俺がついこの間まで【童貞】という属性だったことを知らなかったらしい。
それを解消したのは彼女との新しい関係があってのことだったけど、彼女はそれにも気付いていない。
そもそも、その言葉が何を意味しているのかも……。
「……やっぱり、とてもよくないことなの?」
「え? いや、よくないっていうか……」
俺はしどろもどろになり、皿に残ったカレーをぐりぐりと意味もなくかき回した。
そんな俺の様子を見て、エレンはエレンでますます不安を募らせているらしかった。
俺は水を飲みながら、そんな彼女を、これは一体どうしたもんかと上目遣いに見ていた。
「実はね、同じことをベアンハルトさんにも聞いてみたの」
「ブフーーーッ!」
ベアンハルトさんにも聞いた!?
おいおい、何かとんでもないことになってやしないか?
「で、彼は?」
「今のロブみたいに盛大にコーヒーを噴いて、すごく動揺してた」
そりゃそうだろう。
義理とは言え、エレンはベアンハルトさんそうにとっての娘みたいなもんだ。
娘にデリケートな部分を尋ねられた父親の気持ちは、子どものいない俺には分かりかねる。
それでも、もし将来的に娘が出来たとしたら、ものすごく気まずいだろうってことは何となく想像出来た。
「ベアンハルトさんは童貞なのって聞いてみたら、今度はソファからひっくり返っちゃって」
「……」
「でもね、彼はもう童貞じゃないんだって」
「それはリサがいるからって言ってた」
「結婚してると、ほとんどがそうじゃないんだって」
「じゃあ、奥さんのいないロブは童貞なのって聞いたら……」
「聞いたら?」
「それは、ロブくんに聞きなさいって言われちゃった」
そういうわけで、彼女は俺に直接聞こうと思ったらしい。
タレントの物言いやベアンハルトさんの様子からして、もしかしたらかなり深刻な話題なのかもしれない。
そう思って、なかなか切り出せなかったと言う。
「それで……ロブは童貞なの?」
「俺? 俺は違うよ……」
ついこの間まではそうだったけど、きみと寝たから卒業したんだよ。
そう言えば、スパッと解決したかもしれない。
でも俺には、その勇気がなかった。
俺が長年童貞を温めてきたことは、この際どうでもいい。
問題は、質問の答えをエレンが知ることだ。
そんな質問を俺やベアンハルトさんにしたことを、彼女は何と思うだろう。
彼女が受けるショックを思うと、俺は胃が痛くなった。
俺が思うに、この手の話題は山に似ている。
その頂にあるのが、相手とのベッドインだ。
フローリアンを例に挙げると、話はいっそう分かりやすくなる。
メスと付き合うこと、寝ることに関して経験豊富な彼は、言うなれば、ベテランの山岳ガイドだ。
山についてとても詳しく、頂上までに存在する、ありとあらゆる道を知り尽くしている。
チャドなんかは、登頂こそ数をこなしていても、脇道については詳しくないし、特に興味もない。
実際のところ、そういうやつがほとんどだろう。
そこへいくと、エレンは少し変わっている。
彼女は山を登ることは既に経験済みでも、そこに至るまでにどんな領域があるのかはほとんど知らない。
そこにあるまでの領域の中には、【童貞という言葉が何て意味なのかを知る】ということも含まれる。
童貞がどんな意味かなんてのは、もちろん学校では教えてくれない。
性教育こそしてもごくごく生物的な観点からで、教科書にもそんな言葉は載っていない。
ここはテストに出るぞと、教師が声を上げることもない。
そういうことは、誰もかれもが、成長していく上で自然と身に着けていく知識というものなのだ。
ある時は兄から、ある時は早熟な悪友からそういう知識を得て、俺たちは山頂に至るまでの領域に何があるかを知っていく。
あそこの河原には定期的にエロ本が捨てられてるとか、どこどこの本屋では、無修正の写真集が立ち読み出来るとか、どこからともなく、そういう情報は回ってくる。
別にそういうことに殊更興味があったわけでもない俺ですら、それなりには知っていたぐらいだ。
みんなそうやって、異性とベッドインするという山頂に向かって、それまでの道のりを知っていくことになる。
未知の領域について知識や経験を得て、そうやって登頂を果たすことになるのだ。
でも、エレンは違う。
雪深い山奥にいたせいで、彼女は純粋なまま大人になってしまった。
TVもラジオも役に立たないそんな場所じゃ、ドラマのベッドシーンを見て、ハンナと気まずい雰囲気になることもなかったはずだ。
彼女は悲しい事情のせいで、そういう世界覗かざるを得なかっただけだ。
あんな過去がなければ、オスと寝るってことがどういうことなのか、彼女はそれすら知らないままだったかもしれない。
そういうわけで彼女の場合、既に登りつめた山であっても、まだまだ未踏の領域があふれ返っているわけだ。