おかえりとただいま
ドミニクと別れた後、やっとエレンを訪ねることが出来たロブ。
部屋に招き入れられた彼は、エレンが割ってしまったカップの破片を拾い始める。
その手を見ていたエレンは、不意に泣き出し……。
今、彼女の足元には、部屋の鍵が落ちている。
鞄から鍵を取り出そうとしてうつむいていたエレンは、ドアのすぐ近くまで来て初めて、俺がそこにいることに気付いたのだった。
驚いた彼女の手から、あの丸いキーホルダーの付いた鍵が滑り落ちた。
鍵は拾われることなく、いつまでもそこにあった。
ドミニクと別れた足で、俺はそのままエレンのアパートを訪ねた。
彼女が仕事から帰るにはまだ早い時間だったけど、別によかった。
ドアに軽く寄っかかるようにして、彼女の帰りを待っていた。
エレンがいつまでも鍵を拾わないので、俺は腰を屈めてそれを拾った。
俺が鍵をその手に握らせても、彼女はどこかぼんやりとしていた。
「……久しぶりだね」
「ええ……」
俺たちは、言葉少なだった。
彼女が言葉を返してくれただけでも、俺は嬉しかった。
エレンは、俺をきっぱりと拒絶することだって出来たんだから。
「入る?」
「うん」
いつものように招き入れられ、一緒に部屋に入る。
俺が後ろ手で閉めた扉が、廊下に静かなこだまを残した。
長く空けた家に久々に帰ると、いつもと違う匂いをさせているように感じることがある。
あの日以来初めて訪ねた彼女の部屋は、まさにそんな感じだった。
あの4月終わりの祝日前、俺たちは幸せな気持ちでここにいた。
あれからもう、ずいぶん長い時間が流れてしまった。
あの時カレーの鍋をかけていたコンロには、今は小さな赤いやかんが載せられている。
キッチンの調理台には、マグカップが2つ。
蜂蜜の小瓶もあった。
招き入れた俺に、コーヒーを出すつもりなんだろう。
その必要はないと、俺は思った。
「エレン」
キッチンのテーブルに着いていた俺は、不意に彼女の名前を呼んだ。
たったそれだけのことに、エレンは身を固くして流しにぶつかってしまったのだった。
そのはずみでマグカップがひとつ、床に落ちて割れた。
その白い大きめのマグカップは、俺と付き合い出してから買われたものだった。
俺は、彼女が持っているものでいいと思っていた。
そんなこと言わないで。
あなた専用のものをわたしのテリトリーに置くのって、とっても素敵に思えることなのよ。
カップを並べてコーヒーの用意をしながら、彼女がそんなことを言っていたのを思い出す。
しばらく割れたカップを見ていたエレンは、やがてゆっくりと屈んで、白く分厚い破片を拾い始める。
「手伝うよ」
立ち上がって、俺も飛び散った破片を拾い始めた。
今の今まで、マグカップだったもの。
俺たちは、無言だった。
陶器の欠片を拾い集める微かな音に、やかんが湯を沸かす時のカンカンという金属の鳴る音が混じる。
俺が目の前にあった破片に手を伸ばした時、彼女がその手をじっと見ていることに気付いた。
あの闘いで負った、微かな傷跡の残る手の甲。
彼女の体にあるものと比べたら、子どもの些細な怪我の跡みたいなものだ。
「ひっ」
息を吸うかのような、小さな声が漏れた。
俺は顔を上げて、エレンを見た。
彼女は、顔を歪めて泣いていた。
「エレン……」
集めたカップの破片がばらばらと落ちるのも構わず、彼女は両手で顔を覆った。
堪えきれない嗚咽が、震える体から漏れる。
「ごめ……ごめんなさい」
「何?」
「ごめんロブ、本当に、ごめん……」
「ねえ、何が?」
エレンは、床に這いつくばるようにして体を曲げ、泣いていた。
俺は、その肩にそっと触れた。
「バスルームであなたの話を聞いた時……わたし、思ったの」
「あ、あなたのこと、守ってあげたいって」
それは、俺たちが初めてキスをした晩のことだろう。
エレンが巻き込まれたトラブルでイノシシを切りつけた俺は、トムとのことを思い出して泣いてしまったことがあった。
「人間の友達を傷つけたってずっと悩んでいるあなたを、わたしが守ってあげなくちゃって思ったの」
「もう、悲しい思いをしなくて済むように」
「これ以上、苦しい思いを抱えなくてもいいように……」
「それ、なのに」
「それなのに……」
「また、させてしまった」
「わたしの過去のせいで……またあなたに重荷を背負わせることになった……」
「守ってあげたかったのに」
「わたしを守るせいで、わたしの、わたし……」
最後の方は、自分でも何と言えばいいのか分からないといった感じだった。
小刻みだった彼女の体の震えは、今やがくがくとした大きなものに変わっていた。
「ねえ、エレン」
「エレン、聞いて」
「違うんだよ、きみのせいなんかじゃない」
「誰のせいだって、ないんだ……」
俺は泣きじゃくる彼女の両手を掴むと、体を起こさせた。
その顔はもう涙でぐしゃぐしゃになっているのに、それでも飽き足らず、ブルーの瞳は洪水を起こしているかのようだった。
ひくっ、ひくっとしゃくりあげながら、エレンは俺の顔をじっと見ていた。
「俺だって、きみのことを守ってやりたいってずっと思ってた」
「でも、俺は弱かったから……どんな風にきみを守ればいいのか分からなかったんだ」
「今回の事件で、俺がまた誰かを傷つけてしまったのは事実だよ」
「やっぱり自分が怖くなって、そのせいできみに近付けなかった」
「俺の中の制御出来ない何かが、きみを殺してしまうんじゃないかって思ってた」
「でも、それも仕方なかったんだ」
「ためらって闘うことに尻込みしてたら、俺はきっと今頃、死ぬほど後悔してたと思う」
「俺も変わらないといけない時にあるんだよ、エレン」
「俺がオオカミで、肉食獣なことは変えられない」
「だったら、俺は強くなりたい」
「自分が持つ力を恐れるんじゃなくて、それを使って、大切なものを守りたい」
「オオカミでよかったと、そう思える自分になりたいんだ」
オオカミでよかった。
そう思いたい。
それは、トムとの一件以来、初めて持った考えだった。
もしあの過去がなければ、自然と持っていた考えかもしれなかった。
いろいろ寄り道をしてしまったけど、やっと俺は、あるべき場所に戻ってきたんじゃないだろうか。
「今日の今日まで、俺はその考えにたどり着けなかったんだ」
「そのせいで、きみをとても不安にさせてしまったと思う」
「本当に、ごめん……」
「もし、もしまだ許してもらえるなら……」
「またきみの、隣に座ってもいいかな?」
「一緒に笑っても、いいかな?」
俺の問いに唇を噛み締め、エレンはまた顔を歪めた。
声にならない声を上げてうつむき、喘ぐように泣き続けた。
やがてやっと顔を上げた彼女は、途切れ途切れに言葉を紡ぐ。
「わたしも、ずっと、あなた、が、そう言ってくれるのを、待ってたの……」
「待ってなくちゃって、思ってた……」
「おかえ、り」
「おかえり、ロブ」
俺が合わせていた両手を、エレンは力を込めて握り返してきた。
何度も繋いだ、小さくて柔らかな手。
この手を永遠に放すことにならなくて、本当によかった。
相変わらず泣き続ける彼女を、俺は包み込むようにして抱き締めた。
そして一言、やっと一言呟いた。
「ただいま」




