天高く、オオカミ駆ける!
ロブはドミニクから、自分が怖いせいでエレンに近付けないのではと言い当てられる。
そしてドミニクは、自分にも似た経験があることを告白し、ある話を始めて……。
カップルが上手くいかない原因なんて、それこそ星の数ほどあるんじゃないか?
人間と獣という組み合わせの俺たちにとっても、それに変わりはないはずだ。
なのにどうしてこのシロクマは、ピンポイントで言い当てることが出来たんだろう。
俺が自分のことを恐れ、そのせいでエレンに近付けないでいることを、どこから察したっていうんだ。
「何で分かったのって顔してるね」
「え? いや、何ていうか……」
ふふっと笑って、ドミニクはまたコーヒーを飲んだ。
俺に向けられた眼差しは、また温かなものに戻っていた。
「それはね、私にも似た経験があるからだよ」
「私もかつて、自分の存在を恐れるがために、大切な相手と近しくなることをためらったことがあってね……」
「いきなりだけど、私は既婚者なんだ」
「はあ」
「私の奥さんって、どんな獣だと思う?」
「えーと……同じシロクマですか?」
「いいや」
「他の肉食獣?」
「実は……ウサギなんだ」
「うさ……ええっ!?」
俺は思わず、座っていたソファ席の背に寄りかかった。
目の前にいるのは、小山ほどもあるシロクマだ。
どこからどう見たって、小型の獣じゃない。
「驚くよな?」
「うん、大体みんな、そんな反応だ」
「でも彼女、怒るとめちゃくちゃ怖くてね」
「もうね、こっちが悪くなくても謝り倒すしかないって感じなんだよ」
「こーんなちっこい癖にシロクマを脅かすんだから、大したもんだと思わないかい?」
ドミニクはテーブルと平行に手を掲げ、それで30㎝くらいの高さを取って見せた。
さすがにそんなサイズじゃないだろうけど、かなりの体格差があるのは間違いなさそうだった。
「私たちは高校のクラスメイト同士だったんだ」
「アプローチされて、付き合うことになった」
「小さい彼女は、そのサイズ感を忘れるほどにエネルギッシュで明るかった」
「私はそんな彼女が大好きだったし、いつかは一緒になりたいと思っていたんだ」
「彼女もまた、同じ気持ちでいてくれた」
「ただ、私はずっと怖かった」
「彼女として付き合っていた頃は気楽だったけど、シロクマがウサギを妻にするってことは、本当に正しいことなのかと悩んだよ」
「私たちの間で結婚の話が出た時、私は既に、今の職場で働くことが決まっていてね」
「職業柄荒っぽくなることは避けられないだろうし、ますます怖くなった」
「いつか境目がなくなって、彼女を壊してしまう時がくるんじゃないかって……」
境目がなくなる。
それは、俺がまさに恐れていることだった。
エレンを傷つける気持ちは、毛頭ない。
ただ、クレイグだったドミニクと闘った自分を思うと、理性というのはどこまで自分の意志で保てるものなのかが分からない。
あの時がそうだったように、俺はまたいつか、些細なきっかけで豹変してしまうんじゃないか。
その時に果たして、自分で自分を押し留めていられるだろうか。
今は檻の中にいる、俺の中の怪物。
それが鉄の棒を噛み切って飛び出してくるのを、止めることが出来るのだろうか。
何度も見たあの悪夢のように、気が付けば、彼女を生きながらに食ってしまうかもしれない……。
「……それで、どうなったんですか?」
「ん?」
「そんな自分が怖かったのに、あなたはどうして、そのウサギと結婚出来たんですか?」
俺は思わず、腰を浮かして前のめりになってしまった。
彼が今にも口にしようとしているその理由が、今の俺にとって一番大切なことのような気がした。
「強くなることだよ」
「え?」
「強くなれ、ロブくん」
「きみの中の野獣を、きみ自身が飼い慣らすんだ」
「そうすれば、もう不安に苛まれることはない」
「誰にも負けないくらいの強さを身に着けることで、私は不安な気持ちを押し込めた」
「ただ彼女を愛していればいいと、自分に納得させることが出来たんだ」
「おまえは大丈夫、ちゃんと自分をコントロール出来るぞってね」
強さ。
それは、何とも曖昧な響きを持っていた。
「現実的な話をするなら、まずはしこたま体を鍛えることだ」
「体を鍛えれば、心も強くなる」
「そして私が思うに、きみには強くなる素質がある」
「きみの心は、今でもとても強い」
「それは、彼女を思う気持ちの強さだと言うことも出来る」
「後は、それを確固たるものにすればいいんだよ」
「ちょっとやそっとのことでは揺るがない、強いものに……」
そこまで話すと、ドミニクはコーヒーカップをあおった。
お替りを注文するつもりはないらしい。
「それで結婚が決まったわけだけど、その後もまあ大変で」
「彼女のご両親は無論カンカンだったし、彼女も分からず屋の親にキレてで大騒動だった」
「それでも私は、やっぱり彼女と一緒になってよかったと思っているよ」
「自身を恐れ迷った自分に負けず、彼女と一緒になる決意をしてね」
「そしてロブくん」
「きみが今も彼女を愛しているなら、決して負けないでほしい」
「強くなるんだ、ロブくん」
目の前にいるシロクマは、俺が今までに出会ったことのないタイプの獣だと言うことが分かった。
優しく頼もしい先輩のようにも、父親のようにも、兄のようにも感じられた。
「で、だ」
「前置きがずいぶんと長くなってしまったが……ロブくん、うちに来る気はないかい?」
「……はい?」
「うちっていうのは……警察にってことですか?」
「んー、警察であると言えばそうだし、違うと言えば違うんだな」
「ちょっと特殊だから、うちは」
「ただね、きみが強くなるのを、手伝ってやることは出来ると思うよ」
「何より、きみはとても優秀な獣だ」
「正直言うと、ぜひとも欲しい」
俺は、大きなシロクマの前でポカンとしていた。
ここへ来て、まだ30分と経っていないと思う。
その中で起こったことの、何て目まぐるしいこと……。
「あ、あの……」
「いや、いいんだ」
「急で驚くのも無理はない」
「すぐに結論を出してくれとは言わないよ」
「きみはまだ大学生って聞いたし、卒業するまでに決めてくれたらいいから」
「はあ……」
紙ナプキンに書き込んだ自分の番号を俺に手渡すと、ドミニクは何気なく腕時計に目をやった。
そして、あっという顔をしてそそくさと立ち上がる。
「すまん、今日はこれで!」
「今夜は私が夕食係でね……遅れると怖いんだ、コレが」
彼は伝票を手にすると、頭の上に両掌を掲げてみせた。
あれはきっと、奥さんであるウサギのことに違いない。
バタバタと会計を済ませ、大急ぎで帰って行った。
「あ」
再び落ち着きを取り戻した店内で、俺は彼にお茶のお礼を言うのを忘れていたことに気付いた。
また会った時に言えばいい。
そんな思いが胸をよぎり、はっとした。
うちに来ないかとドミニクに誘われたことは、素直に嬉しかった。
咄嗟のことで返事に困ったけど、何だ、心はもう決まってたのか。
彼の誘いに乗ることは何より、今の俺が取り得る最良の道に思えてならなかった。
叶うなら、またエレンと笑い合いたい。
そのために、俺は強くならなきゃならない。
冷めてしまった紅茶をぐっと飲み干すと、喫茶店を出た俺は駆け出した。
秋の空は高く、胸の空くような青色が広がっていた。