そうしたくても
晴れて退院したロブは、部屋で静かに過ごす。
ふと目にしたエレンからの手紙を読むと、彼はいたたまれない気持ちになって……。
『ロブへ
今日の朝は、ちょっと肌寒かった。
まだ9月だけど、もう秋が近付いてきてるのかな。
あなたが退院すること、ベアンハルトさんから聞きました。
本当によかった。
おめでとう。
エレンより』
俺が入院している間に、エレンはずいぶんと字が上手くなった。
いつか聞いたことがあったけど、彼女は字を書くのが苦手らしい。
「読むのは平気なんだけど、書くのはどうもね……」
正式な学校教育を受けたことのないエレンは、山小屋でハンナを先生に、読み書きを覚えたという。
加えて、最近は何かとメールで済ませてしまいがちで、ますます字が上手くならないんだとぼやいていたことがあったっけ。
彼女からの短い手紙の量は、気付けば紙袋2つ分にも及んでいた。
全部を繋げたら、本一冊分くらいにはなりそうだ。
俺が退院する当日も、最後の手紙がベアンハルトさんから届けられた。
そこには店で売られている花でなく、道端に咲いていたというスミレが挟まっていた。
「店で売っていた花は、全部買い尽くしてしまったそうだ」
俺を部屋まで送る車内で、彼は少し笑って呟いた。
それはつまり、エレンがそれだけ俺に手紙を書いたってことになる。
彼女がそれだけ手紙を書いたということは、それだけ俺たちは面と向かって話していなかったことにもなる。
エレンと会うのを止めてからも、俺はしばらく悪夢に悩まされ続けた。
ありとあらゆる悪夢に、俺はうなされた。
ある時は俺がライオンとなって、エレンをいたぶるものもあった。
悪夢にも参ったけれど、俺には乗り越えるべき壁がもうひとつあった。
それは、「食べる」ことだった。
ようやく口からの食事が出来るようになった日、昼食にシチューが出た。
味付けこそ薄いだろうけど、デミグラスソースの中で煮込まれた肉は、いかにも柔らかそうだった。
同室だったジャッカルの少年がそれにかぶりつく中、しかし俺は、スプーンを手にしたまま固まってしまった。
喉の奥がぎゅっと締まるように感じられ、胃袋が肉を受け入れたがっていないのが分かる。
冷や汗が出て、スプーンを持つ手がぬるついた。
それは、シロクマに噛みついた代償だった。
皿の上の肉を見ていると、彼の腕に噛みついた時の感触、牙が繊維質の肉に沈み込む感覚、口内に流れ込んだ血の味が思い出されるような気がした。
スプーンを入れると、肉はほろほろと崩れるように切れる。
小さくなったそれを、何とか口の中に押し込んだ。
なるべく噛まないようにして、水で飲み下すようにして食べたつもりだった。
それにも関わらず、今しがた飲み込んだものが、食道を突き上げるようにして戻って来るのを感じた。
たまらずベッド脇のゴミ箱に吐き戻した俺を見て、食欲旺盛なジャッカルの少年が、ナースコールを押してくれたのだった。
俺たち肉食獣の体は、肉を食うことで上手く動くようになっている。
肉を受け付けないからと食べなくなると、体がもたなくなるのだ。
「そういうわけだから、頑張って」
「早く体力を戻した方が、傷の治りにもいいですよ」
看護師にそう言われ、俺は肉を食べるリハビリを始めなくてはならなかった。
最初は液状になって、もはや肉だか何だか分からないようなものからスタートした。
栄養不足でふらつく癖に、体はそれを受け入れるのすら最初は拒んでいた。
ドロドロ肉の次は、小さく切った肉を飲み込むこと。
噛まなくてよかったのは幸いだったけど、液状でない分、喉を擦るように感じられた。
そんな年寄りのような食生活を繰り返し、やっと少しずつ食べられるようになったのだ。
それに伴って体力も回復し始め、晴れて退院出来ることになった。
もし、ここにエレンがいてくれたら。
挫けそうになる俺を、彼女が傍で励ましてくれていたら。
肉食のリハビリを送る中で、俺は何度そう思ったことだろう。
でも、それを現実にすることは、やっぱり出来なかった。
*
退院した日の午後、俺は久々の我が家で羽根を伸ばした。
同室の獣たちは嫌な連中じゃなかったけど、俺は元来、誰かとずっと同じ空間にいるのが苦手らしい。
もちろん、エレン以外のという意味だけど。
体に優しいハーブティー、看護師に勧められて買ったそれを飲みながら、荷物の整理をした。
使わなかった着替えはクローゼットに戻し、日用品も所定の位置に片付けた。
俺はエレンと直接顔を合わせなかったけど、入院中の荷物を管理していたのは彼女だった。
彼女がバッグに詰めたそれを、俺はベアンハルトさんづてに受け取っていた。
会いたくないと言われ、それでも俺の荷物を鞄に詰めるエレン。
彼女は一体どんな気持ちで、その役割を買って出たのか……。
不意に部屋から彼女が出て来る気がして、俺はぶるっと体が震えるのを感じた。
俺は、エレンに対してとても酷いことをしている。
そのことは、自分自身で痛いほどに分かっていた。
立ち眩みがして、俺はソファに座り込んだ。
その足元には、どこに片付けようかと迷ったまま放置していた、エレンからの手紙があった。
紙袋に手を突っ込むと、無造作に1枚取り出す。
『今日は、面白い話があるのよ。
ベアンハルトさんがね、仕事中に大きなくしゃみをしたの。
本当に大きくて、窓ガラスがびりびり揺れたくらい。
そうしたらね、何と、彼のズボンのお尻が破けちゃって。
しかもその時履いていたのが、ハートマークのたくさん付いた下着だったの!
もうわたし、おかしくて。
笑っちゃいけないんだけど、苦しくて仕方なかったわ。
ロブ、あなたは最近、何か面白いことがあった?
早く元気になれるよう、祈っています。』
『今日は、朝からずっと雨。
仕事も出掛ける予定もなくて、ただ、窓の外を見ています。
前に一緒に見たバラエティの再放送が、TVでやってたのよ。
一緒に笑ったのを思い出して、また見てみたわ。
筋書きは分かってるのに、やっぱりまた笑っちゃうのよね。』
『今日は、特に書くことがないの。
特に何の出来事もない日って、ロブにも経験あるんじゃない?』
何通かに目を通して、俺はいたたまれない気持ちになった。
俺に会いたいだとか、話をしたいだとかいう言葉は、手紙のどこにも見つけられなかった。
エレンはきっと、俺の重荷にならないようにそうしたに違いない。
淡々と日々を綴る言葉の中にはしかし、会いたい、早く迎えに来てという気持ちが溢れているようにも感じられた。
「俺だって、そうしたい……」
誰もいない部屋の中で、俺は独り言ちていた。
面と向かって彼女に言えたら、どんなによかっただろう。
エレンに別れを告げられた時、俺はこの世の終わりのような孤独を感じていた。
あんなに悲しい思いはもうしたくないって思ってた癖に、今度は自分で放り出したんだ。
あの日、病室で会うのを拒んだ俺に、エレンは何かを言おうとしていた。
それはきっと、こういうことだったと思っている。
もしわたしと別れたいなら、その時はそう言ってね。
エレンはきっと、そう口にしようと思ったはずだ。
彼女は、そういう人だった。
俺より年上であるという自覚のせいもあるだろうけど、我を通そうとしたことはなかった。
でもそれを口にしなかったのは、どんな形でも俺と繋がっていたいと思ってくれたからだろうか。
俺自身がそう言い出すまでは、関係にしがみついておこうと思ったのだろうか。
あれは、彼女が初めて見せた、彼女なりのわがままだったのかもしれない。
「ごめん、エレン」
「ごめん……」
「でも、どうしようもないんだ」
「きみを傷つけるくらいなら、俺は、もう……」
ソファの上で、俺は両手で顔を覆ってうな垂れた。
どんなに待っても、隣に座って優しく声をかけてくれる彼女は現れなかった。
それが自分のせいだと分かっているだけに、俺はいっそうどうしようもない気分に襲われるのだった。




