俺は何者か?
長年心の奥に閉じ込めてきた「本能」を味方に、クレイグを圧倒するロブ。
誰かを傷つけることに、快楽さえ覚え始めていた彼だったが……。
それはいつしか俺の心の中に出来た、【ある場所】だった。
どこか地下牢のようでもあり、じめじめとした暗さを持っている。
そこに、1本のロープが張ってある。
古びてはいるけど太いそのロープのせいで、向こう側には行けないようになっていた。
そしてそれは同時に、その向こうにいるものを押し留めておくの意味も持っていた。
そこには一体、何がいるというのか?
そいつの正体を俺は知っていたけど、知らない振りをしていた。
トムを傷つけた、あの過ぎた夏の日からずっと。
シロクマのクレイグに噛みついた時、俺の中でそのロープが音を立てて切れた。
それを切ってやったのは俺自身だったし、電光石火の速さでそこから飛び出して来たのも、また俺だった。
俺は何者なのか。
それを、俺自身に思い出させなくてはならない……。
俺が渾身の力を込めて顎を閉じようとしても、クレイグは声ひとつ漏らさなかった。
ただ猛烈な力で俺の鼻先を掴み、無理矢理に口をこじ開けさせる。
彼が俺から身を引いたのは、これが初めてだ。
押さえる腕からはぼたぼたと血が滴り、絨毯の床を汚した。
俺はふらりと立ち上がると、何か小さなものを床に吐き出した。
血液と共に吐き捨てられたそれはシロクマの腕の皮、赤く濡れた毛が引っ付いたままのものだった。
口周りを拭うこともせず、俺は床を蹴って飛び出した。
手を突っ張るようにして力を込めると、いとも簡単に鋭い爪が現れる。
それを何の躊躇もなく、クレイグに振り下ろす。
その一閃は空振りに終わった。
だからといって、俺はそれを気に留めることもなかった。
長年ロープの先に閉じ込められていた【怪物】は、今や完全に俺と一体となっている。
誰かを傷つけることに、何の抵抗を示すことがあるだろう?
自らの命を脅かしにくる者に、手心を与える必要はない。
爪と牙のある者は、みだりに弱い者を傷つけてはならない。
主に肉食獣に対して、そういう法律がある。
正当防衛などの特殊な事例を除いて、肉食獣がその能力を乱用するのは犯罪だ。
逮捕され、裁判を受け、刑務所に入ることになる。
草食獣で構成される極端な平和主義者の中には、肉食獣の牙と爪を抜くことを本気で主張する者すらいるらしい。
そんな馬鹿なことってあるか?
じゃあオレたちは、どうやってメシ食うんだよってなあ?
肉食獣の友達が叩くそんな軽口を聞きながらも、どこかで俺は、そういうのもありかもしれないと思っていた。
何かのきっかけで使ってしまうなら、そんなものは、はなから持たなければいい。
トムとの一件で自分を憎んでいた俺は、本気でそう考えることもあった。
だけど、今は違う。
相手を制圧出来る牙と爪を持つことを、心から嬉しく思う。
相手が死のうが生き残ろうが、それは問題じゃない。
守れればいい。
それだけだ。
守る……。
守るって、誰を……。
はっとした時には、クレイグの大きな拳が目の前にあった。
彼が放ったのは、左の拳だった。
俺に皮を食いちぎられた右腕は、さすがに庇うようにしている。
さっきまでの俺は、彼の利き腕でない方の攻撃にも、狼狽えるしかなかった。
でも、今はそんな心配はない。
どう闘えばいいかは、ロープの奥にいた怪物が知っている。
相手の攻撃をどういなし、どう次の攻撃に打って出るのか。
どんな風にやれば、相手を上手く痛めつけることが出来るのか。
全ては、肉食獣の本能が教えてくれる。
言うなれば、俺自身は操り人形みたいなもんだ。
俺は顔の前で腕を交差させて、体をさっと後方に引いて衝撃を削いだ。
そうするや否や腕を解き、追ってきたクレイグの左腕をぐいっと掴む。
彼の表情に、一瞬恐れのようなものが映った。
シロクマの太い腕を、爪を立てた手で掴み直す。
彼の顔が、ほんのわずか、苦痛に歪む。
爪を引き剥がそうと彼が身を捻るのを見て、逃がすかよと思う自分がいる。
再び牙を剥き出すと、逃れられる前にその腕にかぶりつこうとした。
さすがに、今度は上手くいかなかった。
力任せに腕を引かれ、俺の牙は肉を噛まずにぶつかり合っただけ。
だけど彼の腕には、爪で割かれた跡が長々と残っている。
クレイグは、よほどの手練れだ。
豹変した俺の闘い方にも、ちゃんと合わせてくる……。
いつの間にか俺は、ふっと口元を緩めて笑っていた。
誰かを傷つけるのは、こんなにも刺激的なのか。
アドレナリンが、体中を洗い流すぐらいに溢れ出す。
「……まずいな」
クレイグが、ぽつりと呟いた。
まずい?
そりゃ、そうだろう。
今や彼は両腕を負傷し、血液を失いつつある。
そんな状態でも変わらない動きをしているせいか、息もずいぶんと上がっているのが分かる。
鋼鉄の肉体を持つシロクマではなく、闘いには全くの素人だった俺が優勢になったことで、外野たちはざわめきを通り越してうるさくなってきている。
もはやじっと座っていることさえ出来ず、そわそわと動き回る始末だった。
まずい。
クレイグが発したこの言葉の意味を、俺はそう考えていた。
それがそうではなかったことを知るのは、少し後のことになる。
俺は上半身をだらりと脱力するようにして、猫のように背を丸めて立っている。
姿勢を低くしておく方が攻撃に好都合だということを、この闘いの中で学んでいた。
吐く息が、自分でも熱い。
口内はシロクマの血で粘つくように感じられ、空気に触れて鉄のようになった臭いが、鼻腔を刺激している。
シロクマのクレイグは、そんな俺をただ見ていた。
その視線にはなぜか、申し訳ないような憐れむような、そんな色があった。
牙は、自分がまた肉を捕え、それを噛むことを望んでいる。
爪は、皮の上を滑りたがっている。
今度は、ちゃんと上手くやる。
軽いステップで前に踏み出すと、俺は一気に加速した。
今度こそ逃がさない。
俺の牙と爪に、お前の血を吸わせろ……。
すんでのところで、クレイグは俺の攻撃を交わした。
俺が次の攻撃に移るより早く、彼は全体重を俺に掛けて圧し掛かってきた。
仰向けにされ、その上にはシロクマの巨体がある。
ぎゅっと胸を押され、俺は喘いだ。
肋骨が、みしみしと音を立て始める。
力で押し通そうたって、そうはいくか。
俺を押さえ込む白く太い腕、今ではあちこちが血で汚れているそれに、俺は再び爪を突き立ててやった。
「うっ、ぐ……」
クレイグが声を漏らす。
それでも、力を緩めない。
脚で反撃しようにも、こちらも全力で押さえ込まれていた。
「どけ、どけよ!」
「重いんだよ、クソッ!」
俺は悪態を吐きながら、何とかその圧力から逃れようともがいた。
クレイグは力を緩めず、爪を突き立てられたままの腕で、俺の頭を掴んだ。
「しっかりしろ」
「自分に負けるんじゃない……」
それは喉の奥から押し出された、とても小さな声だった。
仮面の獣たちには、ただ呻いているようにしか聞こえなかっただろう。
「きみは、彼女を守るんだろう」
「でもそれは、私を殺すこととは違う」
「今のきみにはきっと、その力がある」
「でもそうしてしまったら、きみはきっと戻れなくなる」
「彼女の元に、戻れなくなるぞ」
彼の言葉に、俺は目を見開いた。
守る。
その言葉が、俺の体からどす黒い本能に染まった野獣を引き剥がす。
そいつはものすごい力で引きずられ、またあの暗がりに押し込まれた。
今度はロープではなく、鉄製の檻が大きな音を立てて、その扉を閉めた。
「はあっ、はあっ、はあっ……」
「お、俺……」
クレイグは、もう俺を押さえつけてはいなかった。
それでも俺は、なぜか息苦しい。
俺は何を……。
今まで、何を。
仰向けになった視界に、血まみれの爪が映り込む。
これは間違いなく、俺の両手だ。
自由になった胸は、そこいら中にある酸素を吸えずに苦しんでいた。
その苦しみは、そっくりそのまま俺のものになった。
はあっ、はあっ、はあっ、はあっ、はあっ。
はっ、はっ、はっ、はっ。
は、は、は、は。
息が吸えない。
苦しい。
自分の胸が、馬鹿みたいに激しく上下しているのが見える。
それなのに、肺が空気を受け付けてくれない。
「しばらく辛抱してくれよ」
「過呼吸を起こしている」
そういうや否や、クレイグはいきなり俺の鼻先を掴み、口を閉じさせた。
空気を吸う穴をひとつ奪われ、パニックになった。
口を押えられ、俺が息を吸えるのは鼻からだけ。
頼みの綱のその場所も、固まった鼻血で半ば塞がれている。
わずかな空間から、俺は懸命に酸素を吸った。
意識が、だんだんと遠のいていく。
朦朧とした中で、俺は何かの音を聞いた。
何か、大きな音。
誰かが叫んでいる。
声、声、声……。
苦しさから出た涙で滲む視界に、ベッドのエレンは映らない。
バタバタと誰かが動き回っているような振動を、床に横たえた頭が感じていた。
「クレイグさ……」
「……すか」
すぐ傍で、誰かの話声がした。
もう何が何だか分からない。
「よく、耐えたな」
最後の声は、やけにクリアに聞こえた。
それが誰から発せられたものだったか、しかし、俺には分からなかった。