バラにも棘があるように
ロブは、自分の中の気持ちが恋かもしれないと、ぼんやり気付く。
そんな中、部室で学祭で使う苗の配達を受けることになる。
時間になって、ドアをノックしたのは……。
ユリフェストでは、多肉植物の鉢植えを売ろうということになった。
分厚い葉が個性的な多肉植物はメスたちの間で人気だし、世話もさほど必要ない。
客も買いやすいんじゃないかと、決まったらしかった。
らしかったなどというのは、俺がエレンとの再会に舞い上がってぼーっとしていたからだ。
フラワー・ベアンハルトに行ってから、もう2週間が過ぎようとしている。
別れ際にもらったあのキーホルダーは、今は俺の部屋の鍵にもぶら下がっていた。
授業の前に鞄からノートやテキストを取り出した時、その鍵が机の上に転がり出してきた。
それを見た隣のオスラクダは、俺のことを遠慮なく二度見していた。
そんなことは、今の俺には大したことじゃない。
店の品とはいえ、彼女がお揃いのキーホルダーをくれたことは嬉しかった。
俺とエレンの間にある繋がりは、決して特別なものじゃない。
でも、ぷつんと簡単に切れたりはせず、辛うじて今もそこにある。
オーナーが直々に会いに来てやってと言ってくれたことも、俺の心を軽くしていた。
正直なところ、俺は自分が彼女をどう思っているのか分からなかった。
分からない癖に、会えると嬉しくて仕方がなかった。
*
「それは恋だぜ」
「うん、間違いなく恋だね」
目の前の2匹は、共にそう断言した。
いつもの、学食でのランチ中の出来事だ。
「恋……とか、そんなわけないだろ」
「あほか」
「恋したことのないおまえに、何でそれが恋じゃないって分かるんだよ」
チャドは、反論する俺をばっさりと切り捨てた。
自分だってご一匹様の癖に、何でこんなに偉そうなんだ。
「だって、彼女人間だし」
「いいじゃない、種は違っても愛情は芽生えると思うよ?」
フローリアンでさえも、この調子ときた。
本当のところ俺が恋をしているとして、彼らはどうしてこんなに盛り上がるんだ。
高校時代からの薄暗い友達に彼女が出来そうなことを、心から喜んでくれているのだろうか。
それとも、恋愛未経験の俺が何かしでかすのを楽しみにしてるとか。
チャドの場合は、後者の可能性が高い。
「それに彼女、年上だし……」
「いいよー、年上のメスは」
「大人っぽいけどちょっと頼りないとこもあって、そのギャップに萌えるんだよねー」
「よかったじゃねーか」
「年上のオネーサマは、色ーんなこと知ってるぜ、きっと」
「若い子じゃ知らない、あんなことやこんなことも?」
言いたい放題の2匹だったけど、ロッテが10も上なのを知った時には、さすがにひっくり返りそうになっていた。
わざとらしく椅子の背をガタガタいわせて、チャドが座り直す。
「ロブ……」
「おまえってやつはビギナーの癖に、いきなりマニアックなとこ行ってんな」
「悪かったな」
「てか何だよ、マニアックって」
散々いじくり回された挙句、2匹は俺の行く末を見届ける決意を固めたらしかった。
もういい、やりたいようにやればいい。
「ところでさ、もうじきユリフェストじゃない?」
「ロブは、その人誘うの?」
考えたこともなかった。
実際、学祭に来るカップルは即席も含めて多い。
「花屋の人なんでしょ?」
「エンケンの模擬店でいいとこ見せて、見直してもらえばいいじゃん」
「そうそう」
「おまえ、始まりがドブだからな」
彼らは俺に、とりあえず誘え、誘えったら誘えという命令を下す。
俺のことを思ってが半分、もう半分は面白がってってとこだろうな。
はっきりとした返事はしないで、俺は学食を後にした。
エンケンの部室に寄ろうと思っていたら、エリオットさんからメッセージが来ているのに気付く。
まず、いきなり両手を合わせているネズミのスタンプから始まっていた。
『ごめん、急だけど今日の15時から時間ある?』
『苗の配達があるんだけど、急な補講が入った!』
『ベアンハルトさんが来るから、部室にいてくれると助かる!!』
その時間はちょうど授業がない。
OKですと、俺は簡単に返事を送った。
午後最初の授業を終え、時間に余裕を持って部室に行く。
やっておく課題もさしあたりなく、暇を持て余してテーブルにあった園芸系の雑誌を読んでいた。
約束の時間を迎えようという頃、トントンとドアをノックする者がいた。
グリズリーのベアンハルトさんだと思い、何気なくドアを開けた。
「あ」
俺の体を、2週間前と同じ懐かしくも身じろぎさせるような感覚が走り抜ける。
そこに立っていたのはグリズリーではなかった。
店で再会した時と同じ、赤いエプロンを締めたエレンだった。
「ごめんね、ベアンハルトさんが急用で来られなくなって」
「エリオットくんがいるって聞いてたけど、きみだったんだね」
「配達の荷物、建物の前まで持って来てるんだけど……」
「階段があって台車じゃ運べないから、手伝ってくれる?」
まともな返事も出来ずにいる俺を特に気に掛ける様子もなく、彼女はさっさとドアの向こうを行く。
そんな必要はないのに、小走りで付いて行く俺がいた。
土と鉢、それから多肉植物の小さな苗は、狭い部室の一角を我が物顔で占領した。
ユリフェストは、もう16日後に迫っている。
2週間余りで、これらを鉢植えという形に仕上げなくちゃならない。
「多肉植物は、なるべく育てやすそうな種類を選んでおいたって」
「オーナーがそう言ってたわよ」
苗の前にしゃがみ込んで、エレンは言う。
デカい自分が突っ立っているのもおかしいかと思い、俺も同じように隣にしゃがみ込んだ。
「でも、珍しいね」
「え?」
「きみみたいなオオカミが、植物好きなんて」
「……やっぱり、そう思いますよね」
「よく冷やかされます」
俺がしゅんとしたのを見て、エレンはふっと笑う。
彼女がよく見せる、とても柔らかな笑顔だ。
「ううん、そういう意味じゃないのよ」
「植物を好きなきみは、きっと優しいんだろうなって思っただけ」
彼女は言葉を切ったけど、不思議な余韻が空間に残る。
ふと視線を上げて、あのビー玉のように澄んだ青い瞳が俺を見ている。
ドクドクッと、俺の心臓がまた変に動いた。
「……茶色と白、黒がちょっと多めね」
「え、何?」
彼女が呟いた言葉の意味が、俺には分からなかった。
深い海のようにも見えるその瞳は、じっと俺を見ている。
「毛の色の話」
「ああ」
「本当に似てるの、わたしの知ってるオオカミに」
「それってあの、あなたを助けたことがあるっていう?」
「うん」
「とても厳しかったけど、同じくらい優しかった……」
彼女は、なおも俺を見ていた。
しかしその視線は、俺を通り越してどこか遠いところを見ているように感じられた。
場所はもちろん、時間をも超えたどこか遠いところ。
彼女が瞬きをすると、その違和感はすっと消え去った。
「優しい、か」
「それは、ちょっと違うかもしれません」
エレンの視線を避けて、俺はぽつりと呟いた。
彼女の目が、今もこちらを見ているのが分かる。
「俺は、ただ逃げたくて」
「優しい自分でいたくて、それでそういう風にありたいと思っているだけで……」
「誰かを傷つけることは、もうしたくないんです」
そう、俺は優しくなんてない。
ただ、自分が怖いだけなんだ。
広げた右の手の平には、今はほとんど目立たない古傷がある。
あの日、彼のナイフから逃れようとして防御した時の傷だ。
俺は再び、ゆっくりと拳を握った。
「バラには、棘があるわよね」
「え?」
「植物はわたしたちと違って、自分で考えたりすることはないと思うの」
「花や草にも心があるっていう考え方は、嫌いじゃないけどね」
「上手く言えないけど、そんな植物でさえ、棘を持って自衛してるわけでしょ?」
「簡単に手折られないように、食べられたりしないようにって」
「だからきみに何か思う所があって、自衛のために優しくあろうとしても、それは全然悪いことじゃないと思うよ」
「そんなに、自分を責めなくてもいいんじゃない?」
俺は、不意に泣きそうになってしまっていることに気付いた。
彼女の言葉が、どうしようもなく胸を締めつける。
最後にもう一度、彼女は俺の目を見た。
それから何も言わずに、すっと立ち上がる。
「ずいぶん、油を売っちゃった」
「ベアンハルトさんが心配するわね」
階段の上り口まで、俺は彼女を見送りに出た。
荷物をここまで運ぶのに持って来たらしい台車を、彼女は少し力を入れて押し始める。
いくらか行きかけたその足は、何かを思い出したのか止まった。
「そうそう、きみね」
「何ですか?」
「それ、その丁寧な言葉遣い」
「わたしのこと、あなたなんて呼ばなくていいから」
「次に会う時までに、ちゃんと直しておいてね」
軽く片手を上げて、彼女は台車を押して帰って行った。
彼女の言葉には、やっぱり余韻がある。
教会の鐘が震えるように、今も頭の中でこだましている。
次に会う時まで……。