待っている未来
闘うということに全く不慣れなロブだったが、それでも自分とエレンのために奮闘する。
クレイグが時おり見せる隙に、牙と爪を使って攻撃しようと考えるも……。
もしトムとの一件がなければ、俺はどんな獣になっていただろう。
肉食獣である自分に誇りや自信を持つ、そんなオオカミになっていただろうか。
そんな俺は、エレンと出会うことがあっただろうか。
彼女と出会ったとして、恋に落ちただろうか。
俺は自分が嫌いで、ずっと肉食獣の持つ強さから目を背けていた。
エレンと出会い、そんな俺であっても受け入れてくれた彼女と恋に落ちた。
心の底から、彼女を守りたいと思った。
その気持ちに、変わりはない。
その気持ちが本当のものなのか、証明するなら今しかない……。
拘束具で締めつけられていた両手と両足に、痺れるような鈍痛を覚える。
その部分を軽くひねって、凝り固まった部分をほぐした。
正面から向き合うと、シロクマの威圧感がブリザードのように襲いかかってくる気がした。
それでも、俺の膝が震えることはない。
あまりの緊張感で、体がおかしくなってしまったか。
それとも、腹が据わったのか。
クレイグは、俺の目の前に突っ立ったままだ。
汚れのない上質なスーツを着、ただそこに立っている。
しかし、隙を見せているわけじゃないのは、素人の俺にだってよく分かる。
きっと意味はない。
そう思いながらも、拳を固く握り、顔の前に掲げてみせる。
こんなことなら、大学で何か運動部に入っておくべきだった。
そんな思いが、呑気に頭をかすめる。
「止めて!」
「ロブ、あなた殺される!!」
エレンが叫ぶ。
彼女がベッドから起き上がるのより早く、ライオンが彼女の元に歩み寄る。
胸ポケットから取り出した小さな注射器の針を、彼女の首筋にすっと沈み込ませた。
うっと小さな声を上げて、エレンは即座に脱力した。
ライオンがそれを優しく抱きかかえ、再びベッドに寝かせる。
「オス同士の闘いに、メスが首を突っ込んではいけない」
「それにきみには、私たちを満足させるという重要な役目があるのだからね」
「しばらくは、大人しく眠るといい……」
俺の視線は、エレンに向いていた。
彼女がまずいことになったわけじゃないことに、ひとまず安心している自分がいた。
「よそ見か?」
「ずいぶんと余裕だな」
言い終わるが早いか、クレイグの巨体が俺を目がけて突進してきた。
それが見えたところで、俺に出来ることは限られている。
戦車のようにさえ見える彼から繰り出される一撃は、まともに食らえば即ゲームオーバーだろう。
それを無意識下で理解したのか、俺の体が動き出す。
床を蹴って、一歩前に下がった。
しかし、その衝撃を完璧に受け流すことは不可能だった。
「ぐぅっ!」
直撃を避けたにも関わらず、俺は最初にいた場所から数メートルは吹っ飛ばされた。
ここがスイートルームように広い部屋でなければ、壁に叩きつけられていたに違いない。
床にしたたか頭をぶつけ、鼻の奥にツンとした痛みを感じる。
それでも、そんなことにいちいち構ってはいられない。
俺が起き上がる前に、シロクマの戦車は再び突進してきたのだ。
今度の攻撃は、すんでのところでかわす。
床を転がり、何とか体勢を立て直す。
2匹の獣が荒々しく闘う暴力的なシーンを、連中が望んでいるのは間違いなかった。
そうでなくては、彼らを喜ばせる余興にはならない。
だけど俺には、格闘技の知識も経験もない。
子どもの時ですら、友達と取っ組み合いのケンカをしたことも少なかった。
対して、このシロクマはどうだ。
狩りをして獲物を獲るご時世でもないのに、闘うということに長けている。
食うための肉を必要としないのに、誰かを殺す能力を持っている。
そしてその能力は、今は真っすぐ俺に向けられている。
まともな攻撃を食らえば、多分俺は死ぬだろう。
直撃だけは、何としても避けなくてはいけない。
そう考えるせいで、逃げ回る格好になってしまう。
その間に何か、エレンと自分を救う打開策を見出さなくては……。
ビュウッという、丸太を振り回したような音をさせ、シロクマの拳が鼻先をかすめる。
相手の動きに目が慣れてきたのか、その動きが一瞬止まったようにも見えた。
力で対抗するのは、不可能と言ってもいい。
だけど俊敏さでは、こちらにも分があるんじゃないか?
俺が何か攻撃するとしたら、その利点を使うしかない。
爪を剥き出し、ミサイルのように向かってくる腕を切り裂く。
傷が深くなくても、もしかしたら動揺させることは出来るかもしれない。
そうしたらやつの後ろに回り込んで、それで……。
それは、決して現実に出来ないような考えじゃなかったはずだ。
それでも俺は、思い描いた通りに相手に反撃を食わせることが出来なかった。
無意識に、体が拒否している。
誰かを傷つけようとする気配に、怖気づいている。
それに気付いたのがいけなかった。
俺はほんの束の間逃げることを忘れ、その隙にシロクマが入り込む。
強烈な蹴りを腹に見舞われ、俺はその反動で転がった。
「あ、ぐ」
「ゲホッ」
息が吸えない。
見えないことが救いだけど、内臓はきっと潰れてしまっただろう。
腹を抱えて床にうずくまる俺に、彼はさらに攻撃を加える。
蹴られ、殴られ、放り出される。
圧倒的な暴力を前に、俺はまさしく赤ん坊みたいだった。
「やあやあ! やっと余興らしくなってきたじゃないか」
「逃げ回るだけじゃ、何の面白味もないからね」
豪華な部屋は広い。
それでも俺の血は、彼らが優雅に腰掛ける足元にまで飛んでいた。
俺を何度も打ち据えたシロクマの白く大きな拳も、薄赤く汚れている。
シロクマは、床に伏す俺の前にゆっくりと近付いてきた。
床を通して伝わる緩やかで微かな振動が、死刑宣告の合図が近付くように思えた。
彼はこれから俺を殺すのだろうか。
いや、そんなことはしないだろう。
俺を生かして、見せつけると言ったじゃないか。
エレンが、あの狂った連中に八つ裂きにされるのを。
エレン、エレン……。
俺の、エレン。
「お前、舐めてるのか?」
シロクマはその大きな手で俺の頭を掴むと、遠慮なくぐいっと引き上げた。
ぼろぼろになり、殴られて片目を腫らしたような顔で、俺はぼんやりと彼を見つめた。
「こちらが隙を与えてやっているのに、何て様だ」
「どうして、反撃してこない?」
「まさか、その牙と爪を使わずして、私に勝つつもりでいるのか?」
彼の声には、抑揚がない。
淡々と、俺に語りかけている。
「お前は、とことん甘ったれらしいな」
「これからどういうことになるか、今一度教えてやる」
そう言うや否や、彼は再び俺を床に叩きつけた。
頭を押さえられた視線の先には、薄笑いを浮かべる仮面の獣たちがいる。
シロクマは、低く押し殺したような声で続けた。
「これから起こることは、2つ考えられる」
「ひとつは、お前が私に勝ち、あの女と共に解放されること」
「可能性は、驚くほどに低い」
「もうひとつは、お前が私に負けること」
「そうなった時、どういうことが起こるか」
「目覚めた女は、これ以上ないというくらいに、なぶりものにされるだろう」
「お前が想像しているより、遥かに酷い方法で」
「彼らは筋金入りのサディストだ」
「ギリギリで生かしながらいたぶる方法は、いくらでも知っている」
寝起きのようにぼーっとした頭の中に、シロクマの声が響く。
彼がどんなに重要なことについて話しているかは、頭ではちゃんと理解している。
何かしないといけないのも、ちゃんと分かってる。
そのはずなのに、体は言うことを聞いてくれない。
全身が麻痺したように、動かない。
「それでも彼女は、お前のために生きようとするだろう」
「死の淵から死神がしつこく手を引いても、全力で抗い、耐える」
「それは、あのライオンが約束したからだ」
「生き残れば、お前と共に帰してやると」
「彼女の芯はとても強い」
「やるといったら、きっとやり遂げる」
「それで……お前はどうなる?」
「全てが終わった後に、虫の息の彼女と解放されるのだ」
「お前は芋虫のように彼女に這い寄り、そして、許しを請うだろう」
「俺のために悪かった、許してくれと……」
やめろ。
「心配ない、彼女はきっと許してくれる」
「今際の時にあっても、闘わずして負けたお前を……」
やめろ、やめろ。
やめろ。
「自分の不甲斐なさのために彼女を救えなかったことは、長くお前の心に残るだろう」
「しかしそれも、いつか消える」
「仕方なかったのだと、誰か別のメスが、お前の頭を撫でて慰める」
「救えなかった彼女と過ごした時間は、心の中に残る古傷のようなものだ」
「それも奥にしまい込んで、いつしか触れることもなくなる」
「やがてお前は、彼女のことを思い出さないようになる」
「お前は別の誰かと愛し合い、一緒になり、子どもを作る」
「自分の出来る範囲で、守れる存在を作る」
「エレンという人間の女は、お前の中から完全に押し出される」
「最初から、いなかったようになる」
やめろ、やめろ、やめろ、やめろ、やめろ!
「そういうことだ、小僧」
「お前が自分可愛さに手を汚さなかったことで、そういう未来が待っている……」
「やめろ!!」
心の声は、とうとう現実に響いた。
俺は口を大きく開くと、牙を剥き出した。
これでもかという力で、それをシロクマの腕に突き立てる。
俺の中で、何かが音を立てて切れた。