余興
獣たちの餌食となろうとするエレンを前に、無力さを痛感するしかないロブ。
自分の非力さの前に泣くしか出来ない彼を前に、ある者がある提案をして……。
「こんなに素晴らしい瞬間を、私1匹ばかりが独占するのも勿体ない……」
「ねえエレン、そんな風に思わないかね?」
腕を頭上で押さえ込まれているエレンは、ドレスに包まれた胸を大きくゆっくりと上下させていた。
表情までは見えなくて、彼女が怯えているのか怒っているのかは分からない。
「エレン」
「ひとつ、私と賭けをしてみないかい?」
「きみが勝てば、きみときみの大切なあのオオカミ君を、喜んで解放しようじゃないか」
嫌な予感がした。
続きを待っているのか、エレンは何も答えない。
「ここに、私の旧知の友が4匹いる」
「みな裕福で、腕のいい医者たちばかりだ」
はははと、どこからか自嘲気味な笑い声が漏れた。
こんな状況で笑えるなんて、一体どんな神経してるんだ。
「私を含めて5匹」
「今から、きみが全員の相手をする」
「もちろん、一番最初が私の番なわけだが……」
「最後の1匹が終わった時、それでもまだきみが生きていたとしたら……きみの勝ち」
「あのメスオオカミのために頑張ったきみだ、そんなに難しいことじゃないだろう?」
「ただ、耐えるだけでいい」
「死んでしまわないように」
くつわの下で、俺は息を飲んだ。
どうしたら、そんなに残酷なことを考えられるっていうんだよ。
こいつら、本当に俺と同じ獣なのか?
きっと、エレンは考えている。
そして彼女がどういう答えを出すのか、俺には分かっている。
彼女は間違いなく、同じ選択をするだろう。
かつて、愛するハンナのためにそうしたように。
そして今度は、俺のために。
「……いいわ」
「約束は、ちゃんと守ってもらうから」
「ブラボー!」
「さすがだ!」
4匹のうちの誰かがそんな声を上げ、エレンの決意に拍手を送る。
賞賛の次に待つものに、心を躍らせながら。
「んう!!」
「んんんーーーーっ!」
止めろ、エレン!
きみはそんな選択を、俺のためなんかにしちゃいけないんだ!!
必死で上げた俺の叫びは、くつわに遮られて言葉にならないままに、あちこちへと飛び散った。
何とかして彼女の元に行こうと体をよじるも、大きな獣が圧しかかるせいでびくともしない。
「私は、あの時のきみが恋しくて仕方がないんだ」
「彼をここに呼んだのは、そのためだよ」
「愛する者がいれば、きみはどこまでも強くなれる……そうだね?」
ベッドにいるエレンの両脇に手を突いて、ライオンは優しく話し掛けていた。
それが逆に、この状況の異常さを際立たせている。
エレンはもう、何も言わない。
何か反論する力さえ、使うのが勿体ないとでも言うみたいだった。
彼女は、本気で考えている。
抑制という名のたがが外れた野獣を相手に、きっと生き残ってみせると。
皮肉なことに、そんな彼女が余計にあいつらを欲情させている。
「それでは、早速始めようじゃないか」
「前の者は、後に残された者のことを考えてくれたまえよ?」
「いきなり殺してしまっては、何の意味もないからね……」
仮面の獣たちは、文字通り舌なめずりをして自分の番を待っている。
エレンの傍らにいるライオンは、にこやかに応じた。
「そこへいくと、私に心配はいらないさ」
「何せ6年もの間、彼女を殺さずに飼っていたんだからね」
「力の入れようは、ちゃんと心得ているよ」
言い終わるや否や、彼はエレンのドレスを乱暴に引き破った。
露わになった胸は見えなかったけど、そこには既に、十分過ぎる傷があるのを俺は知っている。
どうして、どうして……。
何であんたたちは、彼女を放っておいてやらないんだ。
どうしてそうまでして、彼女をめちゃくちゃにしたいんだよ?
くつわを噛み締めて、俺は泣くしか出来なかった。
目の前で、大切な人が、酷い目に遭わされようとしている。
それなのにどうして、俺はこんなにも無力なんだ……。
「さあ、いよいよショーの幕開けだ」
「気をしっかりと持てよ、エレン」
低い声で呟くと、ライオンは大きな牙を剥き出した。
醜い笑顔を浮かべた口の端で、それが光っているのが分かる。
「んぐっ!!」
「ふ、う、んんんーーーっ!!」
意味はないと分かっていても、俺にはもう叫ぶしか出来ない。
目の周りを涙で汚し、くつわに涎を滴らせ、ただ、叫ぶしか出来ない。
誰か、誰か。
誰でもいい。
彼女を……。
圧しかかる重みが、不意に軽くなった気がした。
「……何だ、クレイグ」
依然として俺を押さえ込んだまま、クレイグと呼ばれた獣は、その太い腕を宙に向かって真っすぐに伸ばしていた。
彼は、シロクマだった。
「水を差すような真似をして、申し訳ありません」
「ただ私……どうにも我慢ならんのです」
突然のことに、一同は眉をひそめている。
シロクマは続けた。
「この、私の下に組み敷かれているだけの、オオカミのことです」
「若いとはいえあまりに非力で、同じ肉食獣として恥ずかしい」
「愛する者がなぶりものにされようとしているのに、泣くことしか出来ない」
「情けなく、怒りすら覚えます」
そこまで言うと、クレイグは俺を見下ろした。
俺を軽蔑しきったその眼差しは、シロクマである彼に相応しく冷ややかだった。
「そこで、僭越ではありますが、私からご提案があります」
「ほう? 続けろ」
「余興です」
「私とこのオオカミを、一対一で闘わせてください」
「この若造を半殺しにして、皆様のショーを一番近くで見せてやるのはいかがでしょう」
「意識は保ったまま、しかし何も出来はしない」
「目の前で起こることを、まざまざと見せつけてやるのです」
ベッドの上のライオンは顎に手を当てて、それについて考えているようだった。
俺は俺で、突然の事態に何とか付いて行こうと必死だった。
「しかしクレイグ、お前が相手では、その若者はあっという間に死んでしまうのではないか?」
「そんなことになれば、元の木阿弥だぞ」
「エレンも、最後まで頑張れなくなる」
「それは一理ありますな」
「床に転がって泣くしか出来ない、赤ん坊のようなオオカミですから」
仮面の一同から、嘲笑が漏れた。
悔しいけど、それは事実だった。
「そうならないよう、彼にも餌を与えるのです」
「餌?」
「もし万が一にも私を倒すようなことがあれば、彼らをこのまま帰してやるということにしては?」
「あの人間の女と同じです」
「彼があの女を本当に愛しているなら、どんなことをしたって私を殺しに来るでしょう」
「弱い者が命の限りに足掻く様は、きっとお気に召すかと思うのですが……」
「……ふむ、悪くはない」
「どうだろう? うちの用心棒の提案に乗ってみるかい?」
「いいんじゃないか?」
「楽しみがひとつ増えるというものだ」
「泣き虫ぼうやの、お手並み拝見といこうじゃないか」
獣たちはめいめいがソファにゆったりと腰掛け、クレイグの提案した余興を楽しむつもりのようだった。
エレンの傍らにいたライオンもやおらベッドから下りると、その仲間に加わる。
大きなシロクマの手で、俺は拘束を解かれた。
自由になった手でくつわを外すと、床に投げ捨てた。
涙に濡れた目は、擦ると少し痛い。
【泣き虫ぼうや】の俺に、一体何が出来るのか?
でも今は、それを考える時じゃない。
事態の成り行きは、俺の手に委ねられたんだ。
やるべきことを、やるしかない。