獣の檻の中
夢と現実の区別が付かないような状態で、ロブは目を覚ました。
そこには、彼が探していたエレンがいて……。
ベッドで目を覚ますと、隣にはお姫様がいた。
閉じられた瞼から伸びる長い睫毛は、白い肌にうっすらと影を落としている。
彼女と似た美しい誰かを、俺は知っている。
穏やかな眠りの中にある彼女は、まるで子どもみたいに無垢な顔をしていた。
子どもの頃に読んだ童話に出て来た、茨の生い茂る城で眠り続ける美しい人。
彼女は百年の眠りの中で、王子の口づけを待っていたんだった。
身じろぎすれば、鼻先が触れ合うほどの近さ。
俺は、彼女に触れたかった。
それが、彼女を安らかな眠りから引き戻すことになってしまったとしても……。
不意に浴びせられた冷水で、幸せな夢はあっけなくひび割れて崩れ落ちた。
力なく咳込むと、床の上に行儀よく揃えられた自分の脚が目に入る。
ノワールと会うのに履いて出た、黒いスニーカーだ。
その靴の様子から、どうやら自分は横たわっているらしいと、ぼんやりながら理解した。
毛の中に水が染み込んでくるのが、気持ち悪い。
ぶるぶると頭を振りたい衝動に駆られるも、体が言うことを聞かない。
俺は、一体どうしたんだ?
不意に誰かが頭の毛を鷲掴み、顔を強引に上げさせる。
まだ霧がかったようにぼやける視界に、何か大きな獣が映り込む。
あんた、誰だ?
そう声に出したいのに、舌が痺れるようにひり付いて叶わなかった。
頭が重く、気分も最悪。
まるで、腹の中に石でも詰め込まれたような気分だ。
その大きな何者かは俺の襟首を掴むと、決して小さくはないオオカミの体を、恐ろしい力で引き上げた。
そして、俺がノワールをそうしたように、乱暴に放り出す。
いきなりぱっと明るくなって、目が眩んだ。
全てが、真っ白い世界の中にある。
誰かが、俺の名前を呼んだような気がした。
「やあ、お目覚めかい?」
「気分はどうかな?」
穏やかな声。
子どもの頃、カウンセリングをしてくれた精神科医が、こんな風に喋っていたっけ。
あれはそう、トムの事件のすぐ後のことだ。
友達を傷つけたことで、精神的にずいぶん参ってしまった時期があった。
それで、心配した母さんが……。
「ロブ!」
今度の声は、はっきりと聞こえた。
あの声が誰のものか、俺は知っている。
その名前を口にしたつもりだったのに、ただくぐもった、だらしのない音がこぼれただけだった。
そこで初めて、自分が猿ぐつわを噛まされていることに気付く。
「ロブ!」
「ねえ、ロブ! 起きて!」
彼女が呼んでる。
俺は何とか自力で頭を上げ、声のする方を見た。
彼女はふんわりとした白いドレスを着て、部屋の中央に設えられたベッドの上にいた。
さっき夢で見た、眠り姫を思い出す。
俺の傍らで眠りに就いていた眠り姫に似た誰かは、目立った怪我こそなかったが痛々しかった。
口の端には小さな痣を作り、固まった血がこびりついている。
いつもは艶のある髪も、乱れて絡まっている。
ああ、彼女はもう目覚めてしまったのか。
俺とは違う、誰かのキスで……。
いや、違う……違うだろ。
彼女は眠り姫じゃない。
彼女は、俺の……。
そう思った刹那、突然自分の中にあらゆる感覚が戻って来た気がした。
靄は晴れ、全てががクリアになる。
雑踏の中で急に目を覚ましたかのように、細かい音が鼓膜を刺激する。
ここには、俺以外にも何匹かいるみたいだ。
俺は後ろ手に縛られてくつわを噛まされ、ホテルのスイートルームのような場所に転がされている。
ベッドの上にいるのは童話のお姫様じゃなく、俺の元からいなくなってしまったエレンじゃないか。
「いやいや、若いと回復が違うね」
「実のところ、ショーを楽しめないのではと心配していたんだ」
「加減を間違えると危険な薬だったが、まあ、何よりだよ」
ベッドの傍らには、高級そうな布張りの椅子が置かれていた。
そこには、上品に年老いた雰囲気の、1匹のライオンが腰掛けている。
眼鏡の中の鳶色の目は、優しささえ湛えて俺を見ている。
その周囲には、仮面を着けた獣が数匹。
顔の半分を覆う仮面のせいでどんなやつらかは分からないけど、どうやら肉食獣らしい。
ライオンがもう1匹、トラにヒョウ。
ノワールと同じ獣かと思うほどに高貴な雰囲気をまとった、ハイエナもいた。
上品な肉食獣が5匹、高級ホテルを思わせる豪華な部屋。
ベッドの上の、着飾ったエレン。
拘束されて、床の上にいる俺。
これがどういう状況か、すぐに分かるやつがいたら見てみたい。
「お目覚めで混乱しているところを悪いが、何とか理解してくれたまえよ」
「まずはそうだ、なぜきみのエレンがここにいるのかだね」
「そう、きみのエレンだよ」
ライオンは、椅子の上で足を組み直した。
物悲しい顔をして、彼は話し始めた。
「何人も試してみたけど、だめだった」
「誰も、彼女のようにはいかなかったんだよ、ロブくん」
「痛みや苦しみを恐れるのは、生きる者に起きる当然の現象なんだ」
「死にたくない、生きていたいという本能が、そのようにさせる」
「それがどういうわけか、彼女は違うんだな」
「エレンは」
「以前、私のうちで飼っていた時からそうだった」
「どんなに酷い目に遭わされても、目が死なない」
「恐れを恐れとして受け入れない」
「必ずここを乗り越えてやるという、強い意思を感じた」
話の内容から、こいつがかつてエレンをめちゃめちゃにした医者なのは明白だった。
胸の中に溜まっていた怒りに火が点き、俺は虚ろな目で相手を睨みつける。
そんなことは気にも掛けず、彼は続けた。
「私は、そんな彼女をいたぶるのが好きだった」
「何度打ち据えられても諦めない、強いエレンが好きだったんだよ」
「それがどうだ」
「元々死にかけの養母がくたばったくらいで、彼女はあっさりと希望を手放してしまった」
「生きることは、彼女にとって何の意味もないことになってしまったんだよ」
「目は光を失い、諦めで心も腐り果てる始末さ」
「そんな彼女に、興味を持てという方が無理な相談だったというわけだな」
ライオンは朗らかに笑うと、ベッドで震えているエレンを見た。
父が娘を思うような、温かな眼差しにさえ見える。
「私たちはみんな外科医なんだが……医者というのはね、とにかくストレスの溜まる仕事でね」
「ギリギリの精神状態で、病魔や怪我を相手に闘わなくちゃならない」
「そういうことを続けていると、ふと、命ってものを粗末にしてみたくなる時がある」
「それが、人間に手を出したきっかけだった」
どうかしてる。
少しでも不快な気持ちを表そうと、俺は転がったまま手を縛る拘束具をギシギシいわせた。
「死を前にした絶望の中で、人間たちが許しを請う有様は私を強く刺激した」
「しかし、エレンのように、ここから生きて帰るとまで考えている者は後にも先にもいなかったんだよ」
「私は、彼女を軽々しく捨ててしまったことを後悔した……」
「それから何人かの命を無駄遣いした後、なぜだったか、エレンはどうしているだろうと思った」
「それで、調べさせたのだ」
「金や権力があれば、大抵のことは思うがままになるものでね」
「死んでいても不思議はなかった彼女は、何と、生きているというじゃないか」
「しかも、獣のパートナーまでいると」
「ああ、きみのことだよ、ロブくん」
ライオンは急に立ち上がると、舞台俳優のように大袈裟に両手を広げた。
エレンはびくっと体を震わせ、自分の体を抱いた。
「私は、心が躍ったよ」
「彼女にはまた、大切なものが出来た」
「これで私はまた楽しめる……そう確信したんだよ」
彼はベッドに上がるとエレンを押し倒し、彼女の両腕を片手で掴む。
ライオンの大きな手で押さえ込まれる腕は、いつもにも増して細く頼りなげに見えた。
「さあ、役者は揃った」
「また、共に素晴らしい時間を過ごそうじゃないか」
彼は眼鏡を外すと丁寧につるをたたみ、それをベッドサイドのテーブルに置いた。
それはさながら、嵐の前の最後の静けさだった。