忘れな草
ロブはテレサに、シェルターに来た当初のエレンについて話を聞く。
そこにいたのは、今まで彼が出会ったことのないエレンで……。
テレサは何も言わずに、コーヒーを飲んでいた。
丸い眼鏡が、コーヒーから立ち上る湯気で少し曇っている。
俺を取り巻く食堂の静寂は、再びざわつきの中に飲み込まれつつあった。
「……もう、10年くらい前になるわね」
「夜遅くに、運び込まれてきたのよ」
「その日、麓では雨が降っていて……」
「毛布で包まれたびしょ濡れの体は、わたしが今まで見た中で一番酷かった」
「肉食と草食の違いはあれど、同じ獣があんなことをするなんて、信じたくなかったわ」
「何とか一命を取り留めた後も、彼女はずっと空っぽだった」
「口も利かないし、食事だってしない」
「もちろん、笑うことだってね」
「談話室にある窓辺に座り込んで、ただずっと外を見ているの」
「そんな彼女を見ていて、ふと思ったのよ」
「ああこの子はもう、生きるつもりがないんじゃないかって」
それは、俺が今まで見たことのない、空っぽのエレンだった。
見たことのないはずなのに、そんな彼女の姿がありありと目に浮かぶような気がした。
「しばらく経った頃……」
「わたしが庭仕事をしていると、いつの間にか彼女が傍に立っていたの」
「わたしが花壇に植えていた花を見て、それは何て名前なのって聞いてきたのよ」
「それは、忘れな草の花だった」
「わたしがそう教えても、彼女はただそこに立ったままだったわ」
「上着のポケットに、両手を突っ込んだままでね」
「それから、急に泣き出したの」
「ああその花、そういう名前だった」
「ハンナが好きだったのに、ずっと忘れてた……と言ってね」
忘れな草は、俺もどんな花か知っている。
その花を好きだったという、顔を知らないハンナというオオカミ。
そして、彼女を愛したエレン。
ハンナを失って1人生き残った彼女は、一体何を思って泣いたんだろう。
その時の彼女を思うと、心が痛んだ。
「その小さな青い花が、彼女の中でも息を吹き返したみたいだったわ」
「大切な誰かを思い出したことで、もう一度生きてみようと思えたのね」
「それから彼女は、時々わたしを手伝って庭仕事をするようになったの」
「運よく、彼女を引き取りたいっていう夫婦も現れて……」
「そこから先は、きっとあなたも知っているわね」
俺たちのカップは、いつしか空っぽになっていた。
お替りはどうとテレサが言いかけた時、1匹のキツネがやって来た。
彼女は、テレサとテーブルに着いている俺をじろりと睨む。
「ああ、ミア」
「ちょうどよかったわ」
「彼を、エレンの所へ案内してもらえるかしら?」
「いいんですか、先生」
「彼は大丈夫よ」
「お願いね」
確かあの時、ドアから駆け出して来たのは彼女だったように思う。
フンと鼻を鳴らすと、ミアというキツネは歩き出した。
付いてこいという意味だろうか。
俺はテレサにぺこりと頭を下げると、急いでその後を追った。
「あたしは、あんたのこと信用してないからね」
「妙な気を起こすと、またこれだよ」
ミアは、腰のホルダーにあるスタンガンをちらつかせた。
なるほど、さっきの攻撃はこのスタンガンによるものらしい。
彼女と廊下を歩いていても、あちこちから視線が突き刺さる。
どこか影を背負うように見える、人間たちの目。
その多くは俺を恐れて、窺い見るようなものだった。
ここに彼らがいるのは当然のことで、俺は歓迎されない獣だということは分かっているつもりだった。
それでも、ここにいると全ての罪を背負わされている気がしてくる。
何だか、息苦しい。
「こんな目で見られて、辛いでしょ?」
「悪いのは俺じゃないのにって、思うでしょ?」
「でも、悪いのは獣なんだよ」
「そして、あたしもあんたも獣なんだ」
「そんなやつが、エレンと話をしてどうしようっていうの?」
「獣の癖に、彼女の何を理解してやろうってつもりなのよ」
「理解してやろうってのが、そもそも横柄だとは思わない?」
ミアが吐き捨てるように言ったそれは、間違いなく正論だった。
俺はエレンの元に向かっている癖に、急にどうしていいか分からなくなってしまった。
やがて俺たちは、2枚の扉が中央で開くようになっている、とある部屋の前にやって来た。
ドアの傍には、【談話室】と書かれたプレートがはめ込んである。
ミアが押し開けたその先は、進んできた廊下よりもずっと明るかった。
その明るさの中に、エレンはいた。