本当は
傷心のエレンは、かつて暮らしたシェルターに身を寄せていた。
庭で並んで座ったテレサに、エレンは恋をしたという話をして……。
胸の下辺りまであった髪を、肩の上で切り揃えた。
失恋すると髪を切りたくなるというのは、どうやら本当みたい。
こんなわたしを見たら、彼は何て言うかな。
そう考えて、思い直す。
もう、そんなことを気にする必要はないんだった。
どんな服を着れば、彼は喜んでくれるだろう。
どんな話をすれば、笑って聞いてくれるだろう。
どんな料理を作れば、美味しいと言って食べてくれるだろう。
気が付けば、そんなことばかり考えるようになっていた。
今日は手を握ってくれる?
またキスをしてくれる?
きみが好きだよって、はにかみながら言ってくれる?
でもそれはもう、わたしが気にすることじゃない。
「じゃあエレン、これよろしくね」
キツネのミアが、洗ったシーツの入った籠を手渡す。
水を吸ったシーツは、意外に重い。
籠を抱えるようにして、わたしは庭に出た。
今日はいい天気だから、昼前には乾くだろう。
わたしは今、シェルターにいる。
飼われていたライオンに捨てられたわたしを救ったのが、ここのスタッフだった。
彼と別れてからも、わたしは街で暮らしていた。
いつも通りに部屋を出て、ベアンハルトさんの店に行って働いた。
時間通りに仕事を終え、またアパートに帰って食事をして寝る。
いつも通りの生活だった。
彼と出会う前の日常が戻って来ただけだった。
そう、わたしが望んだ、リセットの先。
ある日、わたしは店でブーケをオーダーされた。
縞模様が美しいそのメスのシマウマは、たびたびわたしに花束を注文してくれる客だった。
あなたの作るブーケが好きだからと、いつも嬉しいことを言ってくれる。
「今日はね、わたしと彼が付き合って5年になった記念日なの」
「曖昧で申し訳ないんだけど、その喜びをイメージしたようなブーケにしてくださる?」
わたしは笑って応じると、切り花を取りにケースに向かった。
店の中央には、色とりどりの花を収めたガラスケースがある。
そこに立って、どのようなブーケにするかイメージを膨らませた。
顎に手を当てて少し考えれば、いつもはすぐにイメージが湧いてきた。
こんな感じで作れば喜んでくれるんじゃないかと、考えることも出来た。
でもその時は、まるでだめだった。
ケースの前で、わたしは愕然とした。
何も、思いつかなかった。
そのうちに、目の前にある花の色が、じわじわと失せていくような気がした。
わたしがおかしいことに、ベアンハルトさんはすぐに気付いてくれた。
優しく肩を叩くと、どうしたのかと尋ねてくれた。
自分に一体何が起こったのか、わたし自身にも分からなかった。
ブーケを作るのは、ベアンハルトさんに引き継いでもらうしかなかった。
「今日はいいお天気ね」
シーツを干し終えたわたしが庭に座って空を眺めていると、老いたオランウータンが傍に腰を下ろしてきた。
彼女はわたしと目が合うと、にっこりと優しく微笑んでくれる。
「おはよう、エレン」
「おはようございます、テレサ」
しばらくの間、わたしたちは何も言わずに流れていく雲を眺めていた。
それから最初に口を開いたのは、テレサだった。
「素敵ね、そのグリーン」
「え?」
「まるで、この辺りの森みたいな色ね」
彼女が言うのは、わたしが着ている深緑色のコートのことだった。
今はもう3月だけど、山の上にあるシェルターはまだ寒い。
「お天気はいいけど、ここはまだまだ冬ね」
「街より、ずっと寒いでしょう?」
「そうですね」
「でも、わたしも山での生活が長かったので平気です」
テレサは、10年前にここを出て行ったわたしが、ひょっこりと戻って来ても何も言わなかった。
柔らかなベッドのある、暖かい部屋を用意してくれただけだった。
わたしに何も尋ねなかったのは、ベアンハルトさんも同じだった。
どうもわたしは、自分で考えている以上に参っているらしい。
そのことに気付いたわたしは、一度ここへ戻りたいと願い出たのだった。
「そうだね、それもいいかもしれない」
「店にはリサに出てもらうから、仕事の心配はしなくていい」
「山の空気を吸って、ゆっくりしておいで」
彼はそうとしか言わず、車でここまで送って来てくれた。
そしていつ戻るんだとは聞かず、そのまま帰って行ったのだった。
「……ねえ、テレサ」
「わたし、初めて恋をしたんです」
なぜ、急にこんな話をする気になったのかは、自分でも分からなかった。
もしかしたらそれは、このグリーンのコートを着ていたからかもしれない。
これは、彼と大学のイベントを回った時に着たものだった。
そしてその時初めて、彼はわたしを好きだと言ってくれたのだった。
「恋って、素敵よねえ」
テレサは独り言ちて、長い息を吐いた。
それは空を流れる雲に似ていたけど、すぐに空気の中に消えた。
「相手はどんな?」
「……オオカミです」
「わたしよりずっと年下で……体は大きいのにどこか頼りなくて」
「優しかった?」
「ええ、とても」
山の天気は変わりやすい。
ざあっと風が吹き始めて、雲が束の間太陽を隠す。
「わたし、彼のことがとても好きだったし、彼も同じ気持ちでいてくれました」
「でも、だからこそ、彼がわたしといるのはよくないと思ったんです」
テレサは何も言わない。
ただわたしの隣に腰掛けて、にっこりと笑ったまま話を聞いてくれていた。
「彼はまだ若いし、これから素敵な出会いがたくさんあるはずだから」
「わたしとなんか、一緒にいちゃいけないんだって思ったんです」
「わたし、彼のために……」
無造作に膝に載せていた手に、何かがぽつっと落ちた。
空はまだ明るいけど、もう雨が降り出したのだろうか。
だったら、シーツを……。
「エレン」
テレサは優しく言うと、わたしの手を取った。
わたしは、いつの間にか泣いていた。
「テレサ……」
「違う、本当は違うんです……」
わたしの手を握るテレサの手にも、涙がぽつぽつと滴る。
もう、抑えてはおけなかった。
「彼のことを思ってそうしたんじゃない……」
「本当は……」
「本当は、わたし……」
わたしは、優しいテレサの胸に顔を埋めて泣いた。
どうしようもなく、悲しい気分だった。