父から娘へ
エレンに会うため、久々にフラワー・ベアンハルトを訪れたエレン。
しかし、彼女はもうそこにはいなくて……。
春休みに入った最初の日、俺は長く足を運んでいなかったフラワー・ベアンハルトを訪れた。
幸いにも、今日は混み合っていないらしい。
店内に客がいなさそうなのを確認して、俺は店に入った。
「こんにちは」
客の来店は、ドアに付いたベルが知らせてくれる。
それで気付かれる前に、俺は自分の存在を知らせることにした。
エレンが出て来るかは分からなかったけど、隠れるような真似はしたくなかったから。
「やあ、こんにちは」
「何か用かい?」
店の奥からのっそりと現れたのは、ベアンハルトさんだった。
エレンじゃなかったことに、俺は少なからず安堵していた。
しかし、このグリズリーの店主もまた、いつもとは様子が違った。
辛うじて微笑んではいたけれど、どこかよそよそしさのような雰囲気をまとっている。
これは、覚悟していたことだった。
「あの……エレンと話せますか?」
「まだ仕事中なのは分かっています」
「終わるまで俺は外で待っているので、そう伝えてもらえますか?」
「残念だけど、それは出来ない」
「え?」
「彼女は、今うちにはいないんだよ」
それは、俺が予想もしなかった答えだった。
何と続ければいいのか分からなくなって突っ立っていると、ベアンハルトさんは店の奥に声を掛けた。
「リサ、少し上に行くけどいいかな?」
「いいわよ」
姿は見えず、声だけが帰って来た。
ベアンハルトさんの奥さんがリサという名前なのは、エレンが口にしていたから知っていた。
俺を2階の事務所に通すと、彼はコーヒーを用意してくれた。
テーブルまで持って来たトレイには、2つのマグカップの他に蜂蜜の小瓶があった。
「コーヒーに蜂蜜なんて、変だって言われることもあるんだけど」
「私は、これが好きでね」
エレンもそうだったと言うと、気さくなグリズリーの店主はふっと表情を緩めた。
俺も蜂蜜をひとさじすくって、コーヒーをかき回した。
蜂蜜入りのコーヒーから立ち上るほの甘い香りは、俺にとってはエレンの香りでもあった。
「あの、聞いていますか? 俺たちのこと……」
「エレンからかい? いいや」
俺たちは言葉少なにコーヒーを飲んだ。
ベアンハルトさんはくーっとマグをあおると、まだ湯気の立つカップを静かに置いた。
そして、俺が何か切り出すのを待っていた。
「俺たち、実は付き合ってたんです」
「うん」
「何となく、そういう気はしていたよ」
「でもそれもこの間までの話で……彼女とは、別れました」
「エレンの提案で、もう友達でいるのも止めることになったんです」
ベアンハルトさんは何度か顎を撫でて、俺の話を聞いていた。
つぶらな瞳を、じっと閉じている。
「ベアンハルトさんは、エレンのことをどこまで知っているんですか?」
「どこまで、というと?」
「ここに来る前の、エレンって意味です」
やおら瞳を開くと、ベアンハルトさんはじっと俺を見つめた。
太い指のある手を組むと、口を開いた。
「ロブくん」
「私とリサはね、エレンの里親なんだ」
「今から10年くらい前になるかな……シェルターで保護されていたあの子を引き取ったんだよ」
それは、エレンからも聞いたことのない話だった。
ただの従業員と雇用主じゃなかったわけか。
「昔の友達がシェルターにいて……それで、子どものいなかった私たちにどうかと話を持って来てくれた」
「きみは、シェルターがどういう場所か知っているかい?」
「シェルター……人間救済センターのことですよね?」
「そうだ」
「エレンがどういう経緯でそこに来たのかは、引き取ると決めた時に聞かされている」
「つまり、私たちはそこまで知っているってことになるね」
そこまで。
それはきっと、俺がインタビューの映像から聞き知ったことと同じだろう。
「……俺は、ずっと知りませんでした」
「彼女の身に起こったこと……エレンは、そんなこと全然言わなかったから」
「だろうね」
「さっききみは、エレンと別れたと言ったけど……」
「切り出したのは、彼女の方じゃなかったかい?」
「そうです」
やっぱりねと、ベアンハルトさんはソファにもたれ、手を組み直した。
「今きみは、エレンの過去について知ったわけだね」
「それで一体、どうしたいんだい?」
「どうしたいのか……正直、自分でもよく分かりません」
「彼女と別れることになった時、とても悲しかった」
「俺はずっと好きでいたのに、エレンはそうじゃなかったんだと思ったんです」
「でも今は、本当にそうだったのかと思っています」
「彼女の過去を知って、なおさらその思いは強くなりました」
「ただもう一度、彼女と会って話をしたいんです」
「どんな話をするつもりなのか、それだって分かってないんですけど……」
俺は、蜂蜜の入ったコーヒーに口を付けた。
コーヒーはもう、ずいぶんと冷めてしまっていた。
「ほんと言うとね、私はきみを殴ってやろうと思っていたんだ」
「エレンがまた昔のようになってしまったのは、きっときみのせいだと思ってね」
「妻のリサも、気持ちは同じはずだ」
「……そうされても、仕方ないと思っています」
「エレンを深く知らなかったとはいえ、彼女を傷つけてしまったはずですから」
「だから、どうぞ……」
そう言うと、俺はギュッと目をつぶった。
牙も噛み締めて、口の中が切れないようにした。
グリズリーに全力で殴られたら、きっとただじゃ済まないだろうな。
「はははは」
「本気にしたかい?」
ベアンハルトさんが笑って言うので、俺は恐るおそる目を開けた。
その拍子に大きな拳が飛んでくるんじゃないかと、少し警戒しながら。
「そういう気持ちを持ったのは、残念ながら事実だよ」
「でも、今のきみを殴る気はないさ」
「エレンは、シェルターにいる」
「ここからずいぶん遠い、山の奥にある施設だよ」
マグカップを横に押しやり、ベアンハルトさんは車のキーを机に置いた。
そして俺を真っすぐに見る。
「彼女は、もしかしたらもうここへは帰ってこないつもりかもしれない」
「私たちにとって、それはとても辛いことだ」
「エレンが静かな場所で暮らしたいなら、私たちにはそれを止める権利はない」
「ただもし……彼女が迷っているなら……またここへ連れて帰って来てくれるかい?」
「それを手伝えるとしたら、きみしかいないと思うんだよ、ロブくん」
本当のところ、ベアンハルトさんは俺を殴りたかったと思う。
それでもそうしなかったのは、ひとえにエレンのためだろう。
彼がエレンに抱くその感情は、父から娘への愛に等しかった。




