インタビュー①
ロブが間違えて再生したディスクは、ボック先生からもらったものだった。
そこに収められていたのは、彼がエレンをインタビューした音声と映像だった……。
間接照明だけの室内は、薄暗い。
その中で、パソコンの画面だけが煌々と光を放つ。
電灯に群がる虫のように、俺は画面に釘付けになっていた。
チャドからもらったDVDを見るという考えは、とっくにどこかへ行ってしまっていた。
インタビューの映像は、エレンを正面から捉えたものではなかった。
真正面から撮ることに、ボック先生は抵抗を覚えたのかもしれない。
エレンは、その半身が画面の左に映るばかりだ。
『では……話してもらえるだろうか』
『エレン、きみがここへ来るまでに経験したことを』
『どこから、話せばいいですか』
『どこからでも構わない』
『きみが話せることだけで構わないよ』
『思い浮かぶことを、ありのままに話してほしい』
『上手く話そうとは思わなくていいんだよ』
ボック先生の声は、穏やかだった。
しばらく言葉が途切れ、何かがカサカサいう音だけが聞こえた。
『雪の中を、走っていました』
『まだほんの小さな子どもの時です』
『保健所の裏には山があって、そこを逃げました』
画面の中のエレンは、顔にかかった髪を耳に掛けた。
それは、彼女がよくやる仕草だった。
しかしその髪は、俺の知っている美しい黒髪じゃなかった。
長さもまちまちで、そこまで鮮明でない映像越しでも傷んでいるのが分かった。
彼女の青い瞳は、伏目がちになってそこにあった。
それも、俺の知っているきらきらとした瞳じゃなかった。
そこにいるのは、確かにエレンだ。
でも、俺の知っている彼女とは、まるで違っていた。
俺の知らないエレンは続ける。
その声は、淡々としていた。
*
薄暗がりから、木箱がギシギシいう音がするんです。
それから、苦しそうな声。
多分、女の人だと思います。
わたしは、それを見るのが怖かった。
それなのに、目を離すことが出来なかった。
そこで彼らが何をしているか、あの時のわたしには分からなかった。
ハンナとは、そういう話をしたことはありませんでした。
後になって、やっと気付いたんです。
あれは、わたしの未来の姿だった。
彼からされているとき、部屋の隅から誰かがわたしを見ていました。
黒いくしゃくしゃの髪をして、汚れた子どもです。
ベッドに押しつけられて声も上げられないわたしを、彼女は指を咥えて見てるんです。
あれは、わたしだった。
そして、保健所の暗がりで獣に犯されていたのは、わたしだったんです。
――きみは、どういう経緯でこのようなことになったと考えているのかな。
けいい?
学校に行ったことがないので、難しい言葉が分からないんです。
読み書きと、簡単な計算は出来るんですが。
――悪かったよ。
――経緯というのは……そうだな。つまり、どうして……。
どうして、ここに来ることになったか、そういうことですか。
――そうだね。ありがとう。
それはわたしが、路地に捨てられたからです。
ハンナが死んで、もうどうでもよくなって、わたしは彼を楽しませることが出来なくなってしまった。
彼は、それがつまらなかったんだと思います。
――彼とは、誰のことか教えてもらえるだろうか?
彼は、お医者さんです。
とても偉い医者なんだと、自分でそう言っていました。
わたしが頑張ればハンナが助かると、そうとも言っていました。
――ハンナというのは、きみの家族のこと?
ハンナは、オオカミです。
保健所から逃げてきたわたしを、小屋に置いてくれたんです。
エレンという名前も、彼女からもらいました。
保健所では、呼んでもらう名前も、呼ばれる必要もありませんでした。
――ハンナについて、何か話すことはある?
……ハンナは、少し変わった獣でした。
わたしが知っている獣みたいに、叩いたり、大声で怒鳴ったりはしませんでした。
怒られることは、ありました。
でもそれは、わたしが言いつけを守らなかった時などです。
やるように言われた簡単な仕事を、わたしがやらなかった時も叱られました。
罰だと言って食事を抜いたり、髪を掴んで引き倒したり。
そういうことは、全くしませんでした。
そうする代わりに、わたしに服を縫い、体をきれいにしてくれました。
名前を与え、生きる方法を教えてくれた。
誰かを好きになるってことも、ハンナが初めて教えてくれたんです。
――きみは、ハンナが好きだったんだね。
そうです。
そういう気持ちを何て呼ぶか、わたしは全然知らなかったんです。
形もなくて、味も匂いもない、ぼんやりとして、でも温かな何か。
そういうものを愛と呼ぶんだと、ハンナは教えてくれました。
わたしは彼女を愛したし、彼女もわたしを愛してくれたと思います。
だから……だからわたしは彼女を救いたかった。
どんなことをしても。
――きみとハンナに何が起こったのか、聞かせてくれる?
……わたしが15になった頃、ハンナが病気になったんです。
わたしが森から帰って来ると、彼女は小屋の傍にある水場で倒れていました。
――悪い病気だった?
よくは分かりません。
何とか彼女を病院に連れて行ったけど、ずっとベッドで眠っているだけでした。
お医者さんがわたしを呼んで、大切な話をすると言いました。
でもその話も難しくて。
――きみを助けてくれる、誰かそんな獣はいたかい?
いいえ。
わたしは何とか理解しようとしました。
それで、その先生に説明してもらって、大事なことだけは忘れないようにしました。
ハンナは、重い病気だってこと。
彼女を……えーと……治療? するためには、ものすごくたくさんのお金がいるってこと。
――嫌な質問だけど、家にお金はあったかい?
ありました。
ハンナは、小屋にクッキーの缶を持っていたんです。
濃い緑色に光る四角い缶で、金色で細かい模様が入っていました。
そこには山の麓で使うお金が入っているのを、わたしも知ってたんです。
でも、ハンナのためには、もっともっといるんだと言われました。
わたしがどのくらいかと聞くと、その缶がこの部屋を埋め尽くしても足りないくらいだと言われました。
わたしは、お金というものをどうやって手に入れたらいいか分かりませんでした。
それで、先生に聞いたんです。
彼は、体の大きなライオンでした。
周りの獣たちはわたしをじろじろと見ていましたが、彼は違いました。
にこにこして、親切にいろいろ教えてくれたんです。
――彼は、きみにどんなことを教えてくれたのかな。
どうやったら、お金を作ることが出来るかってことです。
彼は、それをわたしに教えてあげられると言いました。
――それで……彼は何と?
……。
自分のうちに来て、一緒に住むように言われました。
そこで仕事をすれば、彼がお金を払ってくれると。
……わたし、何も知らなかったんです。
彼が、わたしに何をさせたがっているかなんて。
わたし、本当に何も知らなかった。