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エンケン

エレンとは、きっともう会うことはないだろう。

そう考えると、ものすごくがっかりしてしまったロブ。

そんな気持ちを紛らわそうと、彼は所属するサークルの部室に顔を出した。

朝、大学に出掛ける前に洗面台の鏡を見る。

鏡に映る俺は、昨日と同じ黒いTシャツを着、ジーンズを履いている。


同じだけど、今は全く違う匂いをさせている服。

俺は首をぐっと下げて、シャツの襟ぐりに鼻先を突っ込んで息を吸い込んだ。

しかし次の瞬間には我に返り、慌てて部屋を飛び出したのだった。



ランチの時間。

授業を終えた俺は、いつものように学食でチャドとフローリアンと落ち合った。


「ん?」


俺の顔を見るなり、既にランチのトレーを手にしていたチャドが大袈裟に眉根を寄せた。

ヒョウらしい俊敏な動きで俺の傍に寄ると、クンクンと匂いを嗅ぐ。


「おい、いつもと違う洗剤だぜ」

「甘く香って、すっごいメスっぽい!」


こいつのこの、こういったことを嗅ぎ分ける嗅覚の鋭さはどうしたもんだ。

こういう時は、何食わぬ顔をしてやり過ごすのがいい。


「ロブ、それ昨日と同じ服だろ?」

「てめー、どこで夜明かししやがったんだ」

「洗濯してもらったんか、服脱いだんかコラ」


ふさふさした毛に包まれた拳を容赦なく俺にぶつけながら、チャドは喜々としていた。

彼女いない歴=年齢を着実に更新しつつあった俺にメスの気配が見えたのが、よほど愉快と見える。


「へー、メスのとこに泊まったんだ?」

「ウィークデーの始まりなのに、張り切るねー」


フローリアンまで、ニコニコしてそんなことを言う。

黙ってやり過ごしたかったけど、このままじゃ更なる誤解を生みそうな気がした。

俺は仕方なく、昨日の出来事を2匹に話して聞かせた。


「えっ、人間!?」

「マジかよ、この街にいたんだ?」


人間は絶滅こそしていないけど、その数は少ない。

彼らは【保健所】という保護を目的とした施設で一生を終えることも多く、そこらを歩き回る者などには、普通はお目に掛かれるものじゃない。

彼女との出会いが奇跡的だったことを、今更ながらに思い知る。


「それで、ドブに落ちたからって部屋に上げてもらって?」

「洗濯までしてもらっちゃって?」

「んでおまえは、すっぽんぽんで彼女とヨロシクってこと?」


「おい、最後違うぞ!」

「ブランケット巻いてたよ、ちゃんと!」

「布1枚でメスの部屋に上がり込むたあ、ロブも成長したじゃねーの」


チャドの物言いから察するに、やはりブランケット1枚で初対面のメスの部屋にいるのは尋常なことではないらしかった。

今それに気付いたところで、どうなるってわけでもないんだけど。


彼女について俺が知ったのは、エレンという名前と、年齢に関してだけ。

連れて行かれた部屋の場所は何となく覚えているけど、次に訪ねる予定があるわけでもない。


彼女は、恩返しをしたかったと言っていた。

災難に遭った俺を見て、エレンはその願望を果たすことが出来たんだ。


ただ、それだけだ。

他には何もない……。


そこで初めて、俺は残念な気持ちになっている自分に気が付いた。

彼女ともう何の接点もなくなってしまったのを、残念に思っている自分がいる。

こんなことは、初めてだった。


何でだ?

何で、そんなに残念に思うんだ?


「で?」

「次はいつ会うんだよ?」


ここへ来て、チャドのこの質問は堪える。


「次って……次はないよ」

「服洗濯してもらっただけだし」


「んだよ、それ」

「おい、フローリアン!」

「おまえも何か言ってやれ!」


次はないと自分で口にしたことで、俺は驚くほどにがっくりきてしまった。

そして無性に、土いじりをしたくなってしまう。

幸いなことに、俺にはそれを出来る場所があるわけだけど。



大学構内にある2号館の地下は、一部同好会の部室になっている。

この日の授業を全て終えた俺は、地下なせいでいつも薄暗い部室エリアに下りていく。


様々な臭いの立ち込める地下の一角に、その部屋はあった。

ドアに掛けてある古びた手製の看板には、決して上手くはない字で【エンケン】と書かれている。

【園芸研究会】の略だ。


「おっ、ロブ!」

「お疲れー」


室内に気配を感じながらドアを開けると、そこにはやっぱりエリオットさんがいた。

エリオットさんは俺と同じ史学科の3年生で、丸っこい体が人懐っこさを感じさせるアメリカビーバーだ。


彼は俺にとって唯一の先輩であり、唯一のサークル仲間でもあった。

つまるところ、エンケンには俺とエリオットさんの2匹しかいない。


「何、今日はもう授業終わったの?」

「はい」

「ちょっと、土いじりたくなって」


俺は部室の中にある棚から、小さな鉢を取り上げた。

4月に入学してここに入部して、何気なく植えた種。

ビニール製の小さなポットの中で、今は何枚かの葉を出している。


これが何の種だったかは、ついうっかり忘れてしまった。

それがエンケンってもんだよと、エリオットさんがしみじみと言っていたのを思い出す。

とにかく、ユルいサークルなのだ。


ベランダに鉢植えを置くだけあって、園芸には元々興味があった。

庭いじりを趣味にしている、母親の影響もあるかもしれない。


何より、エリオットさんは押しつけがましい勧誘はしてこなかった。

あの入学式の日、サークルの勧誘から逃げ出した俺の前にいたのが、彼だった。


いきなり目の前に現れた、自分よりはるかに大きな俺に、この丸い先輩は一瞬たじろいだらしかった。

それでもおずおずと、手描きの勧誘チラシを差し出したのだった。


彼の少し頼りない感じが自分と重なり、親近感を覚えた。

それで、俺は今ここにいるというわけだ。


大学に通う肉食獣は、義務でこそないがそのほとんどが体育会系の部に所属している。

あのチャドですら、キックボクシング部に入っている。

土がどうとか種がどうとかいう文化部に入っているのは、俺くらいだろうな。


「その恵まれた体を、どうにかしようって気はないのかよ?」


チャドにそう言われたこともある。

でも、俺はここが好きだった。


これでいい。

俺は、これでいいんだ。


心の中でそう呟いて、俺はポットの小さな苗を、少し大きめの鉢に植え替えた。

手に付いた土の匂いが、さっきまでの残念な気持ちを和らげてくれるような気がした。


「そうそう、ロブ」

「今週の土曜日って暇?」

「土曜日ですか?」


その日は、バイトがあったかもしれない。

スマホでスケジュールを確認すると、幸いなことに仕事はない。


「大丈夫です」

「ほんと?」


「じゃあさ、一緒に花屋に行かないか?」

「言っとくけど、デートの誘いじゃないからな」


チッチッチと舌を鳴らして、彼は短い人差し指を左右に振った。

ご心配なく。

先輩にその気があったとしても、俺はノーマルです。


「夏休み前に、プレ大学祭があるの知ってるだろ?」

「ああ……【ユリフェスト】?」


ここ、ウェストシティーカレッジでは、年に2回の学祭がある。

本祭と言えるのは11月にある【ノヴフェスト(ノーヴェンバーフェスト)】で、その前哨戦のようなイベントが7月にあるのだ。


規模こそ小さいらしいが、各部が模擬店やライブなどをやって、それなりに盛り上がるらしい。

初めて経験するそれが、来月に控えている。


うち(エンケン)も、何かやってきたんですか?」

「オレが1年の時はね」

「2年生の時は1匹だったし、余裕なくてさ」


弱小サークルで、部員はたった1匹。

エンケンは当然ながら存亡の危機に晒されたわけだが、エリオットさんが上手く立ち回ってそれを阻止したらしい。

入部以来、2~3回は聞かされた彼の武勇伝だ。


「今年はおまえもいるし、エンケンのPRも兼ねて何かやりたいなって」

「いつも備品とか植物買ってる花屋があるんだけど、そこで相談してみようかなと思うんだ」

「いいっすね」


学園祭か。

一緒に行く相手がいるわけでもないけど、やっぱり少しワクワクしてしまう。

大学生なんだから、もっといろんなことに節操なくワクワクしてもいいんだろうけどな。

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