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ボック先生のCD-ROM

ロブはある日、ボック先生の講義の後に彼にお茶に誘われる。

そこで彼は、かつてエレンをインタビューしたことがあるということを話し出して……。

『明日の夜、いつもの店に集合!』

『慰める会をやるので、全員集合すること!』


チャドからそんなメッセージを受け取ったのは、木曜日の午後のこと。

俺とフローリアンの両方に、そのメッセージは送信されているみたいだった。

ボック先生の授業の前にそれを見て、しかし俺はどうしたものかと迷った。


正直、行きたくなかった。

チャドやフローリアンに会うのが嫌なんじゃない。


エレンともう会えないと気付いた日から、あらゆることに関心がなくなった。

周りの景色が色褪せて見えるのは、今が冬だからという理由だけじゃないはずだ。


彼らと会うと、必然的にエレンの話題が上がる。

それに上手く反応する術を、俺は未だに見つけられずにいたのだった。

2匹にエレンのことを聞かれるのが嫌で、俺はたびたびランチをすっぽかしていた。


彼女とは別れた。

たった一言、そう言えばいいだけ。

それでもなぜか、俺はそれも出来ずにいた。


迷った挙句、俺は行くと返事をした。

慰める会とあったから、大方チャドに何かあったんだろうと思ったからなのもある。

誰かの話題に振り回されて、自分の問題を忘れるのもいいかもしれない。

やがていつもの格好のボック先生が現れ、いつものように講義が始まった。



「この後、時間はあるかな?」


講義が終わって出席表を提出した俺に、ボック先生が微笑みかけた。

今日の授業は、これが最後だった。



「きみとは、一度ゆっくり話をしてみたかったんだ」

「お父上のジェームスは元気かい?」


先生は、講義室とは別棟にある自分の研究室に俺を招いた。

ソファに掛けるように勧め、電気ポットで湯を沸かしてお茶を淹れてくれた。

香りのいい、ダージリンティーだ。


俺たちは紅茶を飲みながら、しばらくは他愛もない話をした。

俺は先生に、冬の帰省で起きたことを話した。


年明け前、父が愛用していたボロ車がとうとうお釈迦になってしまった。

その時の父の憔悴ぶりについて話すと、ボック先生は顎髭を撫でながら声を上げて笑った。


「そういうところ、昔と全然変わってないね」


目尻の涙を笑いながら拭うと、先生はカップから紅茶を一口飲んだ。


「ところで……あの子とは、上手くやっているのかな」

「あの子……?」


それが誰を指すのか、最初は全く分からなかった。

ボック先生が穏やかな顔で俺を見ているので、それがやっとエレンのことらしいと気が付いた。


「いきなり不躾な質問で、どうか許してほしい」

「何で私が彼女のことを言うんだと、不審にも思うだろうね」


不審とまではいかなくても、確かに不思議には思った。

俺は、先生にエレンのことを話したことはなかったはずだ。


「あれは確か、きみが1年生の時のノヴフェストの日だ」

「私たちが遠目に出会ったのを、覚えているかい?」

「あ、ああ……」


「私はあの時、きみの隣に懐かしい顔を見つけてとても驚いていたんだ」

「懐かしいって……あの、エレンのことですか?」


ああ、そんな名前だったねと、彼は目を閉じて頷いた。


「驚くと同時に、嬉しくもあった」

「それは、彼女がきみの傍らで、とても楽しそうに笑っていたからだよ」


ボック先生の話に、俺の胸はギュッと絞めつけられた。

彼からエレンの話を聞くことになるなんて、全くの想定外だった。


「下世話な推測と感じるかもしれないが……きみたちは付き合っているのかな」

「……あの時は、そうでした」


先生に、嘘を吐く気にはなれなかった。

でも、別れたとはっきり言うのもはばかられた。


「あの時は、か」

「では()()が、最近のきみを塞がせている原因だろうか」


()()という短い言葉の中に、先生は俺の現状を詰め込んだ。

彼は年老いてはいるけど、頭は切れるし察しもいい。


ただ、彼が何を言おうとしているのかは俺には分からなかった。

かつては自分の講義に熱心に耳を傾けていた学生が急に落ちぶれたので、それとなく喝を入れてやろうとでも思ったのか。


「いやはや、まどろっこしくていけないね」

「きみは、私がなぜこんな話をするのか分からないはずだ」


先生は、最初の紅茶を飲み干した。

ティーポットからお替りを注ぐ時に、俺のカップもちらりと見ていた。

俺はまだ、一口も口を付けていない。


「ロブ君」

「これから私がきみに話すことは、歴史学の担当教授として言うことじゃない」

「私の親友の息子に対して、話すことだと思ってほしい」


草食獣の先生が、肉食獣の俺の目をじっと見つめる。

こんな状況が起こり得るということを、大昔の獣たちは想像出来ただろうか。

俺がゆっくりと頷くと、彼は表情を緩ませて話し始めた。


「私が初めてエレンに会ったのは、シェルターでのことだった」

「この大学に来る前、もう10年ほど前のことになる」


「彼女のことを紹介してくれたのは、私の昔馴染みだった同族でね」

「彼はエレンが保護されたシェルターのスタッフで、彼女の身に起こったことに、とても胸を痛めていた」

「……何ですか? 彼女の、エレンの身に起こったことって……」


その質問に、ボック先生は答えてくれなかった。

また一口紅茶を飲むと、話を続けた。


「彼は、私が人間と獣の関わりについて研究しているのを知っていたんだ」

「それで、人間たちを取り巻く環境がいかに劣悪なものかということを、私を通して世の中に知らしめてほしいと考えたようだった」

「インタビューをしてみないかと、提案されてね」


俺は、深い海の底を覗いているような気分になった。

エレンが瞳に湛える、底の知れない深海。

俺の知らない彼女の話は、そこから上がってくる正体不明の泡に感じられた。


「もちろん、私は快諾した」

「正直なところ、彼女の置かれていた境遇、経験したことには強く興味を引かれた」

「貴重な文献をゆうに超える知識が、自ずから私の目の前にやって来たのだと思った」


「しかし……結果的に私は後悔した」

「彼女の身に起こったことは、筆舌に尽くしがたかった」

「歴史学の教授であったとはいえ、私にどうこう出来る問題ではなかったのだ」


先生は、視線を窓の外に向けた。

日は既に、傾きかけている。


「それからずっと後悔してきた」

「生半可な気持ちで、彼女の話を聞いたことを」

「だからあの日、きみたちを見かけて、心底救われた気持ちになった」


「それはロブ君、きみの隣に彼女がいたからだよ」

「そうして彼女は、微笑んでいた」


「心から、よかったと思った」

「私は何も出来なかったが、きみが彼女を救ってくれたのだと思った」


ボック先生は、両手を組んでぎゅっと握り締めた。

俺は、彼がこんな表情をするとは思ってもみなかった。

だからこそ、俺は先生に言わなくてはならなかった。


「先生」

「俺、彼女とは別れたんです」


このタイミングで言うのが正しかったのか、俺には分からない。

先生はしかし、驚きはしなかった。


「何となく、そういう気はしていたよ」

「私の勝手な推測だけど……別れを切り出したのは彼女の方からじゃないかい?」

「え?」


俺は驚いた。

だけど先生は、やはりそうだったかという顔をしただけだった。


先生は、何かを知っている。

海の底から湧き上がってくる泡が、一体何なのかということも。


「先生、あなたは何を知ってるんですか?」

「エレンの身に起こったことって……」


先生はやおら立ち上げると、部屋の明かりを点けた。

室内が明るくなったことで、外の暗さが増したような気がした。


そして彼はそのままデスクに向かい、一番上の引き出しから何かを取り出した。

薄いプラスチックケースに収められた何か。

それは、1枚のCD-ROMだった。


「これをきみに」

「今日の私は、とことんどうしようもない奴らしい」


「本当はこんなもの、誰かに簡単に見せていいものじゃない」

「きみはジェームスの息子だから、特別だ」


そのディスクは、持ち主の手を離れて俺の鞄の中に収まった。

結局、先生の淹れてくれた紅茶には手を付けられなかった。


「きみとお茶が飲めてよかった」


それでも先生は、そう言って俺を送り出してくれた。

研究室から出た時、外はもう真っ暗だった。

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