きみはもう、どこにもいない
エレンと別れたものの、いつも通りに毎日を送るロブ。
ある日思い立って、アパートまで歩いて帰ることにした彼は、その道すがらであることを思い出して……。
冬休みも終わり、2年生もいよいよラストスパートになった。
「あー、マジやべー」
「チャド、また単位落としそうなの?」
「だってよ、あの教授のレポートってばさ、採点厳し過ぎんだぜ?」
いつもの学食。
チャドはやっぱり単位取得に奔走していた。
その点に抜かりのないフローリアンは、春休みに彼女とどこへ行くかと頭を悩ませている。
そして、俺は。
「ロブはさ、春休み何か予定入れたの?」
「彼女とって意味だけど」
「ケッ、おまえら彼女持ちは楽しみがたくさんでいいねえ」
「楽しみを分けてくれとは言わねーけど、単位分けろ、単位」
「えー、何それ」
「それはチャド、自分が悪いんじゃん」
友達は、他愛もない話題で笑っている。
何も特別なことはない、いつもの風景。
ただそこには、決定的に欠けてしまったものもある。
「そういやよ」
「ロブ、結局彼女とは寝たのかよ?」
書きかけのレポートに目を通しながら、何気なくチャドが言った。
俺はそれには答えずに、席を立つ。
「ごめん、俺もう行くわ」
「うん、またねー」
変に思われたってことはないはずだ。
チャドの下らない質問に返事を返さないのも、いつものこと。
俺は自分でも驚くほど、いつも通りに振舞えていた。
エレンの言った通り、彼女と会う以前の俺に戻っただけのような気がした。
あの晩彼女の部屋を出て以来、フラワー・ベアンハルトには足を運んでいなかった。
特に用事もなかったし、会いに行く人もいないのだから当然と言えば当然だ。
「それでね、新入部員勧誘のビラなんだけど……」
「うんうん、これでいいんじゃないかな」
サークルでも、俺はいつも通りだ。
少し早いけど、新入部員獲得のためにあれこれと案を練っている。
今年はライムもいるし、心強い。
ライムに迫られて以来感じていた後ろめたさのようなものも、ぱたっとなくなった。
彼女は以前からそうだったけど、俺は前にも増して平常でいることが出来た。
まるで、エレンと関係のあったことが、自分の中からごっそりとなくなったみたいだった。
「ねえ先輩、大丈夫?」
「え? 何?」
「単位なら、俺は大丈夫だけど……」
俺の友達はいつも大変だけどなと笑って言うと、そうじゃないよとライムは寂しそうな表情をした。
しかしそれも、ほんのわずかで消えた。
次の春を迎えたら、俺は3年生になる。
最終学年には卒業論文もあるし、早いうちからテーマについて考えるのも悪くない。
就職に向けて、準備しておかないといけないこともあるはずだ。
俺は一体、どんな仕事に就きたいんだろうな。
やることは山ほどある。
大丈夫、きっと大丈夫だ。
*
俺はふと思い立って、また歩いて帰ることにした。
2月は寒いけど、実家のある村ほどじゃない。
冬の澄んだ空気に鼻を冷やすのも、割と好きだった。
今日の夕食は何にしよう。
家にあるもので、何か作れるだろうか。
足りないものがあるなら、帰りにスーパーに寄って行かなきゃな。
ふと顔を上げると、目の前にはコートを着た誰かの背中があった。
歩くのはこちらの方が速く、俺はその誰かを追い越した。
俺の歩く土手の下には子どもたちが集まり、ドブ川に張った氷を踏んでは、キャアキャアとはしゃいでいる。
その様子を何気なく見ていた俺の中に、あの日の風景が刹那的に甦る。
5月の陽気に氷は解け、そこには俺が座り込んでいる。
雨除けに赤いヤッケを着たエレンが、俺に手を差し伸べている。
服を洗ってあげるから、うちまでおいでと誘ってくれる。
艶のある、黒い髪。
俺の名前を呼んで、海の色をした目を、嬉しそうに細めている。
彼女のことが、気になって気になって仕方がなかった。
初めてキスをした夜は、全然眠れなかった。
手を繋いで、きみのことが好きだと伝えた。
何度も抱き締めたし、傍にいるだけで幸せだった。
エレン、きみが好きだよ。
エレン。
気が付くと、俺は走り出していた。
自分にまとわりつく記憶を、彼女と過ごした時間を振り払うかのように。
何かから逃げるように、俺は自分の部屋に駆け込んだ。
乱暴にドアを閉めると、そのままずるずると玄関に座り込む。
なかったことには、出来るはずもなかった。
時間だって、巻き戻せるわけない。
きつく閉じた目から、じわりじわりと涙が滲み出て来る。
それが熱くて、仕方ない。
「エレン」
「エレン、エレン、エレン……」
何度もその名前を呼んでみる。
どうしたの、ロブ。
そんなところに座り込んで。
ねえほら、立って。
優しく笑って、俺に差し出された手。
あの日恐るおそる握った手を、今はしっかり掴もうとした。
指と指とが触れる瞬間、それは幻のように消える。
冬の日に吐く白い息がやがて見えなくなるように、風景の中に溶け込んでいく。
そこには、何もなかった。
俺に差し伸べられる手も、俺に向けられる笑顔も。
名前を呼ぶ、優しい声も。
ありのままの俺を受け入れてくれた彼女は、もうどこにもいなかった。
とんでもないことをしてしまったと、俺はようやく気が付いた。
あの晩に置き去りにしていた心が、とうとう自分の中に戻って来てしまった。
どうしようもない気持ちに圧し潰されて、俺は大きな体を縮めて泣いた。
外では、雨混じりの雪が静かに降り始めていた。