蜂蜜とインスタントコーヒー
人間の女性に助けられたロブは、しばらくの間彼女の部屋で過ごすことになる。
エレンという名の彼女は、実はロブよりもずっと年上で……。
俺は、何でこんなところにいるんだろう……。
頭から大きな茶色のブランケットをすっぽりと被って、俺はソファの端に縮こまって座っていた。
あれから雨脚は強まり、今では雨粒が大きな音を立てて窓を叩いている。
5月になったとはいえ、雨が降るとまだまだ肌寒い。
俺は被ったブランケットを、隙間のないように合わせた。
俺を部屋の中に招き入れると、彼女はすぐにバスルームに誘った。
あれよあれよという間に、アヒル柄のシャワーカーテンが閉められたバスタブに押し込まれる。
その隙間から、彼女は細く白い腕を伸ばしてきた。
「はい、服をちょうだい」
「あ、どうも……」
カーテン越しとはいえ、すぐ傍に女の子がいる状況で服を脱ぐのには緊張した。
濡れていたせいもあるけど、俺はかなりもたつきながら脱いだTシャツとジーンズを手渡す。
それでも、腕はまだ何かを求めてそこにある。
「パンツがまだだけど?」
「え、さすがにちょっとそれは……」
「今さら恥ずかしがることもないでしょ」
ぴしゃりと言われてしまい、俺はしぶしぶパンツまで渡す羽目になった。
俺の下着を得た腕はようやく満足したようで、ごゆっくりと言ってカーテンの隙間から消えた。
*
「コーヒーでいい?」
「インスタントだけど」
彼女は、呑気にお茶の用意なんかしている。
シャワーを浴びた裸に布1枚の、しかも肉食獣のオスがいるっていうのに、まるで警戒心がないみたいだ。
俺はそんなに、無害そうに見えるのか。
怖がられないのは心地よくもあったけど、同時に違和感を覚えるものだと分かった。
「びっくり、しました」
「え?」
黙っているのが息苦しく感じられて、とうとう俺は口を開いた。
キッチンでコーヒーの用意をしていた彼女は、こちらを振り返る。
「その、助けてもらってありがとうございました」
「だけど、えっと、やっぱりまだびっくりしてて」
「わたしが、人間だから?」
「それもあります」
「でも俺って、どっちかっていうと怖がられるタイプだし」
「ほら、デカいし」
「そうね」
「シャツもズボンも、大きかった」
「パンツもね」
顔を赤くした俺を見て、彼女はクスクスと笑った。
これは、完全に遊ばれている。
「だから、その」
「あなたみたいな人が物怖じせずに助けてくれるなんて、思ってもみなかったし」
「エレン」
「え?」
「あなたじゃなくて、わたしはエレンっていうの」
「きみは?」
「名前、まだ聞いてなかった」
異性の名前を知り、自分も名前を尋ねられる。
何が特別ってことでもないけど、もうずいぶんこんなことはなかった。
「ロブ、です」
「ウエストシティーカレッジに通ってます」
「大学生?」
「そう」
「ふぅーん」
最後のんが少し鼻にかかって、甘く響いて聞こえた。
不意に、心臓がぐるんと回転するような感覚に襲われる。
回転に次いで、どくどくと変に脈打つ。
エレンと名乗った彼女は、コーヒーを載せたトレイを手にソファへとやって来た。
トレイには、マグカップに入ったコーヒーが2つに小さな瓶詰の何か。
コーヒーの表面では、まだ湯気が渦を巻いている。
「お砂糖とか、ミルクはいる?」
「あ、いや、ブラックで」
「そうなんだ」
「オスって、みんなそうなのかしら」
オスはブラックコーヒーを飲みたがると、彼女はそう言いたかったのだろうか。
俺にはよく分からなかったけど、彼女はトレイに置いてある小瓶のふたを開けた。
そしてそこに入っていた黄金色の何か、とろっと粘度のあるそれをスプーンですくって自分のマグカップに入れる。
「きみを助けたのはね」
カップの中でスプーンをくるくると動かしながら、彼女は言った。
言葉を続ける前に、一口飲む。
少し尖ってカップの縁に触れた唇に、なぜか釘付けになってしまった。
「半分は単純な同情、もう半分は恩返しってとこかな」
「恩返し?」
「うん」
オオカミはイヌ科なので、そこそこ熱いものでも平気だ。
俺もカップに口を付け、彼女の話に耳を傾けた。
「わたしも、オオカミに助けてもらったことがあるの」
「もうずいぶん昔のことだけど」
「だから、俺のことも平気なんですね」
「そうそう」
「その相手にはもう恩返し出来ないから、あなたのことを助けたかったのかもしれない」
「今にして思えば、けっこう強引だったね」
眉をハの字にして、エレンは苦笑いをした。
その顔には、どこか寂しさみたいなものが見て取れる。
「ところで、大学生ってことは……20歳くらい?」
「えーと、今19歳です」
「1年生だけど、5月が誕生日だから」
「19かぁ」
「思ってたより、ずっと若いのね」
「わたしなんか、もう30」
へー、30歳なのか。
人間って、案外若く見える……っておい!!
「30ゥ!?」
「10も上っ!?」
驚きを隠せず声を上げた俺に、正確には11歳年上ねと、エレンは冷静に付け加える。
「男の子としては、やっぱり引いちゃう?」
「ずっと年上の女に、部屋に引っ張り込まれるっていうのは」
コーヒーを口に含みながら、エレンは軽く笑った。
何と言えばいいのか分からなくて、俺は下を向いて黙ってしまう。
その視線の先に、さっきの小瓶が映り込んだ。
今は、話題を替えるのが一番いい気がした。
「あの……それって何ですか?」
「え?」
「その、さっきコーヒーに入れてたのは」
「ああ、これ?」
「これ、蜂蜜よ」
紅茶に蜂蜜を入れて飲んだことはあったけど、コーヒーに蜂蜜は聞いたことがなかった。
幸い、俺のマグカップにはまだ半分ほどコーヒーが残っている。
「試してみてもいいですか?」
「どうぞ」
彼女は、俺のマグカップに蜂蜜を入れてくれた。
かき混ぜると、コーヒーからは独特の甘い香りが立ち昇った。
一口飲んでみると、それがなかなか悪くない。
「どう?」
「いや……美味しいです」
お世辞じゃなかった。
いつもはブラックで飲むけど、たまにはこんな飲み方もありかもしれない。
「雨、止んできたね」
彼女の声に窓の外を見ると、少し薄明りが差し始めているのが分かる。
これなら、傘がなくても大丈夫そうだ。
ブランケットでなく、服を着ていればの話だけど。
「いけない、あなたの服を取りにいかなくちゃ」
「ここね、昔は学生寮だったらしいの」
「その時の名残で、今も地下にランドリールームがあるんだけど……」
「薄暗くて、夜はちょっと怖いのよね」
ふふふっと笑うと、エレンは部屋を出た。
残された俺は、明るくなり始めた窓の外に視線を戻す。
カップの中身は、もうぬるくなってしまっている。
またひとつくしゃみをすると、俺は両手でカップを包んだ。
蜂蜜入りのほんのり甘いコーヒーは、彼女が帰って来る前に飲み干してしまった。
*
その日の夜、俺は部屋のベランダに出て外を見ていた。
住まいであるアパートには小さいベランダが付いていて、それが気に入ってここに決めた。
決して広くはないベランダには、折り畳める木製の椅子と、小さな鉢植えが幾つか置いてある。
手摺りに身を預けながら、俺は往来の獣たちを何とはなしに見つめていた。
そしてぼんやりと、昼間のことを思い出す。
エレンという、人間の女性。
赤い色をした、小さくて可愛らしい獣みたいだった。
可愛らしいという思いが頭に浮かんで、俺はなぜか急に恥ずかしくなってしまった。
どうしてそう感じたのかは、自分でも分からない。
もし叶うなら、もう一度彼女に会いたい。
部屋の中には、彼女が洗濯してくれた服が置いてある。
せっかく洗ってもらったから、明日また着ようと思っている。
いつかこのベランダで、彼女とコーヒーが飲めたら。
何だかそんな思いが、頭の中を巡る。
口の中には、まだほの甘いコーヒーの味が残っている気がした。