表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

3/118

蜂蜜とインスタントコーヒー

人間の女性に助けられたロブは、しばらくの間彼女の部屋で過ごすことになる。

エレンという名の彼女は、実はロブよりもずっと年上で……。

俺は、何でこんなところにいるんだろう……。


頭から大きな茶色のブランケットをすっぽりと被って、俺はソファの端に縮こまって座っていた。

あれから雨脚は強まり、今では雨粒が大きな音を立てて窓を叩いている。


5月になったとはいえ、雨が降るとまだまだ肌寒い。

俺は被ったブランケットを、隙間のないように合わせた。


俺を部屋の中に招き入れると、彼女はすぐにバスルームに誘った。

あれよあれよという間に、アヒル柄のシャワーカーテンが閉められたバスタブに押し込まれる。

その隙間から、彼女は細く白い腕を伸ばしてきた。


「はい、服をちょうだい」

「あ、どうも……」


カーテン越しとはいえ、すぐ傍に女の子がいる状況で服を脱ぐのには緊張した。

濡れていたせいもあるけど、俺はかなりもたつきながら脱いだTシャツとジーンズを手渡す。

それでも、腕はまだ何かを求めてそこにある。


「パンツがまだだけど?」

「え、さすがにちょっとそれは……」

「今さら恥ずかしがることもないでしょ」


ぴしゃりと言われてしまい、俺はしぶしぶパンツまで渡す羽目になった。

俺の下着を得た腕はようやく満足したようで、ごゆっくりと言ってカーテンの隙間から消えた。



「コーヒーでいい?」

「インスタントだけど」


彼女は、呑気にお茶の用意なんかしている。

シャワーを浴びた裸に布1枚の、しかも肉食獣のオスがいるっていうのに、まるで警戒心がないみたいだ。


俺はそんなに、無害そうに見えるのか。

怖がられないのは心地よくもあったけど、同時に違和感を覚えるものだと分かった。


「びっくり、しました」

「え?」


黙っているのが息苦しく感じられて、とうとう俺は口を開いた。

キッチンでコーヒーの用意をしていた彼女は、こちらを振り返る。


「その、助けてもらってありがとうございました」

「だけど、えっと、やっぱりまだびっくりしてて」


「わたしが、人間だから?」

「それもあります」


「でも俺って、どっちかっていうと怖がられるタイプだし」

「ほら、デカいし」


「そうね」

「シャツもズボンも、大きかった」

「パンツもね」


顔を赤くした俺を見て、彼女はクスクスと笑った。

これは、完全に遊ばれている。


「だから、その」

「あなたみたいな人が物怖じせずに助けてくれるなんて、思ってもみなかったし」


「エレン」

「え?」


「あなたじゃなくて、わたしはエレンっていうの」

「きみは?」

「名前、まだ聞いてなかった」


異性の名前を知り、自分も名前を尋ねられる。

何が特別ってことでもないけど、もうずいぶんこんなことはなかった。


「ロブ、です」

「ウエストシティーカレッジに通ってます」


「大学生?」

「そう」

「ふぅーん」


最後の()が少し鼻にかかって、甘く響いて聞こえた。

不意に、心臓がぐるんと回転するような感覚に襲われる。

回転に次いで、どくどくと変に脈打つ。


エレンと名乗った彼女は、コーヒーを載せたトレイを手にソファへとやって来た。

トレイには、マグカップに入ったコーヒーが2つに小さな瓶詰の何か。

コーヒーの表面では、まだ湯気が渦を巻いている。


「お砂糖とか、ミルクはいる?」

「あ、いや、ブラックで」


「そうなんだ」

「オスって、みんなそうなのかしら」


オスはブラックコーヒーを飲みたがると、彼女はそう言いたかったのだろうか。

俺にはよく分からなかったけど、彼女はトレイに置いてある小瓶のふたを開けた。

そしてそこに入っていた黄金色の何か、とろっと粘度のあるそれをスプーンですくって自分のマグカップに入れる。


「きみを助けたのはね」


カップの中でスプーンをくるくると動かしながら、彼女は言った。

言葉を続ける前に、一口飲む。

少し尖ってカップの縁に触れた唇に、なぜか釘付けになってしまった。


「半分は単純な同情、もう半分は恩返しってとこかな」

「恩返し?」

「うん」


オオカミはイヌ科なので、そこそこ熱いものでも平気だ。

俺もカップに口を付け、彼女の話に耳を傾けた。


「わたしも、オオカミに助けてもらったことがあるの」

「もうずいぶん昔のことだけど」


「だから、俺のことも平気なんですね」

「そうそう」


「その相手にはもう恩返し出来ないから、あなたのことを助けたかったのかもしれない」

「今にして思えば、けっこう強引だったね」


眉をハの字にして、エレンは苦笑いをした。

その顔には、どこか寂しさみたいなものが見て取れる。


「ところで、大学生ってことは……20歳くらい?」

「えーと、今19歳です」

「1年生だけど、5月が誕生日だから」


「19かぁ」

「思ってたより、ずっと若いのね」

「わたしなんか、もう30」


へー、30歳なのか。

人間って、案外若く見える……っておい!!


「30ゥ!?」

「10も上っ!?」


驚きを隠せず声を上げた俺に、正確には11歳年上ねと、エレンは冷静に付け加える。


「男の子としては、やっぱり引いちゃう?」

「ずっと年上の女に、部屋に引っ張り込まれるっていうのは」


コーヒーを口に含みながら、エレンは軽く笑った。

何と言えばいいのか分からなくて、俺は下を向いて黙ってしまう。


その視線の先に、さっきの小瓶が映り込んだ。

今は、話題を替えるのが一番いい気がした。


「あの……それって何ですか?」

「え?」

「その、さっきコーヒーに入れてたのは」


「ああ、これ?」

「これ、蜂蜜よ」


紅茶に蜂蜜を入れて飲んだことはあったけど、コーヒーに蜂蜜は聞いたことがなかった。

幸い、俺のマグカップにはまだ半分ほどコーヒーが残っている。


「試してみてもいいですか?」

「どうぞ」


彼女は、俺のマグカップに蜂蜜を入れてくれた。

かき混ぜると、コーヒーからは独特の甘い香りが立ち昇った。

一口飲んでみると、それがなかなか悪くない。


「どう?」

「いや……美味しいです」


お世辞じゃなかった。

いつもはブラックで飲むけど、たまにはこんな飲み方もありかもしれない。


「雨、止んできたね」


彼女の声に窓の外を見ると、少し薄明りが差し始めているのが分かる。

これなら、傘がなくても大丈夫そうだ。

ブランケットでなく、服を着ていればの話だけど。


「いけない、あなたの服を取りにいかなくちゃ」

「ここね、昔は学生寮だったらしいの」


「その時の名残で、今も地下にランドリールームがあるんだけど……」

「薄暗くて、夜はちょっと怖いのよね」


ふふふっと笑うと、エレンは部屋を出た。

残された俺は、明るくなり始めた窓の外に視線を戻す。


カップの中身は、もうぬるくなってしまっている。

またひとつくしゃみをすると、俺は両手でカップを包んだ。

蜂蜜入りのほんのり甘いコーヒーは、彼女が帰って来る前に飲み干してしまった。



その日の夜、俺は部屋のベランダに出て外を見ていた。

住まいであるアパートには小さいベランダが付いていて、それが気に入ってここに決めた。

決して広くはないベランダには、折り畳める木製の椅子と、小さな鉢植えが幾つか置いてある。


手摺りに身を預けながら、俺は往来の獣たちを何とはなしに見つめていた。

そしてぼんやりと、昼間のことを思い出す。


エレンという、人間の女性。

赤い色をした、小さくて可愛らしい獣みたいだった。


可愛らしいという思いが頭に浮かんで、俺はなぜか急に恥ずかしくなってしまった。

どうしてそう感じたのかは、自分でも分からない。


もし叶うなら、もう一度彼女に会いたい。


部屋の中には、彼女が洗濯してくれた服が置いてある。

せっかく洗ってもらったから、明日また着ようと思っている。


いつかこのベランダで、彼女とコーヒーが飲めたら。


何だかそんな思いが、頭の中を巡る。

口の中には、まだほの甘いコーヒーの味が残っている気がした。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ