ハンナ
プレゼントに贈った、1冊の写真集。
それを見たエレンは突然涙をこぼし、ロブにある昔話をするが……。
カサカサと音をさせてエレンが包みから取り出したのが何か、もちろん俺は知っている。
1冊の写真集と、赤いキャップの小さなチューブだ。
「これ、ハンドクリーム?」
「うん……水仕事で手が荒れるかなと思って」
「匂いの好みは分からなかったから、無香料にしておきました……」
エレンが手にしたクリームのチューブを見ていると、こんなものを贈ってよかったのかと急に不安になった。
ハンドクリームなんて、何だか気持ち悪いと思われたかもしれない。
何にせよ、オスっぽいプレゼントのチョイスではなかった気がした。
俺は、ヒヒ爺さんの言葉を思い出す。
自分の中にいる、相手に聞け。
その言葉に従って、俺は心の中にエレンを思い描き、彼女の日常を想像した。
花屋で働く彼女は生き生きとしていたけど、寒い冬は水仕事が辛いんじゃないかと思った。
そこから、俺はハンドクリームもプレゼントしようと思い立ったんだ。
ヒヒ爺さんの言ったことは、きっとこういうことだったと思っている。
「これ、写真集?」
「これはその、何ていうか」
俺が彼女にプレゼントしたのは、奥深い森の四季をテーマにした写真集だった。
なぜこれを選んだのかは、上手く説明出来ない感じがする。
何となくというのが正解だけど、それじゃ、適当に選んだみたいに聞こえる。
パラパラとページをめくり出した彼女に、俺は弁解するように付け加えた。
「12月に、帰省の話をしただろ?」
「それで、きみの前のうちが山の奥だっていうのを思い出して……」
「懐かしく思ってくれるかなって思って、選んだんだけど」
彼女は、何も言わずにページを繰っている。
何だか、胸がじわじわと痛い。
俺が胃を痛ませているうちに、エレンの手はあるページでぴたりと止まった。
ほとんど聞き取れない呟きのような声が、その唇から漏れた。
「ハンナ……」
「え?」
本の上に覆いかぶさるようにして、エレンはそのページを見ている。
覗き見ると、雪深い山の中に、一軒の質素な小屋がある寂しげな風景だった。
ページに置かれた彼女の指の上に、ぽつんと落ちたものがある。
「エレン?」
俺の声に顔を上げた彼女は、目にいっぱいの涙を溜めていた。
目の縁に収まりきらなくなったそれが、頬を伝って落ちていく。
「ごご、ごめん、本当にごめん!」
「その、そんなに気に入らないとは思わなくて」
俺は焦った。
ものすごく焦った。
初めて出来た彼女と祝う初めての誕生日に、俺は何てことをしてしまったんだ。
フローリアンの言う通り、無難にアロマキャンドルなんかにした方がよかったんだ。
変な爺さんのやってる変な古本屋でプレゼントを見繕ったばかりに、俺はエレンを泣かせてしまった。
「え、ちょっと……どうかした?」
「え?」
彼女は箱からさっとティッシュを引き抜くと、何事もなかったかのようにそれで涙を拭いていた。
なぜ俺がこんなに泡を食っているのか分からない、といった顔すらしている。
「これ、すごくよかった」
「本当にありがとう……大切にするね」
「え……そうなの?」
じゃあ、何で泣いたんだ?
あのページにあったのは、泣くほどに美しい風景でもないと思ったけど。
「久しぶりに、昔のこと思い出しちゃった」
ティッシュを丸めて、エレンはゴミ箱に放り込んだ。
写真集は閉じられ、今は彼女の膝の上にある。
「今日はわたしの誕生日だけどね……」
「本当の誕生日は、いつなのか分からないの」
「どういうこと?」
質問にすぐには答えずに、エレンは立ち上がった。
何か飲まない? と言って、まだ中身の残ったシャンパンの瓶を持ち上げてみせた。
ソファサイドのテーブルには、普段使いのグラスに入ったシャンパンが2つ。
グラスの内側には、炭酸の泡がきらきらと張りついている。
「わたしね、物心ついた時には保健所にいたの」
保健所。
それは、獣が人間の保護を目的として設立した施設のことだ。
表向きはそうなってるけど、人間を保護する法律が出来るまでは、収容所まがいの悪質な施設も多かったと聞く。
それだけに、彼女のこの告白は衝撃だった。
「拾われたのかそこで生まれたのか、今ではもう分からない」
「本当のところ、自分の正確な年齢もね」
「本当はもっと若いかもしれないし、もっと年上かもしれないのよ」
しんみりとした雰囲気にはしたくなかったのか、エレンはわざと、いたずらっぽく笑ってみせた。
そんな彼女の気持ちを汲んで、俺も笑ってみせる。
「ある冬の日、わたしはそこを逃げ出したの」
「施設の裏手には山があって、そこは一面の雪だったわ」
「職員に捕まりたくなくて、雪の中を必死で逃げた」
「死にそうになりながらたどり着いたのが、あの写真にあったような山小屋なの」
「そこには、オオカミのおばあさんが1匹で住んでたわ」
テーブルからグラスを取り上げ、エレンは喉を湿らせた。
話は続く。
「小屋に忍び込んだわたしを、彼女は追い返したりしなかった」
「ハンナは、わたしを受け入れてくれたの」
「嬉しかった」
俺は、何と言えばいいのか分からなかった。
頭の中を上手く整理出来ないままに、彼女の話に耳を傾けている。
「それが、2月16日」
「わたしがハンナと出会った日が、わたしの誕生日になったってこと」
「もうずうっと昔の話よ」
そこまで言うと、エレンは口を閉じた。
疲れた様子で、ソファに沈み込む。
もうそれ以上、何も言う気はないみたいだった。
「そうか……」
俺もようやく口を開き、ソファの上でぐっと伸びをした。
体を動かし、その間に何を言おうかと考えていた。
「いきなりこんな昔話でびっくりしたでしょ?」
「いや……きみのことが知れてよかった」
それは本心だった。
いいことも悪いことも、俺はもっと知っておきたい。
言葉が途切れ、部屋に沈黙が下りてくる。
何となく目を合わせた俺たちは、どちらからともなく近付いてキスをした。
ゆっくりと、静かに。
一度離れて、もう一度。
思えば、俺が初めてのキスを経験したのもこのアパートでだった。
あの時は参ってただけに、キスひとつにも慌ててしまった。
今は、そんなことはない。
「さ、そろそろ帰らなくちゃ」
「終電がなくなるわ」
俺の頬をさっと撫でると、エレンはソファから立ち上がる。
いつもの調子で俺の世話を焼き、帰りの電車に間に合うように帰らされた。
キスの後を、期待してなかったわけじゃない。
別の次元では、俺は彼女とベッドルームに行ったかもしれない。
この世界の俺は、寒い駅のホームで電車を待っている。
それでも不思議と、満たされない気持ちにはならなかった。
獣もまばらな夜更けのホームで白い息を吐いて、俺は頬を緩ませていた。