雨の中、赤いフード
ぶつかってしまった相手に絡まれ、汚れてしまったロブ。
雨が降り出す中でそんな彼に声を掛けたのは、赤いフードを被った小さな【誰か】だった。
「あ?」
振り返ったのはガラの悪そうな、チーターだった。
しなやかな筋肉質の体を強調したいのか、モスグリーンのタンクトップに下はぴっちりとした革のパンツ姿。
格好といい物腰といい、あまり関わりたくないタイプには違いない。
「す、すみません……」
「てめぇ、デカいからっていい気になってんじゃねえぞ」
鼻先を押さえて謝った俺に、彼は凄んでみせる。
半分は虚勢を張ってるんだろうと、声の調子から何となく分かる。
俺と向き合う獣の、典型的な反応のひとつだ。
「すみません」
「てかよ、それしか言えねえの?」
どうも俺は、同じ肉食獣をイラつかせるのが得意みたいだった。
本当のところはどうか分からないけど、彼は突然俺を突き飛ばした。
自分でも何でかと思ったけど、俺はそのまま体勢を崩して転がってしまった。
土手の右手、よりにもにもよって、ドロッとしていてよく分からない油の浮いたドブ川の中へだ。
「はっ、ドン臭ぇ奴」
オオカミの俺が無様なことになったのに気持ちをよくしたのか、チーターはさっさと行ってしまった。
それを見ても、俺は何も感じない。
ドブ川に落とされた屈辱感もなければ、チンピラに絡まれたという恐怖心もない。
負の感情は、よくないことを引き起こす。
むやみに心をざわつかせることなんてない。
そうすれば、誰も傷つけずに済むんだから……。
なおもドブ川に座り込んだままの俺の鼻先で、小さな雨粒が弾けた。
朝見た天気予報は、外れたみたいだった。
「ねえ、きみ」
まだ降り始めの雨音の中で、誰かが俺に話しかけた。
声は、俺の斜め後ろからやって来た。
「オオカミくん、きみだってば」
すぐ振り返らなかった俺に、声の主はもう一度コンタクトを試みてきた。
ようやく振り返ると、そこにあったのは、小柄な赤いシルエット。
雨避けの赤いヤッケを着て、俺に手を差し出している。
大きなフードを目深に被っているので、その顔は分からない。
「ずっと見てたよ」
「ひどい目に遭ったね」
彼女、声からしてどうもメスらしいその相手は、なおも小さな手を差し出している。
どうやら、俺がその手を掴んで立ち上がるのを待っているらしい。
「あ、どうも」
ぶっきらぼうに聞こえないように注意しながら、その手を取った。
ガタイのいいオオカミという性質上、俺は誤解を招きやすい。
力の入れようが分からなくてそっと握った手は、小さくて柔らかく、そして少し冷たい。
さながらそれは、頼りない生き物のようだった。
「ほんと、とことん汚れちゃったわね」
「ええ、まあ……」
彼女の手を借りてドブ川から立ち上がった俺は、そう指摘されてさすがに情けなくなった。
汚水をぼたぼたと滴らせながら、臭いに顔をしかめる。
「ねえ、よければうちに来ない?」
「わたしのアパート、ここからすぐなの」
は?
訳が分からなかった。
チーターに絡まれてドブに落とされた俺は、今度はなぜか見知らぬメスに誘われている。
これまでの19年間で一度もないシチュエーションに、俺は混乱した。
「雨も強くなってきたし、そうしなよ」
「服、洗濯してあげる」
「え、いや、そんな」
「遠慮なんてしなくていいから」
「そんな格好じゃ、バスにも乗れないでしょ?」
俺の返事を待たずに、フードの彼女はさっさと歩き出す。
彼女の中では、俺をきれいにするという予定が既に組まれてしまったみたいだった。
それでも俺は、付いて行くべきかものすごく悩んだ。
どうしようかとグズグズしている俺を、数メートル先に進んでいた彼女が振り返る。
それを合図のようにして、俺は雨の中をゆっくりと歩き出した。
その3階建てのアパートは、彼女の言う通り、俺が災難に遭った現場から程近かった。
俺の住んでいる所より、ずっと古くて小さい。
階段で2階まで上がると、一番端が彼女の部屋らしかった。
細かい傷のある古びたドアの真ん中に小さく、201と番号が振ってある。
「えっと、鍵……」
ドアの前で、彼女は提げていたバッグの中を探り出す。
指先が探し物を見つけられないのか、バッグの中身はごそごそとかき回される。
「あれ、おかしいな」
彼女は、無造作にフードを外した。
外そうと思ってそうしたというより、単に狭まった視界を広げようと思っただけみたいな動作だった。
彼女の背中に回ったフードからは、ぽたぽたと雫が滴っている。
鞄の中を覗き込む顔に、黒い髪が被さった。
結ばれていない髪は、胸の辺りまである。
俺の毛色よりもずっと黒いそれは、毛皮ではなく髪の毛だった。
まさか、フードの中からこんなものが現れるとは、俺は全く予想していなかった。
俺が息を飲んだ気配に、彼女は気付いたに違いない。
反射的に俺に向けられたその顔、それは獣のものじゃない。
彼女は、人間だった。
黒く長い髪が、すべすべとした肌の白さを際立たせている。
唇はほんのりと赤く、ぽってりとしてそこにある。
何も言えないでいる俺を、彼女の深く青い瞳がじっと見つめ返す。
目を細めて微笑むと、長い睫毛で瞳はほとんど見えなくなってしまった。
ようやく、彼女はバッグから鍵を掴み出した。
「いいのよ、そういうの慣れてるから」
「人間を見る機会なんて、そうそうないものね」
小さな花のキーホルダーが付いた鍵で開けられたドアの前で、彼女は俺を振り返る。
雨が降っているせいで、部屋の中は薄暗い。
「怖くなっちゃった?」
「きみみたいな大きなオオカミは、そんなことないよね?」
彼女は、小柄な人間だった。
俺が片手で弾いたとしても、どうにかなってしまいそうなほどに弱々しくも見える。
それでも正直なところ、俺は今すぐ帰りたかった。
人間に嫌悪感はないけど、彼女と関わることで昔の記憶が呼び起こされるのは嫌だった。
俺が自分自身を嫌いになったあの事件は、出来れば思い出したくない。
彼女は俺の決断を待っている。
俺はしばらく、何も言わずに突っ立っていた。
彼女もまた、開いたドアを前に立っている。
「さあ、どうぞ」
「濡れた服をどうにかしないと、風邪引いちゃうわ」
その声は、柔らかく温かだった。
俺はくしゃみをひとつすると、大人しく彼女に従った。