バスルームでの告白
レストランでの騒動後、エレンはロブを部屋に招く。
過去を思い出しうな垂れる彼に、エレンは……。
店での一件に責任を感じたのか、エレンは俺をそのまま帰さなかった。
お茶でも飲もうと、部屋に誘ってくれたのだった。
食事の後に部屋に上がれるなんて、本来ならきっと嬉しかったと思う。
ただ、今の俺にそんな精神的余裕はない。
バスルームで念入りに手を洗う間にも、留め金の外れた記憶の箱からは、あの日の出来事がどんどん溢れ出してくる。
俺がそれを見たいかどうかなど、お構いなしに。
「ロブ、大丈夫?」
水を止めた洗面台に両腕を突いてじっとしている俺に、エレンが心配そうに声を掛けてきた。
汚れた服は、既に着替えたみたいだ。
「気分でも悪いの? 顔色がよくないわ」
「そうかな……」
取り繕って笑ってみたけど、笑顔が引きつって、全然上手くいかなかった。
元気な振りをするのを諦めた俺は、バスタブの縁に腰掛けてうな垂れた。
その隣に、彼女は何も言わずに腰を下ろす。
俺は、自分の右手を見た。
イノシシとやり合った時の血は、きれいさっぱり洗い流されているはずだった。
そこには何もないはずなのに、どす黒い染みが付いているような気がして気持ちが悪かった。
「ごめん」
「お礼のつもりだったのに、また面倒事に巻き込んじゃったわね」
「何だかなぁ……最近、こんなのばっかり」
エレンは、自嘲気味にそう言った。
足をぶらぶらと動かして、それを何とはなしに見ている。
「思い出したんだ、名前」
「え?」
「昔、俺が怪我をさせた友達の名前」
「トムっていうやつで、人間の男の子だった」
突然昔話を始めた俺を、彼女はどう思ったか知れない。
それでも何も言わずに、俺の話に耳を傾けてくれている。
「彼とは、上手くやってたはずだった」
「獣の友達と分け隔てなく、付き合ってたつもりだった」
「それがある日、事件があって」
「トムは俺にナイフを向けたんだ」
「それがすごく怖くて、俺は自分をかばった」
「そのことで、彼に怪我をさせてしまった」
「爪に付いた血を、今でもよく覚えてる……」
俺は両手を合わせ、ぎゅっと握り締めた。
多分ダメだ、きっと俺は泣いてしまう。
「さっき、あの店で……きみがトラブルに巻き込まれて……」
「俺、自分でも驚くくらいに……腹が立ったんだ」
「あの野郎を、ぶっ殺してやりたいって……本気でそう思ってた」
喉の奥が詰まって、言葉が上手く出て来ない。
握り締めた拳が、ぶるぶると震え出す。
「でも、俺も同じなんだ」
「俺だって、人間を傷つけたことがある」
「心だけじゃなく、体も」
目に栓が出来ればよかったのに。
両目から、じわっと熱いものが溢れ出してくる。
「俺も、あ、あのイノシシと同じなんだ」
「なのに、怒ってあいつを殴ろうとした」
「自分のことなんか、す、すっかり、忘れて」
エレンの手が、すっと背中に伸びてくるのを感じた。
彼女は何も言わず、震える俺の背中をゆっくりと撫でてくれた。
わずかに残ったプライドが、嗚咽だけは漏らすなと牙を噛み締めさせる。
俺は吐く時のように体を折り曲げて、握った両手に額を乗せて泣いていた。
うくっ、うくっと、体を震わせながら。
「……わたしは、あなたが怒ってくれてよかったと思ってる」
「感謝してる」
顔を伏せているので、エレンがどんな顔をして話しているのかは分からない。
彼女の声は、静かで穏やかだった。
俺の背中をなおも撫でながら、エレンは続ける。
「あなたとトムの間に、何があったのかは分からないわ」
「でも、それが今でも重くのしかかってあなたを苦しめるなら」
背中にあった手は離れ、正面に立ち上がった彼女の両手が、俺の顔をそっと包む。
エレンはそのまま俺に顔を上げさせると、涙でぐしゃぐしゃになった目の周りを、そっと拭ってくれた。
「その気持ちは、わたしが半分引き受けるから……」
言い終わったのと、どちらが早かっただろう。
エレンの顔が近付いてきたと思った時には、彼女と俺の唇は重なっていた。
それは俺にとって、初めて経験するキスだった。
さすがにびっくりして顔を離した俺を、エレンはじっと見つめた。
吸い込まれそうに青い、深海を思わせる色。
バスルームの明かりの下で、エレンの瞳は怪しく光る宝石のように見えた。
その目に釘付けになっていた俺に、また彼女が覆い被さる。
「ん、ぐ」
キスっていうのは、もっと唇を温かく感じるものだと思ってた。
実際には、彼女の唇は少し冷たかった。
つるつるとした唇の感触と柔らかさに、限界近くまで張り詰めていたものがほどけていく。
やがて俺に重ねたままの彼女の唇はゆっくりと開き、いつもは行儀よく収まっている舌が現れる。
力が抜けて開きかけた牙の間から、そろそろと俺の中に侵入してきた。
それは唇と比べ物にならないほどに熱く、自分のよりもぽってりとしていた。
彼女の舌は独立した生き物のように俺の口の中をゆっくりと散策し、殴られた時に出来た傷を見つける。
まるで労るかのように、その傷口を優しく撫でる。
背筋を、何かがぞくぞくと通り抜けるのを覚えた。
このまま続けたら、脳がショートしてどうにかなってしまうかもしれない。
そんな思いが、冷静に頭をよぎる。
しかしその前に、俺は息をするのも忘れてしまっていたらしい。
「ぷはっ!」
あまりの間抜けっぷりにまた泣きたくなったけど、俺は顔を背けて息継ぎをした。
それと同時に唇は自由になったけど、今度は俺の舌が、名残惜しそうに唇をひと舐めする。
頭に血が上って、心臓は死に物狂いに鼓動を鳴らす。
真っ赤になった俺は、そろーっとエレンを見た。
俺の脚の間で、彼女は目を細めて笑っていた。
しかしそれは、店で見せたあの困ったような笑顔だった。
「お茶を淹れるわね」
依然ぼーっとしてバスタブに腰掛けたままの俺を残し、エレンはキッチンへと消えた。




