騒動
部屋に送ってもらったお礼にと、エレンから食事に誘われたロブ。
一緒に楽しい時間を過ごすも、エレンが店内でトラブルに巻き込まれて……。
エレンと待ち合わせたのは、俺が行ったことのない店だった。
彼女のアパートから歩いて数分程度の所に、クロヒョウがやってるその店、【ブラッツ・キッチン】はあった。
「ロブ、こっち!」
店内を窺った俺を見つけ、先に席に着いていたエレンが手を振った。
少しの緊張から俺はリュックのベルトを握り締め、それに応じて席に向かう。
向かいに座るエレンは、いつもと全く同じに見えた。
彼女が体調を崩した日以来ギクシャクしてた気がしたけど、それは間違いだったのか?
熱に浮かされたエレンが口にした些細な言葉を、気にし過ぎていたのかもしれない。
オーダーを取りに来た店員に、俺たちは飲み物を注文した。
エレンが親し気に話していたのを見ると、よく来る店なのかもしれない。
「いい店だね」
「そうなの」
「ここは、わたしでも差別しないから」
彼女は視線を伏せて、テーブルに立ててあるメニューをいじっていた。
やがて、意を決したように俺の目を見る。
「この前は、ありがとう」
「うちまで連れて帰ってくれて、本当に助かったの」
「いや……」
「それで……ごめんね」
「え?」
「わたし、酷いこと言ったと思う」
「その、獣に体を見られたくないっていうの」
「きみの前であんなことを言ったのは、よくなかったわ」
「それがずっと気になってて……」
「謝りたいって思ってたの」
彼女は歯切れ悪そうに言ったけど、心からそう思っている様子だった。
それを聞いていると、ふと、張り詰めていたものが緩んだ感じがした。
「気にしなくていいよ」
「その、きみと獣の間には、今までいろいろあったのかなって思ったけど……」
「俺は何とも思ってないよ」
最後のは嘘だ。
めちゃくちゃ悩んだけどね。
しかし、俺の話を聞いたエレンは、ほっとしたような表情を見せた。
よかったと言って、少し困ったように笑った。
それで、俺たちは元通りになった。
少なくとも俺は、そう感じている。
「うー、ちょっと食べ過ぎちゃったかも」
最後の一口を頬張ったエレンは、しかし満足そうでもあった。
ここの料理は、本当に美味しかった。
イタリアンをベースにした創作料理といった感じで、どれを食べてもハズレがなかった。
「ロブ、デザート食べる?」
「いや、俺もう無理……」
「わたしもそうなんだけど、ここのティラミスって驚異的に美味しいのよね」
彼女が悩んでいる間に、俺はトイレに行こうと席を立った。
そして帰って来ると、雰囲気が一変していた。
俺たちのテーブルで、何か揉め事が起きているみたいだった。
「お前みたいな人間がいちゃ、旨い酒が飲めねえっつうんだよ」
酔ってやや呂律の回らなくなった様子のイノシシが、エレンを相手に凄んでいる。
彼女に怯えた様子はなく、ただ黙って相手を見つめている。
何か浴びせられたのか、服には染みが広がっていた。
連れらしいメスのイノシシが彼をなだめようとしていたけど、その効果はあまりなかった。
大柄でどっしりとしたイノシシは、どろんとした目をなおもエレンに向けている。
よくないことが、起こりそうな気がした。
「どうかした?」
「ううん、何でもない」
「おい、何でもないってことはないだろうがよ」
彼女の言葉が気に食わなかったようで、彼は一歩前にずいっと踏み出した。
その間に入るように、俺は立ちふさがる。
「一体何なんです?」
「あ? てめえ、こいつの連れか?」
「人間のメスを相手に選ぶなんて、お前もなかなかいい趣味してんじゃねえか」
気分の悪くなる言い方だ。
残念だけど、こういう輩は少なからずいる。
法律の存在などもろともせず、公然と人間を蔑む者たち。
「いいの、もう行きましょ」
「すみません、お会計を」
会計を頼もうと、エレンは手を挙げた。
こういう獣とはさっさと別れてしまうに限ることを、彼女はよく知っているのだろう。
しかしその手を、イノシシが掴んだ。
「この手で」
彼は、下卑た笑みを浮かべていた。
「その口で、その体で」
「こいつのこと楽しませてやってるのか?」
「なあ、そうなんだろ」
「お前ら人間のメスってやつは、そうやって生きていくんだもんなぁ」
体の毛が、ざわっと逆立つ。
エレンの手を掴んでいる剛毛に覆われた手を、今度は俺が掴む。
「今の言葉、撤回しろ」
「彼女に謝るんだ」
抑えきれない怒りが、後から後から湧いてくる。
こんなにも怒りを感じるのは、きっと初めてだ。
「小僧が何いきがってんだ、なあおい」
大柄なせいか、イノシシはオオカミの俺を怖がる様子はない。
エレンを突き飛ばすようにしてその手を離すと、彼は両手で俺の胸倉を掴む。
互いの出す殺気で、周囲の空気がピリピリと震えるみたいだ。
「彼女はそんな人じゃない」
「謝れ」
俺は譲らなかった。
イノシシのこめかみに、青筋が立っているのが見える。
「ロブ、いいの」
「わたしはいいから、帰ろ……」
エレンが言い終わらないうちに、俺は派手に椅子を跳ね飛ばしながら壁に叩き付けられた。
殴られたと分かるには、ほんの少し時間が必要だった。
俺は、誰かに殴られたことは今までになかった。
客の中から、細い悲鳴が上がる。
俺を殴ったイノシシの連れは、やれやれと諦めた顔をしている。
口の中に血の味が広がった。
でも、不思議と痛みは感じない。
「ざまぁねえな、ボクちゃん」
「家に帰って、そのペットにベッドで慰めてもらいな」
怒りは、沸点に達した。
こいつ、殺してやろうか……。
立ち上がると同時に、爪を剥き出す。
喧嘩なんかしたことないのに、体は上手いこと出来ているものだ。
「……こらガキ、死にてぇのか?」
気付いたときには、俺もやつに一発食らわせた後だった。
頬に出来た三筋の爪痕からは、血が滲み出している。
大イノシシの目が据わった。
まさに一触即発というその時、拳でカウンターを叩く大きな音が店内に響いた。
野次馬がびくっと体を震わせて見た先には、ここの店主であるクロヒョウがいた。
拳をカウンターに突いたまま、やがて低く押し殺したような声で言う。
「ここは俺の店だ」
「面倒は勘弁してくれ」
店主の体は、全身がしなやかな筋肉で包まれていた。
シャツに覆われた胸も、分厚い。
「ジム、おまえが先に仕掛けたのは知っている」
「人間が気に食わないのは分かるが、揉め事を起こしたいなら他所でやれ」
「うちの店にいる限りは、どんなやつだって客だ」
「上も下もねえ」
金色に光る目に見据えられて、イノシシはビクッと体を震わせる。
俺に向けていた眼差しは、あっという間に憐れみを請うようなものに変わった。
「わ、分かってるさ、ブラット」
「あんたの店で、面倒ごとを起こすつもりはないって」
すっかり委縮してしまったイノシシはそれでも俺に一瞥をくれると、メスを連れて出て行った。
ざわつきを残しながらも、店内は再び回り出す。
「ロブ、血が……」
エレンの声で、俺ははっと我に返る。
殴られた時に切った傷が意外に深かったのか、口の端から血が滲み出していた。
それに気付かないくらいに、俺は興奮していたらしかった。
ふと右手を見ると、爪の先に血が付いている。
俺のものじゃない。
それを見た時、あの10年前の夏の光景がフラッシュバックした。




