番外編②既婚者はつらいよ
番外編その②
子どもが生まれて以来、ロブはミカエルとずいぶん仲良くなっていた。
とあるランチの日、ロブはミカエルから意味深なことを言われて……。
「よ、隣いい?」
ランチの載ったトレイを手に、ミカエルが聞いた。
俺がうんうんと頷くと、彼は俺の向かいに腰を下ろす。
「っはー」
「疲れたぁ」
「昨日、現場だったって?」
「そうそう、もうジャンキーだらけでてんやわんやだったよ」
「娘くらいの年頃のヤツもいてさ……」
「学校とかで悪いオスに騙されんじゃないかって、毎日ヒヤヒヤしてるよ」
ミカエルはげんなりといった表情で、ランチのピラフセットを突いている。
年頃の娘を持つのは、さぞ神経を擦り減らすだろうと俺は思った。
同じ娘を持つ身の俺としては、決して他所事じゃない。
「そうそう、この前は嫁さんのサインありがとな」
「カミさんの機嫌も何とか取れたし、一安心だよ」
「そりゃあよかったね」
ミカエルの話を聞いていると、俺もいつか何かやらかして、エレンのご機嫌取りに奔走することになるのかと思う。
今のところ彼女がへそを曲げたことはないし、そういうのは全然想像出来なかった。
「……なあ」
「ん?」
「カミさんだ嫁さんだと言えば、最近どう?」
「どういう意味? 最近どうってのは」
「だからさ、アレだよ」
「子どもが出来ても、オスメスしてるってこと」
「ああ……そういう」
ミカエルはユーモアがあるけど、どちらかと言えば真面目なタイプだ。
そんな彼からこんな話題を振られるとは思わず、俺は少し面食らった。
「そうだなあ……」
「ま、子どもができる前ほどってわけにはいかないよな」
「俺もいつまでも若者じゃないし」
「何言ってんだよ」
「ロブなんかまだ30代半ばだろ」
「まだまだじゃん」
「オレはさぁ、今年もう45なわけだよ」
「へー、エレンと同じだ」
「え、嫁さんって10歳も上なの!?」
「言ってなかったっけ? 正確には11歳年上なんだ」
「まあそんなことよりさ、この年になると、どうしても衰えみたいなのを感じちゃうんだよな」
「俺もおまえくらいの時は、子どもいたけどもっとガツガツしてたし」
「そうなの?」
「そうだよ」
ミカエルは、皿に残った米粒を丁寧に集めて食べた。
スプーンを置いて、水をゴクゴクと飲み干す。
「いつまでも若いわけじゃないってのは実際そうでさ」
「ロブも、嫁さんのこと大事にしてやれよ」
「うん? うん……」
ミカエルは、よっこいせと立ち上がる。
トレイの返却口に向かおうとしたらしいが、ふと足を止めて声のトーンを落とす。
「オスは40過ぎると性欲がガクーッと下がるって言うけど、メスはそっから盛り上がってくるらしいぞ」
「え?」
意味深な言葉を残して、ミカエルは去って行った。
後には、その言葉を自分の中で反芻する俺が残されたのだった。
その日の夜。
俺はキッチンでエレンと並び、食事の後片付けをしていた。
子どもたちはもうシャワーを浴び、今はソファに座ってTVを見ている。
あれから少し調べたところによると、メスの性欲は30代後半から、オスの性欲減退に反比例して上昇する傾向にあるらしかった。
それは、最後の子どもを産むチャンスをモノにしたいという、メスのごくごく生物的な反応だとも書いてあった。
真偽の程は定かじゃないけど、つまりは、そういうことらしかった。
子どもたちにシャワーを浴びさせたエレンは、またすっかり長くなった髪を上の方で結い上げている。
その横顔、耳、うなじのあたりに、ついつい視線を送ってしまう。
「どうかした?」
「え、いや、別に」
何かを期待するような視線を気取られた気がして、俺は慌ててそっぽを向いた。
慌てる必要なんか、どこにもなかったけど。
それから俺たちは、ロイとエレナを寝室まで送って行く。
彼らは既に、2匹一緒の部屋でベッドを並べて寝ているのだ。
親バカを承知で言うなら、5歳なのに偉いもんだ。
そして、リビングには俺とエレンだけになった。
俺は、それとなく聞いてみる。
「もう寝る?」
「ええと、どうしようかしら」
「まだ何かするなら、俺、シャワー浴びてくるよ」
「うん、じゃあ寝ないで待ってる」
俺はそう言われ、いそいそとバスルームに駆け込んだ。
今の会話に、何があるってわけでもない。
ただ、エレンが寝ずに俺を待っていてくれることは嬉しかった。
子どもが生まれたことで、俺たちの過ごす時間にはズレが生じ始めた。
俺の仕事が不規則なのもその一因なんだけど、一緒にいる時間をなかなか取れなくなった。
彼女は子育てと仕事で疲れ、俺が日勤で早く帰って来ても、先に寝室で眠ってしまうことも多くなっていたのだ。
俺の今考えていることが、ミカエルの言う嫁を大事にすることに繋がるかは分からない。
ただ俺は、すっかりそういう気分になってしまっている。
シャワーを終えてリビングに戻ると、エレンはソファにしな垂れるようにして雑誌を読んでいた。
たったそれだけの姿に、俺はなぜか興奮してしまっている。
俺はその横に座ると、何も言わずに彼女を抱き締める。
なあにと笑って、エレンが応じてくれる。
「まだ少し濡れてるわよ」
「ドライヤー、してあげようか?」
「いや、いい……」
俺は彼女の胸元に鼻先を突っ込み、何とも形容しがたい、しかしこの上なく好ましく感じられる匂いを吸い込んだ。
そしてそのまま彼女に、徐々に体重を預ける。
エレンはゆっくりと、俺に押し倒される格好になった。
「ねえ、いい?」
「いいって……それは、構わないけど」
彼女が受け入れてくれてよかったはずなのに、俺はどうも、その言い方が引っかかってしまう。
むくっと体を起こすと、ラグの上に横たわる彼女を見つめる。
「構わないっていうのは……」
「きみは別にしたくないけど、俺がしたいならするよってこと?」
「何、それ?」
「だって……それじゃあ、俺ばっかガツガツしてるみたいじゃないか」
「俺は、その」
「きみもそうしたいと思ってくれないなら……その」
おいおい、何言ってんだ。
ここまで来て、余計なこと言うんじゃねーよ。
エレンの気が変わって、じゃあ今日は止めましょうになったらどうすんだよ!
俺の中で、俺以外の全俺が俺に抗議をしている。
せっかくのチャンスを、ガキっぽい思考で不意にするなと言いたいらしい。
「そうね……」
「あ」
ほれ見ろ言わんこっちゃない!
どうしてくれんだ、こっちゃ1か月振りに出番があると思ったんだぞ!
今度のは、どこか下半身の方から聞こえてくる気がする。
ああそうだ、もう1か月もしてない。
「言い方が悪かったわね」
「わたしも、あなたとしたいからいい?」
これぞ、年上の余裕!
エレンにそのつもりはないんだろうけど、どうしてもそういう雰囲気が滲み出てしまう。
でもまあ、もういっか。
「じゃあ、お言葉に甘えて……」
俺は全俺を黙らせ、年上妻の体に屈みこむ。
唇を合わせながら、パジャマの下に手を滑り込ませる。
「ねえ、ここでするの?」
「んー、ダメ?」
「嫌じゃないけど……いつかみたいにテーブルで頭打たないでね?」
「……」
俺が彼女と初めて寝たのは、ソファの上だった。
せっかくいいムードだったにも関わらず、俺はうっかりソファから転がり落ち、テーブルで頭をぶつけてしまったのだ。
こともあろうに、2回も。
俺は無言で、ソファ前のテーブルを押しやった。
そうして十分なスペースを確保した上で、彼女と1か月ぶりの逢瀬を再開することにした。
今回は床の上だから転がり落ちることはないだろうけど、念には念を入れて。
互いの体を弄り合い、雰囲気も体も、十分に準備が整った。
俺はそこではたと、忘れ物に気付く。
「……どうかした?」
「アレ、忘れた」
「バスルームの棚の中だっけ?」
立ち上がりかけた俺の首に手を回し、彼女が俺を引き寄せる。
「今日は、このままでもいいけど」
「え」
「ロイもエレナも、もう1匹2匹兄弟がいるのも悪くないかもって思ってるの」
「本当に?」
俺は、この家に再び赤ん坊がやって来る様を想像した。
家族が増えるのは、確かに悪くはない気がした。
他にやるべきこともなくなり、さあいよいよという段階に入る。
彼女と俺が、ひとつになる瞬間……。
「ママぁ、のどかわいたよー」
ソファの背後から聞こえる声に、俺たちは固まった。
奥の部屋から、エレナが起き出して来たのだ。
さあそっから、どうなったか。
俺は特犯の突入前にように素早く衣服を身に着け、ソファの向こうから顔を出した。
「あれ、パパなの?」
「ママは?」
「ママは……ママはトイレ」
「えー、トイレ、でんきついてなかったよ?」
「あーー、何飲む?」
牛乳か水かとお茶を濁し、俺は娘の喉を潤わせることに専念した。
そうして喉の渇きを癒した彼女が、再び自室に入っていくのを確認したのだった。
我ながら、上手くやれたと思う。
こういう邪魔が入るのも、子持ち夫婦あるあるだよな。
ちょっとおかしくなりながら、俺はリビングに戻る。
ソファの向こうには、俺を今か今かと待ち構える彼女がいて……。
「う、そ」
彼女は、妻は、エレンは確かにそこにいた。
彼女はしっとりと汗をかいた裸体を晒したまま、クウクウと寝息を立てていた。
俺は崩れるように床に膝を突き、その反動でテーブルで頭をぶった。
*
数日後、俺とミカエルは、また食堂で顔を合わせた。
「……ってことがあってさあ」
「あーー、あるある!」
「そういうのって、子持ち夫婦あるあるだよなあ……」
俺の話に、彼は大きく頷く。
俺たちはそうやって、また一つ、絆を深めたのだった。
こちらの番外編を以て、「いつかベランダできみと」は正式に終了といたします。
今回も拙く反省点の多い物語でしたが、無事に終了できたことは嬉しく思っています。
今まで読んでくださった方々、ブクマをしていただいた方には感謝しております。
またいつかお会いできるのを、楽しみにしています。
その折はまた、よろしくお願いいたします。