いつかベランダできみと
今日は、ロイとエレナの誕生日。
仕事を終えたロブは、エレンに代わって彼らを保育園へと迎えに行き……。
「何、どうしたの?」
大きな溜息を吐きながらロッカールームに入って来た俺を見て、ミカエルがおかしそうな顔をして尋ねた。
彼は午後のトレーニングに向け、着替えをしていたところだった。
「いや、シローさんがさ……」
「あっ、あれだろ?」
「シローのヤツが、新入りにおまえの号泣……」
「あー、もう、やめてやめて」
クククッとミカエルが笑う横で、俺はまた、溜息をひとつ吐いた。
着替えようとロッカーを開けると、扉の裏で子どもたちが笑っている。
今日5歳になる、ロイとエレナだ。
「いいよなあ、これっくらいの時は可愛くてさあ」
「ミカエルのとこは、もう高校生だっけ?」
「そうそう、うちなんか2匹とも娘だからさ、もうパパが何とかかんとかで、ちょっと肩見狭いんだよ」
写真を覗き込んだミカエルは肩をすくめると、べえっと舌を出した。
父親としては、年頃の娘2匹はさぞかし扱いにくいだろう。
エレナもいつかそうなるのかなんて、まだまだ全然想像つかないけど。
「そうそう、あのさー」
「実はさ、お願いがあるんだよ……」
「何? 珍しいね」
俺がシャツを脱いでいると、ミカエルが何やら鞄から取り出した。
それは、園芸系の雑誌だった。
表紙は、花に囲まれて微笑むエレンだ。
「実はさー、カミさんにうっかり、【フェアリー・エレン】は同僚の嫁さんだって言っちゃってさ」
「どうやら、密かにファンだったらしくて、早く言ってよって怒られたんだわ」
「ご機嫌取りしたいから、サインもらってもらえる?」
いつものミカエルらしくなく、彼はおずおずとそう聞いた。
それがおかしくて、俺は笑いながら雑誌を受け取った。
「了解」
「助かったー」
「よろしくな、ロブ!」
ミカエルが拝むようなポーズでロッカールームを出て行くと、俺は1匹きりになった。
手にした雑誌には、【花に愛される妖精!フェアリー・エレン特集】などという文句が、大々的に書かれている。
40過ぎて妖精なんて言われるのが恥ずかしいと、エレンはまともに見られないらしい。
子どもを持ったことで、ミカエルとはかなり仲良くなった。
元々嫌なタイプの獣じゃなかったけど、子を持つ父親同士、互いに共感する部分も多いのだ。
「おっと」
「お迎えに遅れる……」
俺は腕時計に目をやると、慌ててロッカーを閉めた。
今日は、俺が子どもたちを迎えに行く日なのだった。
「パパぁ~~~」
「ロイ、エレナー、おかえり~~」
保育園には、何とか遅れずにたどり着くことが出来た。
子どもたちが、全力で飛びついてくるのが嬉しい。
特犯で日々ヘビーな案件を取り扱う俺も、一皮剥けばただの父親だ。
今日は仕事で不在のエレンに代わり、2匹の子どもを保育園に迎えに来た。
兄のロイと妹のエレナは、俺たちが結婚して5年目に授かった双子の兄妹だった。
人間であるエレンとの間に生まれた2匹だけど、その姿形はオオカミそのものだ。
オリジナルの俺より少し鼻面と尻尾が短いのを除けば、何も不自然なところはない。
エレンの要素は、彼らの体毛の色と目に受け継がれた。
彼らは2匹とも真っ黒で、瞳は母親譲りの美しい青色なのだ。
2匹を後部座席にあるチャイルドシートに乗せ、車を走らせる。
いつもはエレンが迎えに行くから、俺のお迎えは新鮮らしい。
2匹とも、興奮した様子で体をごそごそ動かしている。
「ねえねえ、このまま帰るの?」
「ううん、スーパーに寄るよ」
「今晩の材料を買わないと」
「ロイとエレナは、今日何を作るか覚えてる?」
「ぼく、ぼく!」
「ぼく知ってるよー」
「グラタンでしょ?」
「あたり」
「エレナ、グラタン好きー」
「それから、ケーキも買わないとな」
「今度ママも一緒にお祝いするから、今日は小さいのにしとこう」
「わーーい! ケーキ、ケーキ!」
2匹の様子をミラーで確認して、俺は幸せな気分になった。
信号待ちで止まった時、不意にあの日のことが甦ってきた。
きっと昼間、シローさんとあんな話をしたせいだな……。
*
「ハッ、ハアッ、ハアッ、ハアッ、ハアッ……」
汗だくの手の平から、ナイフがぬるりと滑り落ちた。
カランという音は、もう誰もいないショッピングセンターにやけに大きく響いた。
目の前の爆弾は沈黙し、タイマーに表示されていた00:01という表示も消えた。
俺が切った赤いラインが、爆弾をストップさせたのだった。
なぜ赤を選んだのかは、分からない。
ただ、爆発まであと1秒と迫った刹那に俺の目の前に現れたエレンは、真っ赤な雨避けのヤッケを着ていた。
俺と彼女が、初めて出会った時の格好だ。
俺はしばらく座り込んで呼吸を整えると、ようやくゆっくりと立ち上がった。
運ぶ者もいないのに動き続けるエスカレーターで、1階へと降りて行った。
エントランスから青い顔をして出て来た俺を一番に見つけてくれたのは、特犯の仲間だった。
みんなに抱き抱えられるようにして立つも、地に足が付いている感じがしない。
もしかしたら俺は、やっぱりあの爆弾で弾け飛んでしまったんじゃないかって気さえした。
「ロブ……!」
「あ……」
規制線の向こうから、エレンが駆け出して来る。
制止しようとした警官を、ドミニクが構うなとばかりに押し留めてくれた。
みんなの手を離れて足元のおぼつかない俺の胸の中に、エレンが飛び込んで来た。
半ば彼女に身を預けながらも、両腕に力を込めて抱き締める。
久々に、本当に久々に味わう、彼女自身の温もり。
どっくん。
どっくん、どっくん、どっくん。
心臓が、今やっと動き始めたかのような感覚がある。
この懐かしい鼓動は、彼女に恋していた頃によく味わったものだった。
ああ、俺、帰って来たんだ。
彼女の元へ。
エレンの元へ。
「エレ」
「エレン……」
「エレン、エレン……」
俺は何度も彼女の名前を呼び、そして思いきり泣いた。
周りに仲間や野次馬たちがいるのは分かっていても、溢れてくる涙を止めることなんか出来なかった。
「ロブ、お疲れさま」
「本当に頑張ったわね」
エレンの優しい声が、その細い腕と共に俺の背中を撫でる。
俺は子どもみたいに泣きじゃくって、彼女に何度も顔を擦りつけた。
「エレン」
「何?」
「お、俺と、け、結婚して、くれる?」
「ずっと、し、死ぬまで、きみと一緒にいたいんだ……」
20も半ばに差し掛かりつつあるオスが、あんな風にプロポーズすべきじゃなかった。
だから10年経った今でも、伝説めかして面白おかしく語られる羽目になるってもんだ。
俺は苦笑いすると、スーパーの駐車場に車を停めた。
後部座席を振り返ると、ほんの10分程度のドライブだったのに、2匹とも口をぽかっと開けて眠っていた。
あの号泣公開プロポーズに、エレンは何て答えてくれたんだっけ?
ああそうだ、彼女は何も言わなかったんだ。
彼女はただ、これ以上ないくらいに目を細めて、にっこりと笑ってくれた。
そのわずかに見える美しい青色の瞳に、涙を溢れさせて。
あの10年前が子どもたちのいる今この瞬間に繋がっていることを思い、俺は堪らなく嬉しい気持ちになった。
*
「パパぁ、ママのテレビ、はじまっちゃうよ」
「あ~、今行く!」
エレナに呼ばれ、俺は急いで食器を洗い終えた。
グラタンと小さなケーキで済ませた誕生日会の後、俺たちは3匹揃ってリビングのソファに集まる。
前方の壁に備え付けられたTVでは、別の町で行われているフラワーフェスティバルの模様が生中継されていた。
エレンはこのイベントにゲストとして出演し、フラワーアレンジメントを作ることになっていた。
俺と結婚してからも、エレンはフラワー・ベアンハルトで働き続けていた。
ある時、ベアンハルトさんに勧められたとあるイベントで彼女の作品が認められ、それから徐々に、その才能を開花させていったのだった。
かつて彼女の作品を盗用したマンドリルのフェアリー・シシーは、いつのまにかこの界隈から姿を消していた。
常習的に無名の作家から作品を盗んでいたらしく、そのことを週刊誌にすっぱ抜かれたからだったと思う。
いずれにせよ、今、花に愛された妖精として世間を賑わすのは、俺の妻にして子どもの母親であるエレンなのだ。
彼女がフラワーアレンジメントの世界に足を踏み入れた時は、批判めいた意見も少なからずあった。
そういうのは、完全になくなったわけではない。
しかし彼女の作品を評価する獣たちは多く、人間だとか獣だとか、そういう区別でどうこう言う輩はいなくなったように思う。
『……というわけで今回のフラワーフェスティバルなんですが、目玉は何と言っても、フェアリー・エレンのアレンジメントなんですよね』
『いよいよ、ご紹介しましょう! こちらです!』
レポーターが興奮気味に、エレンが作ったという大きなアレンジメントを紹介している。
色とりどりの花を使って作られたそれは、変にきらびやか過ぎることもなく、どこか温かな印象を持って佇んでいた。
まったく、彼女らしい作品だった。
『現場のビアンカさん、今日はそちらにエレンはいらっしゃるんでしょうか?』
『ええ、そうなんです』
『もうじきこのアレンジメントの前でですね、記者会見をすることになっていて……』
そう、この仕事があったせいで、エレンは今日帰って来られないのだった。
今日はロイとエレナの誕生日で、彼女は一緒に祝えないのを心から残念がっていた。
とはいえ、エレナが大きな現場で活躍することは、人間全体の評価を上げることにも役立つだろう。
俺はそう思ったし、彼女もまた、そういう気持ちがあったと思う。
『あっ、今ですね、急に入って来た情報なんですが……』
『エレンは体調不良とのことで、記者会見はキャンセルってことですね……』
「たいちょうふりょう、って何?」
「体がしんどくなるってことだけど……」
「ええー、ママ、おなかいたいの?」
子どもたちも、この突然のニュースに不安顔だ。
俺は俺で彼女から何の連絡ももらっておらず、不安が募った。
『また新しい情報なんですが、事前に撮影した映像があるとのことで……』
『では、そちらを流すということで』
しばらくして画面が切り替わり、どこかの室内で撮ったと思われるインタビュー映像が流れた。
画面中央では、自らの作品をバックに、エレンが椅子に腰掛けていた。
『ええと、今回の作品について一言いただけますか?』
『こちらの作品はですね……』
作品を手で示しながら話すエレンは、特に具合が悪いということもなさそうだった。
この後、急に体調が悪くなったのだろうか……。
「あー、やだ」
「このインタビューのわたし、何だか妙に老けて見えない?」
「え、そう? そんなことないけど」
「そんなことよりさ、体調不良ってどうした……」
「えっ、えええええええ~~!?」
「あ~~~~、ママだぁ~~~~!」
ソファの背後に、今画面の中で話しているのと同じ格好をしたエレンが立っていた。
手には、大きな花束を抱えている。
「どっ、ど」
「どしたの!? 具合が悪いんじゃなかったの?」
「てか、え、あれ、うん!?」
俺はTV画面と背後のエレン両方をあっちこっちと指差し、動揺していた。
そんな俺を、エレンは涼しい顔で見つめている。
「ああ……あれね」
「あんまり大きな声で言えないけど……嘘吐いて帰って来ちゃったの」
「えええ~、仮病!?」
「ハッピーバースデー、ロイ、エレナ!」
「パパのグラタンは美味しかった?」
おいしかったーとニコニコ顔の子どもたちを目にしても、俺はにわかには信じられなかった。
彼女がここにいて嬉しいのは確かなんだけど……。
「仮病って……大丈夫なの?」
「せっかく大きなイベントに参加出来たのに」
「これからって時なのに、こっち優先でいいわけ?」
「いいの、わたしは」
「イベントに呼ばれたくて、有名になりたくて仕事してるわけじゃないし……」
「何より、今のわたしがあるのは、ここにいるみんなのおかげだから」
事も無げにそう言い放つ妻を見て、俺はやっと、彼女を腕に抱くことが出来た。
引っ付く俺たちを真似して、子どもたちもまとわり付いてくるのだった。
そんな騒動の翌日、俺はベッドの中で1匹で目を覚ました。
時計は午前5時を少し回ったところ。
昨日隣に滑り込んできたエレンは、もしかしたら幻だったとか?
薄い上着を羽織ってリビングに顔を出すと、ベランダにエレンの後姿を見つける。
俺が窓を開けて出ると、その音に気付いて振り返る。
彼女は俺と同じタイプで色違いの上着を羽織り、湯気の立つマグカップを包むようにして手にしていた。
「おはよう、早いね」
「何だか、目が覚めちゃって……ロブもコーヒー飲む?」
「うん」
ベランダに出してある小さなテーブルにはコーヒーのポットが置いてあって、傍にあった別のカップに、彼女がコーヒーを注いでくれた。
「もちろん、これも?」
「うん」
彼女が見せたのは、蜂蜜の小瓶だった。
俺が応じると、エレンはそれをスプーンですくってコーヒーをかき混ぜる。
「この時期は、まだまだ寒いわねえ」
ベランダのへりにもたれるようにして、エレンは独り言のように呟いた。
もうじき明けようとする朝の空気の中で、彼女の横顔はいっそう美しく見えた。
最近目元に皺が増えたと本人は言うけど、俺には変わりなく魅力的な人だった。
俺の手を温める、蜂蜜入りのコーヒー。
湯気と共に立ち昇るそのかぐわしい香りに、ふと、甦る気持ちがあった。
「ふふっ」
「急に笑って、どうしたの?」
エレンは額にかかる髪の毛を撫でつけ、青い目に興味深そうな色を浮かべた。
「いや……昔のことを思い出してさ」
「きみと初めて会った日のこと、覚えてる?」
「ええ、よく覚えてるわよ」
「服を汚したあなたを、無理矢理部屋まで引っ張っていったの」
「まだ20歳にもならない、学生だったあなたをね」
「そうそう」
「それであの日、きみのうちから帰って思ったんだよ」
「何て?」
「あの時は、きみに感じていた気持ちが恋かどうかも分からなかった」
「それでも俺は……いつかきみと一緒に、ベランダでコーヒーが飲めたらって思ったんだ」
「そうする機会は何度もあったはずなのに、今、やっと叶ったよ」
「ずいぶん、長くかかっちゃったわねぇ……」
コーヒーの表面で踊る湯気をふうっと吹き散らし、俺はほの甘いコーヒーを口に含んだ。
その様子を見て、エレンはまた俺の隣で、青く美しい目を細めたのだった。
いつか、ベランダできみと。
これからも、ずっときみと。
振り返ると、今しがた起きたばかりの子どもたちが、俺たちの方に駆け出してくるところだった。
長らくお付き合いいただきまして、ありがとうございました。
「いつかベランダできみと」の本編は、とりあえずこちらで最後となります。
この後も、ほんの少しだけお付き合いくださいませ。