ラムちゃん
シローさんが彼女だと言って紹介した黒羊は、実は変装したエレンだった。
久々に彼女と会ったロブは、思わず弱音を吐いてしまうが……。
分からない、分からない、全然分からない。
エレンが羊で、彼女がシローさんと付き合ってて……。
もう一体、何がどうなってんだか分からない。
エレンに背後から抱きつかれたまま、俺は考えをまとめることが出来ずにフリーズしていた。
そんな俺の上着のポケットで、スマホが着信音を鳴らす。
背後から羊の黒い手が伸びてきてポケットを弄り、手にしたスマホを俺に渡す。
『あー、ロブ』
『悪いんだけどさ、ちょっと時間かかりそう』
『ビール買おうと思ってた店が、めちゃくちゃ混んでてさあ』
「シ、シローさん!」
「何が、これ、どうなって……」
『何って、オレの彼女のラムちゃんじゃん』
『どうなるもこうなるもないぜ』
『彼女、オオカミが怖くない羊だから、仲良くしてやってくれよ』
『まあー、抱きついたりとか? そんなことするくらいは許してやるよ』
『ラムちゃん、すごい魅力的だから、おまえがそうなってもオレは許すよ?』
『チューは……チューなあ……』
『うん、チューまではオッケー! もうね、大判振る舞い!』
『おまえとラムちゃんがチューしたくらいで、オレたちの愛情は揺るがないから!』
『ま、そういうことだからさ』
『オレが帰るまで、仲良くしててよ?』
電話はそこで切れた。
シローさんの性格や電話の物言いからして、どうやらこれは、彼が俺のために用意してくれたサプライズのようだった。
「……びっくりした?」
「びっくり……するよ、そりゃ」
背後から、エレンが笑いを含んだ声で聞いた。
俺は、羊の格好をしたエレンを見ることが出来ない。
カフェで見た幻影のように、振り返ったらいなくなってしまうような気がした。
「これね、仕事で使う変装用の毛皮なんだって」
「わたしたちをそのまま会わせるのは難しいから、シローさんの彼女を紹介するって形になったってわけなの」
「だからわたし、今は黒羊のラムだからね?」
「ロブに会えなくて、ずっと寂しかった」
「仕事なんだから、ずっとじゃないからって自分に言い聞かせてたけど、辛かったの」
「そんな時に彼から連絡をもらって、今回の件を提案されたのよ」
「獣に化けるなんて初めてだったし、すごくドキドキしちゃった」
「全然、人間ぽくないでしょ?」
「わたし、これなら……」
話の途中で、俺は羊のエレンを正面から抱き締めた。
彼女はふわふわの羊毛に覆われて、いつもと違う抱き心地だった。
それでも抱いた腕の間から立ち上ってくる匂いは、間違いなく彼女のものだった。
「ロブ、大丈夫?」
「大丈夫……じゃないかも」
「本当は、大丈夫って言いたいんだけど」
ああ、俺っていつもこうだ。
何で、ほんのちょっとカッコつけることも出来ないんだよ。
初めてキスをしたあのバスルームでも、俺は自分の心の弱さをさらけ出すことしか出来なかった。
今もあの時みたいに、ぎゅっと閉じた目の間から涙が滲んでくるのを止められない。
「俺、やっぱりきみがいないとダメだ」
「全然、ダメだ」
抱き締める腕に力を籠めると、その中でエレンは笑った。
もうずっと長いこと、忘れていたような優しい声だった。
「わたしだって同じよ」
「ただちょっと……わたしは年上だから」
「あなたよりは大人だから、頑張らなきゃって思うだけ」
冗談めかしてそういう風に言うのも、懐かしかった。
エレンと離れて2か月足らずなのに、俺はこんなにも彼女に飢えていたのか。
やっと体を離して顔を見ると、黒い毛の間で、優しく青い目が俺を見ていた。
本当は、周りの目をはばからずにここで押し倒し、めちゃくちゃに抱き倒したかった。
さすがにそうするほど、俺も分別の付かない獣じゃない。
唇に手を触れた俺に、エレンは意味ありげな視線を送って来た。
わたしはあなたの先輩の彼女だけど、そんなことしていいのって顔だった。
「先輩には内緒にしてよ?」
「やだ、何だかすごくドキドキしちゃう」
俺たちは笑い合って、唇を重ねた。
羊とオオカミのキスシーンに驚き、ヒソヒソと囁く声もした。
獣同士でも俺たちはやっぱり、訳ありのカップルなのだった。
*
「先日は、ありがとうございました」
休み明け、俺は真っ先にシローさんのデスクを尋ねた。
彼はわざとらしく、何のこと? なんて顔をしている。
「先輩の彼女、すっごくよかったです」
「よかったですって、何か意味深じゃないか?」
「おいおい、どんどん先まで行っちゃってないよねー?」
俺たちがじゃれ合って話していると、傍を通りかかったドミニクが割って入る。
「何だ何だ、楽しそうだな」
「いやね、聞いてくださいよ」
「ロブのやつがね、オレの彼女とイチャコラしやがって……」
「おーおー、そりゃ災難だったな、シロー」
「ラムちゃんは、イヌのおまえよりもオオカミにご執心なのか」
はははと豪快に笑って、ドミニクは書類が山積みになった自分のデスクに戻っていった。
俺は、シローさんと顔を見合わせる。
「ま、そういうことだから」
「元気出せよ、ロブ」
シローさんに肩を叩かれ、俺は悟った。
おそらくは、このシナリオを書き出したのはドミニクだろう。
俺とエレンの関係をよく知る彼なら、こういう形でも俺たちを会わせてやろうと思ったとしても不思議はなかった。
トムとの問題は、何も解決していない。
それでも俺は、過去にばかり囚われている自分を見直すべきだという気持ちになる。
俺は確かに、トムにひどいことをしてしまった。
それは消し去れない事実ではあるけど、自分ってものを、そこまで悪役にする必要はないんじゃないかとも思う。
俺は、誰からも思われる価値のない獣というわけじゃない。
過去の事実は事実として向き合い、それでも自分を腐らせてはダメだと思った。
俺は近いうちに、きっとあの夏の日をまた味わうことになるだろう。
それでも今は、もうそんなに怖くはない。
引き戻されても、きっと戻って来られる。
俺を大切だと思ってくれる誰かのいる、この世界へ。