シシーの展覧会
ビッグニュースがあるというエレンのメッセージに、ロブは意を決して彼女に電話を掛ける。
そこで聞かされたのは、有名なフラワーアレンジメントのデザイナーから、自分の個展に作品を出さないかと誘われたというものだった。
エレンの幸運に喜ぶロブだったが、幸運は彼の元にも訪れることになって……。
『偶然! わたしもちょうどメッセージを送ろうと思っていたところ』
『実はね、ビッグニュースがあるの!』
【ヒヒ・ブックス】でのバイト後、俺は部屋に帰って来てからエレンの返信に気が付いた。
壁の時計を見ると、18時をちょっと過ぎている。
フラワー・ベアンハルトは、もう閉店したはずだ。
電気も点けていない部屋で、俺はしばしメッセージを前に佇んでいた。
そしてとうとう心を決めて、エレンに電話を掛けた。
ビッグニュースがある。
メッセージにそうあったから、それを早く聞きたくて……。
そんな言い訳を、頭の中で転がしながら。
『もしもし? ロブ?』
初めて聞く、電話越しの彼女の声。
鼓動が早まるのを、抑えることが出来ない。
「うん、俺だけど」
「今、よかった?」
『大丈夫よ、仕事はもう終わったから』
『メッセージ見てくれた?』
「うん」
「何なの、ビッグニュースって」
変に震えた声にはなっていないようで、俺は安心した。
電話の向こうで、彼女が笑うのが聞こえる。
『実はね、今日お店にすごい獣が来たのよ』
『何とあの、フェアリー・シシー!』
「……フェアリー?」
誰だそれ。
エレンが珍しく興奮しているところ悪いけど、そんな獣は知らない。
俺は自分の脳内を探ってみたけど、フェアリーのフェの字も出て来なかった。
『知らない?』
「うん、ごめん」
『シシーはね、フラワーアレンジメントで世界的に有名なの』
『花に愛された妖精って意味で、フェアリー・シシーって呼ばれてるのよ』
『それでね、ニュースはここから』
『そのシシーが、ね、えっと、わたしの……』
話をしながら、エレンはゴホゴホと咳込んだ。
それほど興奮しているらしい。
いつも落ち着いている彼女には、珍しいことだった。
『ごめん、それで彼女、わたしのアレンジを個展に出したいって言ってくれたの』
『信じられない! シシーの個展によ?』
電話口の彼女は、今までになく弾むような口調だ。
そのシシーとやらがどれほどすごいのかは分からないけど、その様子からとてもいいニュースだったということは分かった。
気が付くと、話を聞く俺の頬も緩んでいた。
電話の後、俺はシシーという獣について調べてみた。
ネットの検索窓に【フェアリー】と入れただけで、【フェアリー・シシー】が予測のトップに現れた。
俺が知らないだけで、世間的にはかなり有名らしい。
検索結果をチェックすると、シシーは気品漂うメスのマンドリルであることが分かった。
エレンの言う通り、フラワーアレンジメントの分野で数々の偉業を成し遂げている獣らしい。
彼女の公式サイトでは、近々行われるという個展についても紹介されていた。
エレンの作品が出るというのは、おそらくこの展覧会だろう。
エレンとどこかへ出掛けるという計画は、彼女に訪れたまたとない幸運の影に隠れたように見えた。
彼女とプライベートな時間を過ごせないのは残念だったけど、エレンにとっては千載一遇のチャンスでもあるはずだ。
今のこの世界で人間が獣に認められるなんて、ほとんど奇跡的と言ってもいい。
「え?」
「だからね、その個展のチケットをもらったから、よければ一緒にどうかなって」
ある時、エンケンの用事で店に寄った俺に、エレンはチケット差し出した。
彼女のフラワーアレンジメントが出品されるという、シシーの個展のチケット。
エレンは、2枚あるうちの1枚を、俺にどうかと言う。
もちろん、もう1枚は彼女の分。
そう、よければ一緒にと、エレンはそう言ったはずだ。
「い、行く!」
「ありがとう」
形はどうあれ、彼女と出掛けるという夢は実現することになった。
上手くいけば、個展を見た後に食事をしたり出来るかもしれない。
夏休み真っただ中、幸運は、エレンにだけにじゃなく俺にも訪れたってことだ。
*
程なくして、シシーの個展が開かれる日がやって来た。
エレンの仕事が終わってから、俺たちは夜の部を見に行くことになっていた。
たかが花の展示会と侮っていたけど一応ドレスコードもあって、俺は入学式以来のスーツに袖を通す。
シンプルな紺色で、シャツは白、それに赤いネクタイを締めた。
4月の入学式と全く同じスタイルだけど、まあいい。
個展の会場は、とあるホテルのフロアだった。
その前で落ち合ったエレンも、いつもとはだいぶ様子が違っていた。
もちろん、いい意味でなんだけど。
慣れない格好にはにかんだように笑った彼女は、ミッドナイトブルーのワンピースを着ていた。
ノンスリーブのようでほんの少し袖があり、背中もほとんど開いていない、上品なデザインだ。
艶のある生地で出来ていて、彼女のほっそりとしたボディラインを美しく強調している。
長い髪は上でまとめて、キラキラと光る飾りで留めてある。
耳にはイヤリングが煌めき、同じような輝きは、先の尖った黒い靴にも見られた。
「変じゃない? わたし……」
「うん、大丈夫……」
変どころか、すごくいいよ。
そんな言葉は、喉の奥に引っ掛かったまま出て来なかった。
俺たちは連れ立って、個展が催されているフロアへ向かう。
世界的なフラワーアレンジメントデザイナーの個展とあって、辺りは着飾った獣たちで溢れていた。
各々が付けている香水の臭いで、酔いそうにもなる。
ふと視線を下にずらすと、隣のエレンは頬を赤く染めていた。
彼女の早鐘のような鼓動が、俺の耳にも届くような気さえする。
俺が知ってる限りでも、彼女はこの個展のためにものすごく努力していた。
シシーに失礼にならないようにと、細心の注意を払って作品を作り上げていた。
「ダメ、ちょっと待って」
いざ会場に足を踏み入れようかという時、エレンの足はぴたりと止まってしまった。
彼女の心の準備が出来るまで、俺はその傍らで待つ。
ふるふると震えるのを抑えるように、エレンはぎゅっと拳を握った。
ようやく意を決して歩み始めた彼女と、俺は歩幅を合わせる。
こうしているとまるで……まるでカップルみたいじゃないか?
実際、それらしい組み合わせは周りにいくらでもいる。
彼らの目にも、俺たちはそんな風に映ってるのかもしれない。
フロアには、大小様々なフラワーアレンジメントが飾られていた。
何の知識もない俺が見て心動かされる物もあれば、何だかよく分からないような物もあった。
こういうイベント自体が楽しいかといえば、別にそういうわけでもない。
ただ、隣に彼女がいるのが嬉しい。
そして、エレンが心を込めて作ったアレンジメントは、俺も見てみたかった。
「あ、多分、あれ……」
「ん? あっちの、あの赤いの?」
彼女は、遠目からでも自分の作品が分かったみたいだった。
入り口で受け取ったパンフレットを、両手でぎゅっと握り締めている。
途中何度か足を止めそうになったエレンを励まし、俺たちはとうとう作品の真ん前までやって来た。
そこでふと、俺は何か違和感を感じる。
俺にとってぼんやりとしたそれは、彼女にとっては戦慄だったかもしれない。
エレンは目を見開いて、彼女が作ったはずの、そのアレンジメントを見ていた。