獣の皮を被る者
滞在しているホテルのカフェで、オオカミの毛皮を被った何者かがロブの背後に席を取る。
その誰かに不気味さを感じておののくロブだったが、それが実は……。
俺は、飲もうとしていたコーヒーのカップに口を付けることなく、それをそのままソーサーの上に戻した。
何事もない風を装って、また窓の外に視線を戻す。
俺は、必死で自分を抑えていた。
油断すると、今にも牙を鳴らして震えてしまいそうだった。
俺のような大きなオオカミにそうさせてしまうくらい、背後にいる何者かは不気味な威圧感を放っていたのだ。
振り向きたい。
振り向いて、オオカミの皮を被る変態を怒鳴りつけてやりたかった。
それと同時に俺は、決して振り返っちゃいけないとも思っていた。
理由は分からない。
本能が、そう告げているような気がした。
「今日は、いい天気だな」
背後から声がした時、俺の背中の毛は一斉に逆立った。
逆立った毛並みの間を、ダラダラと冷や汗が流れていく。
俺は一体、どうしたっていうんだ。
俺は何とか平静を保とうと試みた。
何をこんなに怖気づいているのか自分でも分からないけど、どうにかしなくてはと思っていた。
そもそも、今の一言は、俺に向けられたものとは断定出来ないじゃないか。
「この夏は、暑かったな」
「あの夏みたいに」
背後の声は、ぼそぼそと続ける。
普通独り言をブツブツ言うヤツは怪しまれそうなものだけど、声が小さ過ぎて誰も気付かないのか、特に気に留める者はいないらしい。
まるで、俺と俺の背後の何者かだけが、この空間から切り取られてしまったみたいだった。
「そう、あの夏だよ」
「覚えてるだろ?」
続く声に、俺は応じなかった。
そもそも明確に話しかけられたわけでもないのだから、気にする方がおかしいのかもしれない。
何ですかと振り返ったら実は電話中だった、なんてこともあるだろう。
「おい、覚えてないのか?」
「なあ、おいったら」
相手が電話をしているんだと考えると、さっきまでの怯えが少しは和らぐ。
相手から漂ってくる臭いに、相変わらず警戒はしていてもだ。
「おい、聞こえてないのか?」
「オレのこと、忘れちまった?」
「なあ、ロブ?」
俺は雷にでも打たれたように、瞬間的に振り返った。
そこには、オオカミの毛皮を着た誰かの背中がある。
声は間違いなく、俺に話しかけていた。
「な、あ……」
「お前……誰だ?」
俺は毛皮の背中に向かって、喘ぎ喘ぎ言うのがやっとだった。
俺と同じ、オオカミの毛皮。
その中身はどうしたのだろうと考えると、吐き気を催すほどに恐ろしくなった。
「誰だって?」
「そりゃあないぜ」
「おまえ、平和ボケし過ぎだよ」
毛皮は呆れたように、肩を揺すって低い声で笑う。
「悪いけど、まったく覚えがない」
「おま……あんたのことなんて知らない」
「本当にか? マジで言ってんのか?」
「1人の人間の人生、これでもかってくらいにめちゃくちゃにした癖に?」
その言葉は、俺の頭のてっぺんから真っすぐ、電撃のように体を突き抜けた。
川遊び。
夏。
俺がめちゃくちゃにした、1人の人間……。
ありとあらゆるシーンが、洪水のように押し寄せてくる。
あの日、俺はララやエディーと川遊びをしていたんだった。
夏休み中で暑くて、山から流れ出してくる冷たい川の水が気持ちよくて。
そう、あれは、俺がまだ9歳の頃だった。
血濡れの動画の中の俺は、まさに9歳の俺だった。
「……」
「トム?」
喘ぐことすらままならなくなって、俺はかすれた声でそう聞いた。
トム。
トム。
俺の中にずっと居座っていたあの少年、俺が怪我をさせて村から追い出すことになってしまったあの少年が、今、俺のすぐ傍にいる……。
そこでようやく、毛皮はゆっくりと振り返った。
オオカミの毛皮は、顔まで覆い隠している。
「トムなのか?」
答えは、なかった。
ただ俺の前にまっすぐ伸ばされたその腕には、長い古傷があったのだ。
間違いない。
「懐かしいな、ロブ」
「また、一緒に遊ぼう」
トムを思しき男はそう言うと、くるりと踵を返してカフェを出て行った。
彼の姿が完全に見えなくなると、周囲の話声が急にクリアになって聞こえた。
俺は自分のテーブルに背後からぶつかるようにして、ずるずると崩れ落ちた。
その反動で、テーブルのコーヒーはみんなこぼれてしまった。
*
「ええ、そうです」
「名前はトム」
「名前? それしか知らなくて……」
「髪の毛は薄い茶色、目も同じ色です」
「俺が9歳の時だから、ええと、14年前まで村に」
「そうそう、その村です」
あの後俺はすぐに部屋に戻り、急いでオフィスに連絡した。
今日はドミニクもムースも出勤しているはずなので、今しがた起こったことを伝えなくてはならないと思った。
俺は彼らに、あの動画を送ってきたのがトムである可能性が高いことを伝えた。
もちろん、俺と彼との間に起こった出来事についてもだ。
ムースは俺たちのことを根掘り葉掘り聞き、何らかの方法で現在のトムの行方を突き止めようとしている。
実際のところ、カフェにいたあの不気味な奴が、トムであるという確証はない。
ただ俺の中の何かは、あれは本当にトムだとも言っていた。
子どもの頃、ほんの少しの時間を共に過ごした仲間。
俺が傷つけ、それによって俺も傷ついてしまったあの出来事。
電話を終えると、俺はスマホを放り出してベッドに伏せた。
何に例えればいいのか分からない、どうしようもない気持ちが押し寄せてくる。
俺は思わず、手近にあった枕を頭に押しつけた。
その下で体を震わせ、大きな声で吠えた。