川遊び
特犯に何者からか届いた動画のため、安全のために別々に暮らし始めたロブとエレン。
彼女に会うことも声を聞くことも出来ないロブは、次第に憔悴していって……。
エレンと離れて暮らすようになって、既に2週間が過ぎようとしていた。
俺たちは自分の部屋ではない場所に別々に住み、エレンにも俺にも、警察本部から来た警官が付けられた。
エレンがかつてライオンに拉致されたことが考慮され、本部も応援を寄越してくれたのだとドミニクから聞いた。
離れていても、連絡を取り合う方法はいくらでもある。
俺はそう考えて自分を励ましていたけど、そう簡単なことでもなかった。
「……メールの相手に、ロブたちの通信記録が盗み見られている可能性は捨てきれません……」
「……辛いと思いますが……彼女との連絡は……なるべく控えた方がいいでしょう……」
そういうわけで、気楽に連絡を取り合うことすらできなくなった。
その決定事項を伝える時に電話して以来、エレンの声を聞けていない。
特犯では通常の任務の傍ら、今回の件についても捜査が進められている。
ムースが特に精力的に動いて、メールや動画から何らかの手掛かりを見出せないか頑張ってくれていた。
手がかりらしいものが何も掴めないまま、俺はオフィスとホテルを往復する生活を送っていた。
宿泊料や食事代はすべて特犯でまかなわれて懐は痛まなかったけど、エレンと会えない、声も聞けないことには参っていた。
付き合った当初も彼女を恋しく感じることはいくらでもあったけど、今はその比でないくらい、彼女を求めていた。
眠れば彼女を抱く夢を見て、目が覚めて絶望的な気分に陥ることもあった。
特殊な犯罪を扱う仕事に就いているのだから、こういうことがいつ起きても不思議はなかったはずだ。
それでも俺は、自分がまだまだ甘かったことを思い知らされたのだった。
仕事のない日は特に辛く、エレンと会えないのにどこかへ出掛ける気も起こらなかった。
いっそ客を装ってフラワー・ベアンハルトに足を運ぼうかとも思ったけど、それが原因で、彼女に何かあっては堪らない。
情けない自分を押し留める思考力だけは、何とか持ち合わせていたみたいだった。
そういうわけで俺はどこに出掛けるわけでもなく、部屋に籠りっ放しで過ごしていた。
何となく付けたTVを楽しむわけでもなく、ただ、目まぐるしくシーンを変える画面をただ見つめていた。
番組がいったん中断し、コマーシャルが入る。
ペットボトル入りの、ミネラルウォーターのCMだった。
獣の少年たちが、明るい日差しが差し込む川の中で遊んでいる。
声を上げて水をかけ合いながら、楽しそうに笑っていた。
微笑ましい川遊びのシーンとその源流にある水源がリンクし、それがこのボトルに入っている水なんですよというような締めくくり方だった。
俺は馬鹿らしくなってTVを消すと、シーツが皺くちゃになったままのベッドに寝転んだ。
「エレン……」
名前を呼んでも、答えてくれる人はいない。
俺はどうしようもない気持ちに襲われて、両手で顔を覆った。
このままではとことん沈んでいきそうなので、何か、希望のあることを考えた方がいいと思い立つ。
俺は、さっきのTVCMを思い出していた。
そういえば、あの川はまだあるだろうか。
昔よく友達と遊んだ、小学校の近くにあったあの川……。
高校進学のために村を離れてから、一度も訪ねていなかったことを思い出す。
もしまだあったとしたら、来年の夏はエレンを連れてあそこへ行こう。
彼女を連れて帰省すれば両親も喜ぶだろうし、彼女にはもっと、俺の故郷を知ってもらいたかった。
水が冷たいと言って笑う彼女を想像すると、今の気持ちも、少しは紛れるような気がした。
川。
小学校の裏にあった、あの川……。
「!?」
俺は、いきなりベッドから跳ね起きた。
胸がひどくドキドキしている。
今しがた考えたことの中に、何か重要なサインがあった気がしたのだ。
しかしそれは、すくい上げようとして逃した小魚のように、あっという間にどこかへ行ってしまった。
今の今まで、確かにこの手の中にいたはずなのに。
その大きさも色も、全然思い出せない。
俺は高鳴る鼓動を抑えきれず、やみくもに部屋の中を歩き回った。
体を動かしながら、今しがた感じたものが何だったのかを思い出そうとした。
それは今にもまた掴めそうな辺りにいて、それでいてすくい取れそうな気がまったくしなかった。
何だった、何だった、何だった!?
俺は今、一体何を感じてたっていうんだ?
思い出せと自分自身に繰り返したけど、それはとうとう上手くいかなかった。
俺は溜息を吐くと、ベッドに深々と腰を下ろした。
どれくらい、そうしていただろう。
さすがに気分転換したくなり、俺はホテル内のカフェに行くことにした。
「あら、クリスさん」
「本の執筆は進んでらっしゃる?」
すらっと長い首をよじらせて、キリンの店員が俺に挨拶をしてくれた。
このカフェには何度か足を運んでいるので、スタッフの何匹かとは既に顔見知りだった。
おそらくは長期滞在になるだろうことを見越して、俺はクリスという偽名を使い、本の出版のため、ホテルに缶詰めで原稿を書くジャーナリストってことになっていた。
俺はキリンに愛想よく応じると、いつものように、空いていた窓辺の席に着いた。
頼んだコーヒーは、程なくして運ばれてきた。
俺はコーヒーに手を付けることもなく、窓の外を行き交う獣たちを見ていた。
ひょっとするとあの中に、特犯に不気味な動画を送ってきた誰かがいるのかもしれない。
ふと顔を上げると、向かいにはエレンが座っていた。
両手を顎の下で組んで、どうしたのとでも言いだしそうな顔をして笑っていた。
驚いて瞬きをすると、当然ながら、向かいには誰もいなかった。
俺はまたふっと息を吐くと、ようやくコーヒーに口を付けようとカップを取り上げた。
その時だった。
コーヒーの香りに紛れて俺の鼻を刺激したそれは、本当に微かな臭いだった。
嗅いだこともあり、でもそれとは違う、妙な臭いだった。
小学校の頃、クラスで飼っていた鶏が夏場に死んでしまったことがある。
ちょうど週末を挟んだ間に死んでしまったようで、小屋からは腐臭が漏れ出していた。
ララはとてもショックを受けて、それからしばらくはチキンが食べられなくなったくらいだった。
俺が感じた臭いは、ごくごくわずかではあったけど、それにとてもよく似ていた。
そしてその臭いは、俺の背後に腰かけた何者からか漂ってきているのだった。
鼻の利く獣にしか気取れないようなわずかな腐臭を漂わせ、その何者かは俺の背後に席を取っていた。
俺はカフェのカウンター席を見るような振りをして、さりげなくその何者かを盗み見た。
そいつはおそらく、オオカミだった。
いや、正確には違った。
俺の背後にいるそれは、オオカミの皮を被っていたのだった。