ロブのアルバイト
大学生になって、初めての夏休みがやって来た。
友達がそれぞれに予定を抱える中、ロブがやることと言えば、実家への帰省とアルバイトくらい。
そんな彼は、今日もバイト先の古本屋にいて……。
大学生になって初めてのテスト期間を終え、2か月にも及ぶ夏休みが始まろうとしている。
「おーし、遊ぶぜー!!」
チャドのテストの結果は散々だったって聞いた気がしたけど、そんなことでめげる様子は微塵もない。
彼はどちらかと言えば冬向きの獣だけど、夏を余すところなく楽しむつもりらしい。
「え、僕?」
「僕は、彼女と旅行に行くんだ」
「それから、家族旅行もね」
フローリアンはフローリアンで忙しいみたいだった。
彼の言う彼女とは、アルパカではなかった。
少し前から、入学直後の彼に告白をしたという、ひとつ上のプードルと付き合っている。
「ロブはどうするの?」
「んー、しばらく実家に帰省するかな……」
「あっちは街より涼しいし」
「他には?」
「他は……バイトかな」
「つまんねーの!」
相変わらず、チャドがばっさりと切り捨てた。
*
「おまえさんも、つまらんやつじゃの」
「若いのに、こんな寂れた場所でアルバイトとは」
ヒヒ爺さんもまた、俺をそう切り捨てた。
Tシャツにハーフパンツ、足にはサンダルという夏ルックの俺は、小狭いレジの前で呆れた。
ここはアパートから程近い場所にある古本屋で、俺のバイト先でもある。
雇われ者の立場から言うのも何だけど、バイトを雇うほどの賑わいは、皆無といってもいい。
ここの店主であるシロテテナガザルの爺さんは、本当に食えない。
バイトを始めてもう4か月目に入るけど、未だに掴み切れないところがあるくらいだった。
いつも飄々としていて、どこまでが冗談でどこまでが本気なのか分からないのだ。
「こんな寂れたって、ヒヒ爺さんの店でしょ」
「んー、そうじゃの」
爺さんは適当に相槌を打つと、読んでいた雑誌で顔を扇ぎながら店先に出た。
何となく小汚い感じの漂うランニングと短パンといういで立ちで、その長い手を、股間に押し込みながら。
こんな怪しい爺さんのやっている店に入ろうっていうヤツの、顔が見てみたいもんだ。
あ、俺だった。
――俺が初めてヒヒ爺さんに会ったのは、大学入学を控えた3月終わりのことだった。
アパートには早めに入居していたので、入学まで暇を持て余していた俺は、周囲をよく散策した。
その時に通りかかったのが、この【ヒヒ・ブックス】だった。
下手なのか上手いのか分からない手描き看板もさることながら、とにかく怪しい雰囲気の店だった。
ヨレヨレスタイルの爺さんが店頭に出ていたわけじゃなかったけど、全体的にキナ臭かった。
特に予定もなくぶらぶらしていた俺は、何となくこの店に入ってしまったのだ。
この時の行動を、今でも時々悔やむことがある。
店内の匂いは、しかし悪くはなかった。
古本屋なんていうものは、もっと黴臭いものだと思っていたからだ。
程よく古びた紙の匂いは、俺にとって嫌なものじゃなかった。
暇潰しのお供でも探そうかと狭い店内を巡り、何冊かの本を手に取って眺めたりしていた。
本が無造作に山積みになっている一角から爺さんがヌッと現れたのは、そんな時だ。
さすがに、ショック死するかと思った。
「おまえさん、見慣れん顔じゃの」
「あの……近くに越して来た者です」
自分で尋ねた癖に、爺さんは俺の返事には興味がないみたいだった。
皺くちゃのズボンに手を突っ込んで、値踏みするかのように俺を見る。
「若いのう」
「なんぼだね?」
「え? 18ですけど……」
「わしの見る目が正しけりゃ、おまえさんはオオカミだな?」
「はい、そうです」
見れば分かるだろ。
この爺さんには、俺がカワウソにでも見えるっていうのか?
「力もありそうだの」
「まあ、それなりには」
「よし!」
「採用決定!」
「……はあ!?」
これが始まりだった。
ヒヒ爺と名乗る店主に俺は拒否権なく店員にされ、あっという間にこの古本屋で働かされることになってしまった。
あの時なんで断らなかったのか、今でも時々後悔する時がある。
「……ブ、ロブ!」
「え? あ、はい!」
いろいろ思い出していたら、ついボーッとしてしまっていたみたいだ。
こんな訳の分からない店だけど、俺は雇われたバイトの身。
給料をもらう以上は、ちゃんと仕事をしなくちゃならない。
「すみません、何でした?」
「ほれ、これ」
「珍品だぞい」
ヒヒ爺さんが差し出したのは、彼と同じくらいヨレヨレになった雑誌だった。
触りたくないなーと思いつつ、手渡されたので表紙を見てみる。
『交尾大全~今夜試したいあの技・この技~』
ヒヒヒと笑う爺さんの前で、俺はあからさまに嫌な顔をしてやった。
こんな物を見せるために、この年寄りはわざわざ俺を呼ぶわけ?
これはもはや、一種のパワハラじゃないか?
いや、ネタ的にセクハラという見方も出来る。
「はいはい、珍品ですね」
「何じゃい、つまらんのー」
爺さんは、皺の寄った唇を突き出して見せる。
そもそもが爺さんだから、そんなことしても全然可愛くない。
「おまえさんみたいな堅物じゃあ、この世界で生きてくのも辛かないかい?」
「……放っておいてください」
この爺さんは、たまにものすごく的確なことを言ったりするから困る。
神通力のある化け猿かと怖くなるくらいに、俺を見透かすことがある。
「まあ、おまえさんは若い」
「心配せんでも、おまえさんを一番よく分かってくれる誰かが、そのうちに現れるだろうて」
ヒヒ爺さんは珍しく優しい顔で、カカカと笑ってみせた。
相変わらず股間をボリボリやりながらなので、お言葉のありがたさは半減だけどもね……。
俺を一番よく分かってくれる誰か。
どうしてか、それがエレンなんじゃないかって気がしてならない。
そうあって欲しいと、強く思う自分がいる。
初めて会った俺を、怖がることなく受け入れてくれた彼女。
偶然の再会を何度も重ね、か細いように思えた繋がりは、ずいぶんとしっかりしたものになってきた。
今の俺のスマホには、彼女の番号まである。
エレンに、俺のことをもっと知って欲しいと思う気持ちがどこかである。
そして、彼女をもっと知りたいという欲求も。
ヒヒ爺さんの些細な一言で、俺の中で何かが生まれた。
彼が奥に引っ込んだのを見て、こっそりスマホを取り出す。
『久しぶり』
『今夏休みなので、予定が合えばどこかへ行きませんか?』
メッセージだとつい、また丁寧な言い方になってしまう。
番号をもらってから、幾度となく電話を掛けよう、メッセージを送ろうと思って出来なかった。
それを今、あっさりとやり遂げた。
生温かい空気の淀む古本屋の中で、しかし俺はやけにすっきりとした気分だった。
たまには自分の欲望に忠実になってみるのも、悪くない。