#4 桐原斗真/17歳/異形の者の子供(四つ目種)
――月の綺麗な夜だった。
僕は塾の帰り道、とんでもないものを目撃した。
それはあまりにも現実離れしていて――僕は思わず、普段は開かない額の目まで開け見入ってしまった。
自宅へ帰るためのショートカットに使っている裏道は、いつも人気が無い。だからこの日、そこに人影があったことにも驚いた。
「あ……」
――道の先に、女の子が座り込んでいる。
「誰です――?」
僕が思わず声を上げると、座り込んでいた少女は長い黒髪を揺らして振り向く。そして、小さな唇を動かした。
「あ、あ……の」
彼女の大きな、それでいて透明感ある瞳に見据えられ――僕はカチコチに体が固まってしまった。
それほどに彼女の目が持つ力は強く、人を圧倒する迫力があった。そして――。
「そ、その人は……」
体が動かない原因はもうひとつある。それは――今目の前で起こっていることだ。
「……仕事ですので」
少女は僕の問いに答えると、眉ひとつ動かさず、さらに腕に力を込める。
「……っ……ぁ……」
すると少女の下にいる人影が、短く息を吐いた。
少女は――。
黒い人の形をしたものに馬乗りになり、鈍い銀色の光を放つ籠手で黒い何かの首を絞めていた――!
少女は次第に前のめりになっていき、どんどん黒い何かの首に負荷をかけていく。
「…………」
少女の腕は小刻みに震えていたが――もの凄い力で首を絞めているのだ、きっと――、その顔はやはり無表情で、何の感情も読み取れなかった。
(あ……)
いよいよ首が折れてしまう――と思った時だ。
影はふっと霞のように消えてしまい、少女はトスンと地面に尻餅をついた。
この時になってようやく僕は頭が回り始め、「ああ、消えてしまったのは異形の者だったのだ」と気が付いた。
異形の者のほとんどは死んだ時、人間のようにこの世に形を遺すことができない。
まぁなかには遺せる者もいるが……。遺せる者と遺せない者の違いははっきりわかっておらず――何せ異形本人にもわからない――遺したくとも自分の意思だけではどうにもならない。
僕のルーツである異形は、人間より強大な力を持つこともある――が、人間よりも儚い生き物でもあるのだ。
「…………」
少女は静かに立ち上がり、スカートについたほこりを掃った。
そしていまだ動けずいる僕のほうへ、ゆっくりと向かってくる。
(…………ぁ)
一歩、また一歩と彼女が近づいてくるたび、僕の心臓は大きく跳ね上がった。
僕は、彼女を知っている――。
罪を犯した異形をこの世から消す力を持ち――またそれが許される職業は探偵のみ。
長い黒髪を持つ探偵の少女といえば、僕の知る限りではひとりしかいない。
それは僕と同じ高校に通っている――……。
「御守さん……」
「――! ……あなたは、もしかして同じ学校の……?」
とある日の塾帰り。僕は密かに思いを寄せている女の子が、見ず知らずの異形の命を奪っている場面に遭遇した。
◇◆◇
「……なんだか、とんでもないところを見られてしまいましたね」
少女――御守夜子さんは、そう言って申し訳なさげに眉を寄せた。
「そんなことは……!」
僕はぶんぶんと首を振った。
「だって、御守さんは悪いことしてるわけじゃないし……! あれが探偵の……退魔の仕事なんだし……!!」
「ですが……」
御守さんはううん、と小さく唸り、そばにあったベンチに腰掛ける。僕は少し迷って――彼女の隣に座った。
「ショッキングな光景だったでしょう?」
「それは……」
まぁ、確かにそうだ。
「もしかしたら、あなたには特に――」
そう言うと御守さんは、心配そうに僕の顔を覗き込んでくる。
(っ……! 近い……!)
僕はどぎまぎしながらなぜか、「へへ」と笑ってしまった。照れているのをごまかしたかったのだ。
しかし彼女はそれに気づかず、不思議そうに首を傾げる。
だから僕は弁明するかのように「そそそんなことより!」と大きな声を出してしまった。
「ぼ、僕が異形の血を引いているって、よく知ってたね……! というか、僕のこと知ってたんだね……!」
「それはまぁ……」
御守さんは言いづらそうに言葉を濁した。
――ああ、しまった。僕が異形の血を引く者だってのは、別に隠しているわけではないのだ。だからちょっと情報通であれば誰でも知っている。
しかもさっき、うっかり額の目を開けてしまった。
同じ学校の制服を着ている多眼の男……なんてそうそういるものじゃない。あいつか、と合点がいってもおかしくない。
だというのにわざわざ本人がこういう聞き方をしてしまうと――知っていることを咎めているみたいじゃないか!
「えっと! だからなんだってわけじゃないんだよ! 他にも異形や、その血を引く人間なんてうちの学校にはたくさんいるのに……。そのたくさんのなかの一人である僕を知ってるんだって驚いただけで――……!」
駄目だ。どんどん墓穴を掘っている気がする。
「ふ――」
だけど御守さんは、あまりにも必死な様子の僕が面白かったのか、目を細め小さく笑った。――あ、可愛い。
「あっ、ごめんなさい、笑ってしまって」
「い、いや……! 全然気にしてないから……!」
「そうですか? それならよかったです」
御守さんはそう言って口元に手を当て、再びくすくすと笑った。
「ふふ……」
するとガシャ――と、彼女が腕につけている籠手が硬い音を立てた。
無骨な籠手は細身な彼女に全然似合っていない。だけどそれがなんだか――。
「……っ」
エロい――。
いや、違う。違わないけど違う。なんというか……、思わず生唾を飲み込んでしまうような、妖しい魅力があったのだ。
「どうかしました?」
「あ、いや……。なんでもない、よ……」
「そうですか……。ところで、えっと――」
「あ、桐原……。桐原斗真」
御守さんは「桐原さん」と小さく呟いた。彼女に名前を呼ばれるのは、なんだかくすぐったい。
「私は――」
「御守夜子さん……だよね?」
「ご存じだったんです?」
言って彼女は目を丸くさせる。その姿がおかしくて、僕はつい吹き出した。
「当然だよ。むしろ僕なんかより君のほうが断然有名人なんだから」
「そう、ですか……?」
「うん、学生だけど探偵で、人を殺す異形と戦って……」
おまけに美人だし。
「学校中の人が君のことを知ってるよ」
◇◆◇
僕が彼女の存在を知ったのも、学内で流れている噂を耳にしたからだった。
『可愛い女の子が探偵として働いているんだって』
初めてそれを聞いた時に思ったのは、「へー、そんな漫画みたいな人いるんだ」。
異形といっても僕は人の血が入ってるから、飢えの衝動――人の血を啜りたくなるとか――は無い。だから探偵に対して不安を抱いたりはしていなかった。だから他の人間の生徒と探偵への距離感は同じつもりだ。
つまり身近な存在とは思えず――例えるなら芸能人が同じ学校にいるんだ、くらいの感覚だった。
……まぁ、うちの父親が異形としての本能を抑えられなくなって、誰かを襲った結果探偵に殺されたら……考えは変わるかもしれないけど。(それだって対策を怠った親父が悪いわけだから、探偵を恨むのは筋違いだっていうのが僕の考え方だ)
もともとそんなだったから、初めて本物の彼女を見た時、普通に一目惚れした。
いや、だってあまりにも僕の好みの子で……。
サラサラのロングヘアに大きな瞳。すらりとした体つき。制服を着崩すことなくきっちり着込んだ真面目そうなところ。
可愛いとは聞いていたけど、こんなに自分のタイプどんぴしゃだなんて思いもしなかった。惚れないほうがおかしいだろう。
もちろん話をしたことは無い。だから校内で時々見かけた時に、「あ~可愛い~」って思ってたくらいで、アクションを起こした回数は当然ゼロだ。
でも――妄想はよくしていた。
御守さんはあの年でたくさんの異形を手にかけてきたという。
――あの、細い腕で。
詳しいことはわからないが、探偵は使っている武器や装備品で自分の力を底上げすることができるらしい。だからあんな細腕でも、人間より力が強い異形の者を――。
殺せるんだ。
僕は想像する。
人の気配が無い、ふたりきりになれる場所――そこで僕は、彼女に首を絞められている。
僕の首には御守さんの指が食い込んいる。きっと首には、彼女の細い指の跡がしっかりついていることだろう。
多分すごく苦しいはずだ。でも僕は――嫌な気分にはなっていない。
なぜならこの瞬間、御守さんに首を絞められているこの時間だけは――。
彼女の丸くて大きな瞳に映っているのが、僕だけなのだから。
僕は苦しくて飛んでしまいそうな意識のなか、御守さんの黒と青が混ざったような、夜の海みたいな瞳に映る自分を見る。
そこに映った僕はきっと――恍惚の表情を浮かべているだろう。
◇◆◇
「――さて。そろそろ私は行きます。もう夜も遅いですし、桐原さんも帰ったほうがいいのでは?」
そもそもなぜこんな時間に?と御守さんは小首を傾げる。
「あ、えっとさっきまで塾行ってて……」
「なるほど、そうでしたか。遅くまで大変ですね」
「御守さんだって」
「夜は探偵の時間ですから」
御守さんはそう言って空を見上げた。
東京の夜は街の明かりで常に明るく、夜空の裾は白みがかっている。星もろくに見えないくらい光に満ちている。
――だけど、必ずどこかに暗闇はあるのだ。人を狙う異形はそこに潜み、無防備な人間を狙っている。
(そしてそれを狩るのが、御守さん達探偵……)
僕はこっそりと、隣にいる彼女を見た。僕の四つの目すべてに、彼女を映す。
しゃんと伸びた背筋、曇りなんか一切ない瞳……。なんて綺麗なんだろう。
しかも綺麗なだけじゃない。ただの人間なはずなのに、街行く人々とは全然違う雰囲気もまとっている。
不思議だ。御守さんは本当に人間なんだろうか。人間の中身って、もっと複雑で汚いのと綺麗なのが入り混じっているものなんじゃなかったか。だというのに彼女は、人間の汚い部分をすべて濾して、残った美しいナニカだけで作られているみたいだ。
(身分違い……か)
ふと、僕の頭に浮かんできた言葉だ。
僕が異形の血を引いているからとかそんなの関係ない。仮に僕が純粋な人間だったとしても、きっとこう思っただろう。それほどまでに――人間として異質なくらい、僕の目には御守さんが澄んだ存在に見える。
(叶わない恋だよ、これは)
彼女の隣にいることができるのは、きっと同じくらい澄んだ者か……、逆に思いっきりふてぶてしい人くらいじゃなかろうか。
(僕は澄み切った存在じゃないし、肝も据わっていない)
とてもじゃないが、一緒にはいられない。もしラッキーが起こって、御守さんの隣にいることを許されても、きっといつか耐えられなくなる。その程度のヤツなんだ、僕は。
(だからこそ、僕は彼女の手で殺される場面を想像するんだ)。
その時だけは、彼女は僕のことを考えてくれている。
その時だけは、僕は彼女の近くにいられる。
御守さんの手で殺される――というのは、思いつく限り最高の最期だ。
想い人が離れて行ってしまう恐怖や、嫌われてしまうかもという恐れを感じなくてすむ。
それにわずかな時間だけでも好きな人を独り占めできるっていうのは悪くない。
だから彼女の目の前で人を襲ってみようか、なんてことを――時々妄想したりする。
(でも、そんなことできやしない)
結局のところ、僕は臆病な男で――。今の平穏な生活を捨ててまで、ちょっとの甘美を得る勇気は無いのだ。
こういう時、人の血を求め、本能に従う思い切りのよさがある異形が少しだけ羨ましい。人を襲うことを決して良しとは思わないが――少しだけ。
(体こそ異形に近いけど、中身はどこまでも人間なんだよな……僕って……)
「ではさようなら、桐原さん。お気をつけて」
「うん……。御守さんも」
少女はありがとう、と言って微笑みを浮かべると、振り返ることなく颯爽とどこかへ行ってしまった――。
それから僕が御守さんと話す機会は、この日以降一度も訪れることは無かった。
だけどそれはそれで困ったことなんて全然なくて。僕は充実した学生生活を送り――彼女までできた。
でも――。今でも時々夢想する。
彼女の腕に首を絞められている僕の姿を。月光を弾いた銀の籠手の眩しさに目を細めながら、幸せそうにしている自分を――夢見る。