Part1 大樹-1
とりあえず5話まで毎日投降します
世界は見る者によって容易く変化していく。
◇Part1
【大樹】
「おはよう」
「おはよう」
「おはよう」
「おはよう」
『おはよう』と木霊のように繰り返される言葉があちこちで交わされる。
誰が最初に言った言葉かは分からないけど、『お早う』がなぜ挨拶なのか知る由もないけれど、朱に交われば赤くなるようにそれが当たり前だと受け入れ僕も手近にいた友人に声をかける。
「おはよう」
「うわ、なんだお前。いつも無口なのに……てかそんな声してたんだ」
……たとえ冷徹な視線を送られようとも
「おはよう」
「え……あ、うん……おはよう」
……たとえ困惑の眼差しで見られようとも
「おはよう」
「てかさ、てかさ、あーしの彼氏以上の男っていないんじゃないかって最近思うんだよね」
……たとえこちらを見ていなくとも
「これで……全員か」
見える限りの友人と心の中で呼ぶ者達に声をかけ終わり一息つく。
僕も成長したものだなぁ、と去年を振り返れば辛い思い出が心を抉るため、やっぱり過去を振り返らずに今だけを見つめる。
「おはっす大樹!」
「大樹君おはよ~」
肩を軽く叩かれ2人の男女の声が背後からかけられる。
振り返ってみればそこには
「そういえばまだ2人がいたっけ……。おはよう。たつべー、明日香」
男子の方は竜田宗兵衛。本人は下の名前が気に入っていないらしく、名字と合わせてもじって、たつべーと周囲に呼ばせている。
クラスの人気者を気取るお調子者……と認知されているが僕にとっては大事な友人だ。
高校一年生という地獄を乗り越えられたのも彼がいたからこそだと、今でも感謝している。
女子の方は坂場明日香。幼馴染であり腐れ縁。小中高とまさかここまで縁が続くとは思いもしなかった。
彼氏はいると公言しているが、その実これまでいたことがないことを僕とたつべーは知っている。男避けに使っている口実なだけだ。
「大樹……お前、またか……。もうあいつらに話しかけるのは止めろ。お前の心がすり減るだけだぞ」
「だけど……!」
「……人を信じるのは大樹君の美点だけどね。それでも、割り切らなきゃいけないことだってあるのよ?」
「っ……」
それでも、と縋る僕に2人は優し気な目で俺を諭す。
……心の中では分かっているんだ。
もうどうしようもなく周囲との壁は分厚くなり、溝は深くなっていることくらい。
だけど、いつかは壁をぶち破って溝を跳び越えて、分かり合える日だって来る。そう信じて今日も僕は一歩を踏み出している。
「ま、困ったことがあったら俺に言ってくれよな? いつだって力になるぞ。2人一組にだって3人一組だって、組んでやるからな」
「3人一組なら私も入れてよね。そうやってたつべーだけに良い格好させないんだから」
「……ありがとう」
頼り切り。
情けない僕を、僕自身が排除しようとしている。
蔑んで、蔑ろにして、遠くから笑っている。
本当は壁も溝も無くて、僕がそれを自分勝手に作り出して、それを周囲が感じ取っているからああいう風な返され方をされてしまっているんじゃないだろうか。
「ほら、行こうぜ。遅刻しちまうぞ」
「次遅刻したら先生に怒られるって言ってなかったかしら?」
そうだった。
明日香の言う通り、もう遅刻は出来ないんだった。
足を速くする2人に追い付くために僕も少し息を切らしながら歩くのであった。
季節は春。
クラス替えを新たに行い気分も一新する晴々とした時期である。
桜の花弁が逸る気持ちを抑えるかのように次々と顔へと零れ落ちていった。
「まさか皆同じクラスだとはなぁ」
「偶然かしらね……それとも運命?」
くすりと笑いながらこちらを見てくる明日香。
どぎまぎしながら僕は目を伏せる。
「ど、どうなんだろ……。単純にクラスの数が少ないから確率は高いと思うけれど……」
去年に引き続き僕とたつべー、明日香は同じクラスであった。
穏やかな学園生活を送るのであればこれ以上ない幸運だ。
だが、それと引き換えに自身の力で現状を乗り切るという努力に2人の助力という大きな力が加わってしまう。
「困ったものだ……」
「何が困ったものだ。今私を一番困らせている原因の癖に」
黒板に貼られていた席順を頼りに席へ着くと、机の上に学生鞄が置かれる。
「……?」
顔をあげればやけに目つきの鋭い女子生徒がいた。
「ここは私の席だ。先ほど黒板で確認していたようだが、一体何を見ていたというのだ」
「え……あれ……?」
慌てて黒板まで駆け寄ると、確かに一つ席を間違えていた。
「相変わらずね」
「ほんとおっちょこちょいだな大樹は」
からかってくる2人をよそに僕は先ほどの席へと戻ると
「ごめん。僕が間違えていました」
頭を下げ謝罪の言葉を口にする。
思っていたよりも声が大きかったのか、クラス中の生徒がこちらを見ている気がする。
少し顔が熱くなるのを感じ、余計に顔を上げづらくなる。
周囲の目が怖い。
そして、赤くなったであろう顔を見られたくない。
「いや、私の言い方もきつかったな。ミスなんて誰にでもある。ましてクラスが変わったばかりの緊張している今日だ。これくらい寛容に受け流せずして何が委員長だ。私の方こそ悪かったな」
頭を上げてくれ、と優しい口調がかかる。
目線が怖い。
しかし、なけなしの勇気を振り絞って女子生徒の目を見てみる。
「優葉雅美だ。去年はB組の委員長だった。今年もこのクラスの委員長を狙っている。ええと、兵頭大樹君だったか。第一印象は悪くなってしまったかもしれないけど、これからは良くなるように努力しよう」
「えと……名前……」
まだ名乗っていない僕の名前を何で……?
「有名じゃないか。顔と名前が一致する程には、この学年に知れ渡っているんだよ。まあ私は自分の目で見たことしか信じない。君の悪評など、そんなものは君への印象に何も影響はしない」
つまりはこの人はどんな人であろうと席を間違えたらああも好戦的な態度を取るということで……。
あまり関わりたくはないな。
いや、でもこうして話してみれば誠実そうな人だ。
僕のことを知った上で話してくれている。
「大樹、信じすぎて騙されるなよ? 第一印象ってのは相手の性格を決して見抜いているわけじゃないんだからな」
「こら、たつべーくん! こうやって大樹君にお友達が出来そうなのに邪魔しないの。……でも、友達は女の子より男の子のほうがいいと、私は思うよ?」
教室を見渡してみれば僕を見ている生徒は1人もいなかった。
どうやらこちらを見ている視線というのは杞憂であったようで、やはり僕の他者に対する忌避感や恐怖心がありもしない虚ろな存在を形作っていたのだ。
「……よろしく! 優葉さん」
僕の席は優葉さんの前。
とりあえず困ったら頼れる存在がたつべーと明日香の他に出来た。
友人とまだ呼べるか分からないけれど、僕自身の力か分からないけれど、確かにここに一つの縁が生まれた。
そんな達成感とともに僕は今度こそ本来の自身の席についたのであった。
たつべーと明日香は何処かへと行ってしまった。
自分の席に戻ったのだろうか。
2人がいては何時までもからかわれてしまう。
ふざけ合える友人も大切だけど、新たな友人も欲しいと思うのは強欲なのだろうか。
教室の前側のドアが開いた。
時間は8時半。クラス替えのある日、つまりは新学期な訳だが、この学校では朝礼よりも前に担任がホームルームでの挨拶をした後に1時限目を使っての朝礼となる。
所謂、担任ガチャとでも言うのだろうか。
学園主任や生活指導といった面倒な教師はあまり担任に望まれていない。
受験シーズンともなれば有難がられるかもしれないけど、残念ながら僕達は2年生。まだまだ遊びたがりで、羽目を外したがりだ。
おそらくは教室中の生徒が注目する中でドアから入ってきたのは、若い女教師であった。名前は何だったっけ。
僕達の目は真っすぐと教卓へと進む女教師……の腕の中を見入っていた。
「小山ちゃん……もしかして出来ちゃった?」
「やだー。相手は誰? 誰? 小田っち?」
そうだ、小山先生だ。
去年、新任で入ってきた小山先生は打ち解けやすい性格で生徒からも人気が高い。
まさか、このクラスの担任になったとは……。
その小山先生だが、赤ちゃんを抱いていた。
「もう、違うわよぉ! えー……誰か妹か弟を連れてきちゃった人いる?」
どうやら小山先生が春休みのうちに妊娠し出産していたわけでは無いらしい。
2月の時点で見た目にも妊娠しているようには見えなかったから当たり前だけど。
小山先生は教室内の生徒を見渡した後に
「いないみたいだし……ちょっと職員室に預けて来るわね。まだ朝礼には間に合いそうだし、急いで戻って来るからそれまで自己紹介してて!」
そう言い残して小山先生が教室から出ていこうとした時であった。
「あー」
と、赤ちゃんが声を出した。
少し甲高い鳴き声に皆が、小山先生も足を止めて様子を伺う。
「あー……あーあ」
ため息にも似た声と共に赤ちゃんは小山先生の腕の中から跳び上がると、口元に鋭い歯を覗かせ、小山先生の首元に喰らい付いたのであった。