前編
私にはとても苦手な男性がいる。子供の頃は平気だったのに、いつの頃からかその姿を見せてくるようになってから、どうすればいいのか分からなくて苦手になっていた。
数時間前、出張中の父から電話があった。母を早くに亡くした私と父は二人で暮らしていた。そんな中で、割と長めの出張。私1人を残すのは心苦しいと判断してくれたのは嬉しかった。だけれど、よりにもよって、どうして彼に頼んだのか理解出来なかった。
「……そういうわけだから、みくるの身の回りのことは、凌平君にお願いしといたから。しばらく留守にするけど、彼がいれば平気だろ」
「ちょっ……な、何であいつなの? 私、もうすぐ受験だよ? さすがにそれは――あ、インターホン鳴ってる。ごめん、切るから」
「たぶん、彼だな。よろしく言っといてくれ」
示し合わせたかのように、来客を知らせるインターホン。そして、彼が家に来ていた。内心嫌だなと思いながらも、玄関のドアを開けた。
「おっす! みくるだろ? 元気にしてたか?」
「たぶん」
「そっか、まぁいいや。上がるぞー!」
「待って! まだ部屋の片づけが……」
「気にすんなよ! 特別扱いなんて俺に必要ないんだからな。みくるも気を張らずに俺に体当たりしてくればいいんだよ」
この人はいつもこうだ。兄妹のいない私にとって、幼き頃は歳の近い凌平が兄代わりとして、いつも私の傍に居た。それこそ親戚同士の集まりで一緒に遊べるのは彼しかいなかったくらい、一緒にいることが多かった。その頃は私の方が活発で、彼は大人しくて優しい男の子だったのにどうしてこんなことに。
部屋に案内する前に彼は勝手知ったる行動を取っていた。まるで自分の家のように冷蔵庫を開けて勝手に冷たいお茶をごくごくと飲んでいた。そのことが駄目とかでは無く、彼は私にだけそういう姿を見せていることが苦手なんだ。
「ぷはぁー! くー、暑い中からの冷茶は半端ねえな!」
「ちょっと! 何ですでに下着なの? おかしくない?」
「んー? 下着じゃねえよ。短パンみたいなもんだろ。なんだぁ? いっちょまえに恥ずかしがってんのか? みくるらしくねえな。俺と二人だけの時はそんな恥じらう乙女とかやめろや。俺も素をさらけ出せるんだぜ? お前もそうしとけよ」
大人しくて優しくて、同年代の男子たちよりもその時の彼は、すごく上品な振る舞いをしていた。それなのに、どうしてこうなったの? 粗野で雑で、適当感丸出しのただの男になってた。
「どうした? そこでずっと突っ立って。ははぁ、さては俺を追い出そうと企んでるな? だとしても、それは叶わないぞ。俺はみくるの親父さんから直に頼まれて来たんだからな。諦めてそこに座ればよくね?」
こんな彼に誰がした。そう思っていたけれど、彼はこう見えて学校の先生をしている。だからてっきり受験のことをうるさく言うかと思っていたのに、何も言って来なかった。それについてだけは許せるかもしれない。
とにかく家の中での彼は、だらしのない姿を私に見せまくっていた。言葉遣いにしてもそうだし、下手をすると、休日の夫の姿ってこんなにも邪魔くさくなるのだろうかと、要らない想像までしてしまった。
それが数日続いたある日の夕方。たまたま学校からの帰りが遅れた時に凌平の姿を見かけてしまう。彼は普段は見せていないきちんとしたスーツ姿と、数人の女子生徒らしき子たちとで話をしながら歩いていた。
「センセー、彼女とかいないの?」
「ええ、いませんよ。だからといって、生徒に恋心を抱くだとかそんなことにはなりませんので、期待はしないで下さいね」
「えー? つまんなーい」
聞こえるような距離で彼と彼を取り巻く女子生徒たちの会話を聞いていたけれど、アレ……あの彼の口調と態度なら、どんなに好きになれたのか。そう思えるくらい、まるで別人のようだった。
「たっだいまー! ふー、マジで疲れた」
「だ、だからさーすぐにくつろぐのやめてよ!」
「いいじゃねえかよ! こんな居心地のいい場所って、みくるがいるこの家くらいのもんなんだぜ?」
さっき見かけたあの彼のほうがいい。そう思って、口を滑らせたのが私の後悔を生むことになるなんて思っても見なかった。
「ふ、ふぅん? 凌平の今の姿を、さっき見かけた女子生徒たちにも見せてあげたいくらいなんだけど?」
「……お前、お前まで俺にそれを求めるのか? そうか、そうかよ……」
「え?」
「――それでは、みくるさん。今すぐに勉強をしてくれませんか? 君は受験生でしょう? それなら、僕といつまでも話をしている余裕など、ありはしないのではないでしょうか。さぁ、自分の部屋に戻りなさい」
「は、はい……」
彼は他人行儀、いや、外で見かけたままの彼になっていた。それまで私に見せていた粗野な男では無く、外面が良くて、心を感じないような丁寧過ぎる言葉遣いの、先生としての姿に。
その姿が数日続いた。そんな時、生徒たちが先生としての彼に相談をするため、私の家に上がらせて話をしていた。私の家……とは言っても、彼の方が年上だし、保護者のようなものだったのでそれも含めて父はお願いをしていたらしい。だから勝手に人の家に生徒を上げているわけではなかった。
「凌平先生は独身なんですか? 寂しくないの?」
「そうですね、当たりですよ。寂しいとか考えたことなどありませんね。それで、そのことに関しては……」
何となく聞いてはいけないことだと思って、私は自分の部屋に戻った。数時間後に、ドアをノックする音が聞こえて、ドアを開けるとそこには無表情の彼が、丁寧にご飯を食べに行きませんかと声をかけて来た。
「どうしました?」
「な、何で、そんなに……他人行儀なの? だって、来たばかりの凌平は」
「何故ですか? 君が、みくるさんがそれを望んでいたのでしょう? 心の見えない僕を望んでいたではないですか。違うのですか?」
「ち、違う。や、やっぱり、戻ってよ! そんな姿、あなたじゃない。あの頃みたいに戻って!」
同じ家、同じ空気を吸っているのに、どうしてここまで心を殺せるのだろう。こんなのはとてもじゃないけれど、耐えることなど出来なくて、それを壊して欲しいと訴えてしまった。そうさせたのは私の方なのに。
「……ははっ、自分勝手なこと言ってくれる。まぁ、いいよ。俺が素の自分をさらけ出せるようになったのって、みくるに言われた言葉がきっかけだったからなんだ。覚えてるか?」
「え、えっと……」
「あの大人ばかりの親戚中の中にいた俺は、とにかく上品でいなければならなかった。子供っぽさなどそこにはあってはいけなかったんだ。だけど、俺よりも幼いみくるが俺に近づいて来てこう言ってくれたんだ」
「りょうへいくんってロボット? どうして顔がかたいの? もっと笑っていいのに」
「それを聞いて、思わずはにかんじまった。あぁ、そうか。そりゃそうだよな、大人たちに合わせて自分を殺していれば自然とそんな風に見えちまうんだなって。だから決めたんだ。お前といる時だけは素をさらけ出すってな」
「で、でも、どうして私にそんな話を?」
「俺さ、婚約者がいたんだよ。それもやっぱりだけど、俺の心を作った大人たちの取り決めで相手はお上品なお嬢様だったんだ。その時の俺の姿を想像出来るか?」
「あ……」
「そう、つまりは心の無い俺のままで相手と向き合っていた。でもそんな俺は嫌だって、自分の中で葛藤を繰り返していた。そしてその彼女に正直に打ち明けたんだ」
「な、なんて?」
暗く表情を落とした彼は、寂しそうに語り始めた。まるで目の前にいる私に助けを求めるような、そんな顔をして話を始めた。




