知音(ちいん) ~ I know your melody ~
プロローグ
「ぼく、やっぱりやだよ!ピアノなんか習いたくないっ!」
「ここまで来て、ママを困らせないで、こーちゃん!今日からピアノを習うって約束したでしょ?さあ、入るわよ!」
『高坂ピアノ教室』
グランドピアノをかたどった看板がかけられた、おしゃれな洋館の門の前。
ここから先は、絶対一歩も進むもんか!
幼稚園服を着た小さな男の子が、口を真一文字に固く引き結んで仁王立ちし、ピクリとも動かない。母親は、ほとほと困り切った顔で、息子を見下ろして立ち尽くしている。
「こーちゃん、先生も待ってるから、早く行くわよ!」
「やだ!どうせ習うなら、サッカーの方がいい!」
「じゃあ、サッカーもやっていいから、ピアノも、ね?」
「サッカーはやるけど、ピアノはやらない!」
「こーちゃん!いい加減にしなさい!ママ、本気で怒るからね!」
たまりかねた母親が声を荒げ、男の子はビクっと体を震わせた。くっきりとした二重瞼の大きなチョコレート色の瞳に、みるみるうちに大粒の涙が溜まり出す。
「ふええーんっ!ママなんか大キライだあ!ピアノも大っ嫌いだあ!」
「ああっ、泣かないで!ごめんね、こーちゃん、ママが悪かったから!」
「ふえーんっ!やだやだやだっ!帰るぅ〜、もうぼく、おうちに帰るぅー!」
大泣きする男の子の前で、母親が途方に暮れ、もう諦めて連れて帰ろうとした時だった。
ヒラヒラ、ヒラヒラ。ヒラヒラ、ヒラヒラ。
白い紙ヒコーキが飛んできて、ふわり、男の子の足もとに不時着した。びっくりした男の子は、一気に涙も引っ込んで、しゃがみこんで紙ヒコーキを拾い上げた。
いったい、どこから飛んできたんだろ?
男の子が立ち上がって顔を上げると…
「あっ!ミニーだ!」
二階のベランダでミニーマウスを見つけた。ミニーの耳を頭にくっつけた赤いワンピース姿の女の子を。男の子と同じ五歳くらいだろうか。女の子はミッキーマウスの耳を持った手をぶんぶん、大きく振りながら叫んだ。
「その紙ヒコーキ、開いてみて!」
言われるまま、開いてみた。
五線譜に音符がいっぱい並び、ひらがなも書かれていた。ひらがなは、最近ママから教わったばかりだ。
「あら、『小さな世界』の楽譜ね」
ひょいっと楽譜を覗き込んだ母親は、とりあえず泣き止んでくれた息子にほっとしながら言った。
「小さな世界?」
「ほら、夏休みにパパと三人でディズニーランドに行ったでしょ?『イッツ・ア・スモールワールド』に乗ったの、覚えてる?あの時、流れてた曲よ」
ラララーン、ラーラーと、母親は鼻歌を歌ってみせた。
「あっ!知ってる!」
男の子は嬉しそうに叫んだ。
夢のように楽しかった時間が蘇る。男の子の小さな胸の中は、幸せな気持ちに満たされた。
「おいで!今から二人で一緒に弾こうよ!ミッキーとミニーになろ!」
ベランダから、世界中の優しい陽だまりを集めたようなあったかな笑顔が手招きした。
Side 花音
「ストップ!ダメダメ!全然ダメ!」
ビクッ。
条件反射で体が震え、鍵盤の上を滑る十本の指が止まった。個室のレッスン室に響いていた『ポロネーズ第6番変イ長調作品53』がむなしく途切れる。
「はあっ」
早川先生は失望の色もあらわに、重たいため息を吐き出す。
「そんな乾いた音じゃ、ベルリン音楽研修の選考会だって、一次試験で落とされるわよ?それ以前に、こんな程度の演奏じゃ、来年、高等部にだって進学できないわよ?」
情け容赦ない言葉が、あたしを追い詰め、どんどん体が冷たく、固く強張っていく。
「すみません、ちょっとスランプで…」
うつむいて、膝の上で拳をギュッと固めながら掠れた声で言うと、「はっ」と鼻先で嘲笑われた。
「昔、神童。十五で才子。二十歳過ぎれば、ただの人。…ねえ高坂さん、ただの人で終わりたくなかったら、いつまでも昔の栄光を引きずってないで、さっさと練習しなさい。スランプなんて、二度と口にしないで。スランプっていうのは、才能ある者だけが言えるセリフなのよ?」
…そこまで言うか。
致命傷だ。プライド、こっぱミジンコ。そうだ、才能のないあたしなんかミジンコ以下だ。絶望のどん底に突き落とされたあたしに、更に追い打ちをかけるようにお説教は続く。
「キーン、コーン、カーン、コーン…」
早川先生の説教を遮って、チャイムが鳴り響いた。はあっと、またあてつけがましいため息が吐き出される。
「とにかく今が正念場よ?諦めて逃げるのか、挑み続けるのか、この苦しい試練にどう立ち向かっていくかで、今後のあなたの人生が大きく変わってくるんだからね?じゃあ、今日はこれで終わり」
「…ありがとうございました」
早川先生がレッスン室を出て行き、一人きりになると、一気に力が抜けた。上半身から鍵盤の上に崩れ落ちる。
「バーンっ!」
グランドピアノの暴力的なほどの大音量が室内に響き渡る。
「どうしたらいいのよ…」
とめどなく押し寄せてくるプレッシャーに押しつぶされて、もう限界だった。
「先生の言うように、やっぱあたし、才能ないのかな」
自宅でピアノ教室を開くママに二歳からピアノの指導を受けた。ママの強い勧めで、名門紫苑学院中等部音楽科ピアノ専攻に進学。…でも、
『音楽の神に愛された天才少女』
幼い頃からそう賞賛され、すっかり自信過剰になっていた十二歳のあたしは、全国トップクラスの音楽エリート校に入るや否や、どんどん自信を失っていった。
たくさんのコンクールで入賞して、実績を積んで、音大へ進学して、海外留学をして、やがて一流ピアニストになる。紫苑に入学してからは、そう目標を定めてピアノを弾き続けてきた。
なのに、ピアノを始めて以来、最低最悪の絶不調。最近はもうずっと、思うような音を出せていない。空疎な音ばかりが空回りする。
あたしはきっと、『あたしの音』を失ってしまったんだ。
このままじゃ、音大どころか、早川先生の言う通り、高等部にも進めないかも…
秋には高等部進学の技術試験がある。そこで一定の基準に満たなければ、不合格となるのだ。もし、そんなことになっちゃったら…
「あたし、二十歳の頃には、音大なんか行けてなくて、タダの人になってんのかな」
鍵盤の上につっぷしたまま、不安だけが風船のようにどんどん膨れ上がってきた。
ブルルッ。
ブレザーのポケットの中でスマホが振動した。学院内でスマホは使用禁止だけど、そんなの、イマドキどんな優等生だって守ってやしない。みんな、先生に隠れてコッソリ使ってる。
上半身を起こして、スマホを確認すると、のんちゃんからラインが来てた。
『今どこ?体育遅れちゃうよ!早く!』
三限は体育だ。教室で、のんちゃんとユッキーがあたしを待ってる。急いで教室へ戻って、体育着を取って、更衣室に直行して早く着替えなくちゃ。斉藤先生は遅刻に厳しい。一秒でも遅れたら、外周二周の刑だ。いつだって友情を優先させてくれる心優しい神友たちを、そんな地獄に巻き込むワケにいかない。
『ごめん、まだレッスン室。先に更衣室へ行ってて。すぐ行くから』
返信を打つと、すぐに『りょ!』と返ってきた。
…早く行かなくちゃ。そう思うのに、体が動かない。立ち上がる気力が沸いてこなくて、代わりに未練がましい呟きがこぼれ落ちる。
「ベルリン、行きたかったんだけどな」
だって、ベルリンは…
ブルルッ。
またラインが入った。今度は公貴からだった。
『今日、部活早く終われそうだから、花見しながら一緒に帰らね?堤防の桜、満開だぞ』
桜。そっか、もうそんな時季か。春だもんね。
窓の向こうに目を遣ると、校庭の桜はすっかり満開を迎えていた。今がピークだ。
最近は、ピアノのことしか頭になかったから、周りの景色を見る余裕すらなかった。こんな身近で桜が咲いていたことにも、気付かなかった。
…日本人失格だ。
「日本人はみんな、サクラが好きだね」
ロンドンから来たALTのジャックが、フレンドリーなスマイルで言ってたから。
この季節に、一瞬でも桜が脳をかすらなかったあたしは、日本人の風上にも置けない。
あでやかなピンク色の可憐な桜を窓越しに眺めながら、自虐的な暗い気持ちになった。
公貴と花見。…行きたい。お花見デートしたい。公貴と桜が見たい。桜並木の下を、手を繋いで歩きたい。でも…。
『そんな乾いた音じゃ、とても今度のコンクールには出せないわ』
早川先生の非情な言葉が心をえぐる。
ダメだ。今は、とても花見なんて行っている場合じゃない。
「…ごめん、公貴」
憂鬱に埋め尽くされた、どんよりとした灰色の感情を持て余しながら、断りのラインを打ち始めた。
Side 公貴
『練習しないといけないから、ごめん。来週のコンクール終わったら、お花見行こう』
「来週には桜、散っちゃってるだろーが」
返ってきたラインにツッコミを入れて、舌打ちをした瞬間、横からすうっーと手が伸びた。
「花の命は短し。恋せよ少年」
詠うような声とともに、命の次に大事なスマホを奪われた。
焦って見上げると、色気のない紺のスーツで武装した、ひっつめ髪の非モテ系国語教師が立っていた。…しまった!
「だけど、恋活は放課後に励め。今は、国語の授業中だ」
ニヤリ、銀縁メガネの奥の糸のように細い目が、不敵に微笑む。フル回転で舌に100%ピュアバージンオリーブオイルを塗りたくって、泣き落とし開始。
「サトミちゃーん、今日もマジキレイ!紫苑の女神様、それ、返してください!青春にマストな三種の神器なんで!」
「ほう。じゃ、少年よ。あとの二つの神器とはなんだ?」
「青春を捧げたバスケットボールと……オレの青春のバイブル、国語の教科書です!」
咄嗟に教科書を掲げて、大抵の霊長類のメスなら瞬殺できる王子スマイルで張り切って答えたが、(現に、クラス内の女子どもの目にはハートが飛び交っていたが)紫苑最強ガラパゴス女史には圏外だったようだ。
「校内でのスマホの使用は禁止!校則通り、即没収!原稿用紙二枚の反省文と引き換えに、放課後返却してやる。それから、罰として教科書を読め。三十五ページからだ」
冷やかに言い捨て、教壇へ戻っていく生きた化石女史の背中に思いっきり舌を出す。
親切な隣人、卓球部の川本がさっと開いた教科書を差し出してくれた。
「サンキュ」
お礼を言って、立ち上がって読もうとした。…が、
「げっ!漢文じゃん!マジ無理!こんなん読めねえし!」
「バイブルなんだろ?だったら、ツベコベ言わずとっとと読め!」
容赦ない罵声が前方から飛んできたので、仕方なく読み始める。
「えっと…ちおん、」
「知音だ!バカモノ!」
Side 花音
また、ミスタッチばっかりだった。
ため息交じりに鍵盤から両手を離すや否や、「コンコンっ!」と、突然、レッスン室の窓を叩く音が響いて、振り向いた。
「公貴っ?」
窓の向こうに公貴の姿を見つけて、びっくり仰天。これ以上ないくらい目をまんまるく見開いた。
…えっ?なんでなんで?どうして、スポーツ科の公貴が音楽科にっ?
公貴は鍵をひねるジェスチャーをして、口パクで『開・け・て』と。
何が何だかよく分からないまま、慌てて駆け寄って鍵を外すと窓を開けた。
「公貴、どーしたの?」
「よっ、花音!これ、持ってて。ちょっと後ろに下がってろ」
公貴は紙袋をあたしに押し付けると、後ろを指差す。あっけに取られながら、言われるまま後ずさると、公貴は両手を窓のサッシにかけて、ひょいっと軽々と窓を飛び越えた。ストン。鮮やかな着地にうっとり見惚れた。
…付き合って一年経っても、全然慣れないよ。会うたびにドキドキさせられっ放し。
「相変わらずキレッキレのジャンプ力ね。さすが、バスケ部キャプテン」
「こんなん、ダンクをキメるより百倍カルい!昼メシ前だっつーの!」
自信たっぷりに堂々と言い放つと、紙袋の中からカレーパンを取り出した。
…憎らしいけど、確かに、バスケの試合中は、もっと高いジャンプで華麗なダンクをキメる勇姿も、何度も見ている。空を飛んじゃうんじゃないかって思っちゃうくらい高いテクニカルな空中戦は、同じ人類とは思えないほどの神業だ。
…いや、体を流れる血の民族性の違い?
前に、社会の恩田先生が言ってた。ゲルマン系は、世界有数のイケメン民族だって。
公貴・ヴァインベルガー。
ドイツ人のおじいちゃんを持つクオーター。こうゆうの、隔世遺伝ってゆうんだっけ?おじいちゃんの血をバッチリ受け継いだ、彫りの深い日本人離れした気品ある顔立ち。184センチの高身長。そして、一年生の時からバスケ部でセンターのレギュラー。
…そして、なぜかあたしの彼氏。学院七不思議の一つにカウントしても、おかしくはない。なぜ、こんなパーフェクトなイケメンがあたしを好きになってくれたのか、今でも分からない。
「公貴、急にどうしたのよ?」
「昨日、花見デートできなかったから、代わりに、音楽科に不法侵入して、ランチデート!その中に、スポーツ科購買部人気ナンバーワンのパンが入ってるぞ、食えよ」
公貴はカレーパン片手に、さっきまで早川先生が座っていた椅子にドサっと腰を下ろした。長い脚を持て余し気味に高く組む。くっきり浮き出た大きな喉仏がやけに生々しい。
…男の子だなあ。
何だかリアルに実感して、ドキドキしながら袋の中を覗き込むと…
「あっ、メロンパンだ!」
思わずはしゃいだ声をあげてしまった。メロンパンは、あたしの大好物だ。公貴と帰ってる途中で、メロンパンの移動販売車を見つけると、つい吸い寄せられてしまう。(※登下校中の買い食いは校則で禁止です)
「ありがと、公貴。でも、また校則破って音楽科に侵入したりして、もう一度反省文書かされても知らないよ?」
「そしたら、花音に代筆頼むし。おまえ、国語得意だろ?ラインで打って送って。丸写しするから」
「何言ってんの!ホントにいい加減なんだからっ!」
悪びれもせず、カレーパンの袋をビリビリと破って、大きな口でかぶりつく公貴を呆れながら見やる。
「いいから、さっさと食えよ。昼休みも終わっちまうし、先生が来ちゃうかもしれないだろ?」
公貴に急かされて、仕方なくピアノの前に座った。…どうか、先生にバレませんように、と祈りながら。
「いただきます」
袋を破って、メロンパンを一口かじった。サクサクしたクッキー生地の表面の歯触りが絶妙。織り込まれたホイップクリームの人なつっこい優しい甘さがふわーっと広がる。口の中いっぱいに幸せな味が満たされると、暗かった気持ちがすぅーっと晴れていった。張り詰めていた顔も自然とほころぶ。
「おいしい。やっぱり、メロンパン最高!」
「だろ?」
公貴は満足そうに笑って、二つ目のカツサンドにかぶりつく。あたしたちはそのまま、とくに何をしゃべるわけでもなく、二人並んでパンを食べ続けた。
ここ、紫苑学院は音楽科・スポーツ科・進学科の三つの科から成る中高一貫校だ。各科は敷地もフェンスで隔てられ、校門もそれぞれ別々で、校則で他科への出入りは禁止されている。
だけど、公貴が音楽科の棟へ侵入してきたのは、実は今回で二度目。一度目も、このレッスン室だった。一年前の春。あたしに気持ちを伝えるために。結局、後からやってきた早川先生に見つかって、即スポーツ科の担任へ報告され、放課後に原稿用紙二枚分も反省文を書かされたらしい。国籍だって立派に日本、十五年間バリバリの日本生まれ、日本育ちのくせに、国語力ゼロの公貴には、拷問だったんだろうなって、気の毒だったけど。
「でも、公貴、突然どうしたの?ここに来たのって、なんか理由があったんじゃない?」
「別に。ただの気まぐれ」
気になって訊いてみたけど、あっさりかわされ、早々と食べ終わったパンの袋を、くしゃくしゃっと丸めた。後ろ向きのまま、背中越しに部屋の隅にあるゴミ箱に向かって放り投げた。綺麗な放物線を描いて、まるで狙い澄ましたようにポンっ!と見事、ゴミ箱にイン。
「ナイス!さすがスリーポイントシューター!」
拍手をすると、公貴はいつものごとく天上から目線の『俺様を誰だと思ってんだ?』と言いたげな顔で立ち上がると、窓際に立った。
「散った桜も、悪くないよな」
窓の向こうに目をやると、中庭には満開を過ぎた桜。幹の下には、落花して一面に覆われた薄紅色の花びらの絨毯。桜は、散ってもなお綺麗だった。その華やかさは、今のあたしには痛いほど眩しすぎた。
弱っていた時に、突然現れた大好きな人。そして、口の中に残るメロンパンの甘さ。桜の美しさ。それらが全て引き金となり、必死でこらえていた糸がプツリと音を立てて切れた。堰を切ったように涙が溢れ出す。慌てて顔を背け、手の甲で涙を拭う。カンのいい公貴のことだ、きっと気づいてるはずなのに、何も言わない。そういう人だ、あたしが好きになった人は。
満開に咲き誇る花ではなく、散った花びらに心を寄せることができる人。見せたくなかった涙に、気付かないふりをしてくれる人。そういう人だから、好きになった。完璧なイケメン王子だから、付き合ったわけじゃない。そういう優しさを持っている人だから、あたしは…
「実はね、ピアノ、不調なんだ」
ポロリ、思わず本音がこぼれた。
「知ってたよ」
サラリと言われ、びっくりして振り向くと、窓に背をもたれ、公貴は静かな眼差しであたしを見つめていた。
「オレさ、ぶっちゃけ、時々、音楽科に侵入してさ、この窓の下に座って、花音のピアノを聴きながら、カレーパン食ってたんだ」
「えっ?」
驚きの余り、食べかけのメロンパンを落としそうになった。
「全然気付かなかったしっ!…ってゆーか、それって、超恥ずかしいんだけどっ!それなら、声かけてくれれば良かったじゃん!」
顔が熱い。気付かないうちにこっそりピアノを聴かれていたなんて、余りにも恥ずかしすぎる!公貴はあたしの動揺ぶりを見て、可笑しそうに唇で笑いを噛み殺す。
「みんなの前じゃ、オレ、いつも自信たっぷりに見せてるけどさ、でも、オレだってスランプぐらい何度もあったさ。イップスにハマって、全くシュートが決まんなくて、どんだけコソ練しまくっても、ぜーんぜん抜け出せなくて、超絶ヘコんでた時期もあったし」
びっくりして、公貴を凝視した。
「えっ?そうだったのっ?全然知らなかった!それなら、そう言ってくれれば良かったのに…もっとあたしのこと、頼りにして欲しかった」
…何だかくやしい。公貴の不調に気付けなかった自分にも腹が立つし、話してくれなかった公貴にも不満を感じる。
「水臭いと言われようが、カッコつけと言われようが、しょうがねえよ。男は厄介なプライドのイキモノだから、陰で苦労してるもんなの。生まれながらの無敵のヒーローなんか、どこにもいねえんだよ」
同じ十五歳とは思えない大人びた顔で、悟ったように言う。ちょっとだけ、公貴が遠く感じた。でも、なぜか悪い気がしなかった。だって、男の子っていうのは、そんな風に時々、ふっと遠くへ行っちゃうものだから。
『涼しい顔で何でも軽々とソツなくこなす、器用で多才な人気者』
きっと学院のみんなは、公貴のことをそう思い込んでいる。勝手なイメージを押し付けて、一方的にねたんだり、ひがんだりしてる人も少なくはないだろう。
でも、ホントは違うんだ。歯を食いしばって闘い続ける汗まみれのヤボな姿は見せないだけで、本当は人の数倍努力している人なんだ。
「なあ、花音、『知音』って言葉知ってるか?音を知る、と書いて知音」
「知音?なに、それ」
唐突に、何の脈絡もなく訊かれ、きょとんと首をかしげる。
「よく心を知り合っている人って意味らしい。『親友』とか、『恋人』とか。…昨日、国語でやった」
「ヘえ、初めて聞いた。ってゆーか、国語が大っ嫌いな公貴が、よくちゃんと授業聞いてたよね?マジびっくりなんだけど」
バスケ少年の本番は放課後。部活に備えて、授業は体力温存の睡眠学習。よって、いつも成績は赤点スレスレ。それでも、バスケ特待生の公貴は、あたしと違って高等部への進学は確約されているワケだけど…
「まあな。知音のエピソードが結構、興味深かったから」
公貴は思い出すように、くっきりとした形の良い二重瞼のチョコレート色の瞳を細めた。
「中国の春秋時代、伯牙という琴の名手がいて、伯牙が演奏すると、親友の鐘子期はその音色から伯牙の心境をピタリと言い当てたんだってさ。例えば伯牙が高い山を想像して琴を演奏すると、鐘子期は『まるで険しくそびえたっている山のイメージだね』って言ったし、伯牙が大河を流れる水を想って弾けば、『洋々と流れる水のようだね』って言ったんだって」
「へえ、すごいね。なんか羨ましいな。そんな風に。自分の音楽を分かってくれる人がそばにいてくれたなんて」
演奏の音色だけで自分の心情を察してくれるなんて、心の底から相手を想い、その人をありのままに理解していなかったらできないことだ。それはもう友情を越える、ゆるぎない強い絆だ。鐘子期の伯牙への親愛の情の深さを感じる。鐘子期のような人がそばにいてくれたら、演奏家にとってそれ以上幸せなことはないだろう。
窓際に佇んでいた公貴は大きなストライドであたしの正面まで来ると、真剣な表情で言った。
「オレだって鐘子期と同じだよ。音楽のことなんて全然分かんねえけどさ、でも花音のピアノを聴いてれば、おまえの心が伝わってくる。…あれ?今日は妙に悲しい音だな。元気なさそうだな。なんかイヤなことでもあったかな?…あれ?今日はヤケにポップな明るい音だな、さてはイイことがあったな…ってな。…花音の音は、オレには分かるよ。伯牙の音を理解する鐘子期にも負けないくらいにな」
公貴は淡いチョコレート色の瞳で、濃く強い想いを必死に訴えてくる。熱い気持ちが込み上げて胸がいっぱいになり、言葉が出てこない。
…あたしにも、鐘子期がいた。あたしの音を、あたしの心を、理解してくれる人が。こんなそばにいてくれたのに、ただ気付いていないだけだった。
たとえ努力が報われなかったとしても、夢を叶えられなかったとしても、たった一人だけ、公貴だけがあたしの音を理解してくれるのなら、それだけでも充分、ピアノを弾き続ける意義はあるのかもしれない。偉い人たちに認めてもらえなくても、公貴だけは聴き続けてくれるのなら、あたしはピアノへの情熱を持ち続けていけるのかもしれない。
「……ありがとう」
声にならない掠れた声で感謝の気持ちに伝えると、再び涙が込み上げてきた。流れ落ちる涙の分だけ、ふっと体内の無駄な重力が抜けていき、体も心も軽くなっていく感じがした。
やおら、公貴は神妙な口ぶりで切り出した。
「でも、この話には続きがあるんだ」
「続きって?」
公貴らしくない、歯切れの悪い口調が引っかかった。
「伯雅はさ、鐘子期が病気で死んじまうと、もう自分の琴を理解してくれる者には出逢えないと悲観して、墓の前で鐘子期を弔う曲を弾いた後、すぐさま潔く琴を破って、弦を断ち切り、生涯もう二度と琴を弾く事はなかったんだってさ」
はっと大きく息を呑んだ。
伯雅の深い悲しみ。嘆き。絶望が自分のことのように溢れだし、その痛みに思わず顔が歪んだ。数千年もはるか昔の異国の人に、こんなにも共感できる自分が不思議だった。
「…伯雅の気持ち、分かる気がするな。鐘子期は伯牙が弾く琴の一番の理解者だったから、伯牙はもう、琴を弾く意義を見つけられなくなっちゃったんだろうね」
音楽は演奏者と聴衆が揃って初めて成り立つもの。聴き手の存在によって、奏でるメロディーは更に色をなし、輝きを増して想いを運ぶ。受け止めてくれる相手がいないと、メロディーは辿り付く先を失い、孤独に色褪せてしまう。だから、最良の聴き手を亡くした伯雅が琴を断ってしまったその気持ちは、分からないわけじゃない。
でも、あたしは…
と、その瞬間、有無を言わせぬ力強く響くバリトンが頭上から降ってきた。
「だけど花音、おまえは何があっても絶対にピアノを弾き続けろよ。ま、オレは鐘子期とは違うから、大事な女を残して、先に死んだりするようなヘマはしねえけどな」
大事な女。
ドキンっと胸が甘く高鳴った。どうして、公貴はこんな風にいつも、こっちがドキっとすることを、サラリとかるーく言っちゃうのかなあ。絶対、確信犯でしょ?
「ねえ、今更だけど、公貴はなんであたしを好きになったの?新入生歓迎コンサートで一目惚れしたなんて言ってたけど、あれ、絶対嘘でしょ?」
「嘘じゃねえよ。タデ食う虫も好き好きって言うじゃん」
「失礼ね!誰がタデだって?」
ギロリと公貴を睨み付けると、そっぽを向き、尻上がりの口笛を吹いてとぼける。
…まったく。
去年の入学式の後に、音楽科主催の新入生歓迎会コンサートがあって、そこであたしはピアノを披露した。コンサートが終わって、音楽科のコンサートホールを出る時、突然、公貴に声をかけられ、コクられたのだ。
「ピアノを弾いてる姿に一目ボレした。オレと付き合って」と。
至近距離に迫るイケメンの圧倒的な迫力に呑み込まれ、あんぐりと口を半開きにして、茫然と立ちすくむあたしに、「返事は、もちろんイエスだろ?」と、強引な誘導尋問に思わず、コクリと頷いていた。
だけど、あたしは、紫苑きってのイケメン王子に一目ボレされるような美人じゃない。そんなの、悲しいくらい自分が一番よーく分かっている。
「とにかく」
自虐と疑惑に満ちたあたしの視線を強い口調が遮った。
「花音はオレが好きになった女だ。花音には才能がある。オレの言葉を信じて、自分の才能も信じて、ピアノがホンモノの夢なら、何が何でもがむしゃらに続けろ。オレだって、絶対バスケ諦めねえから」
まっすぐにあたしを見据えるブレないチョコレート色の瞳が、力強くあたしに言い聞かせる。
…不思議だ、公貴が言うと、なぜかそんな気がしてくる。失いかけていた自信が、泉のようにこんこんと湧き出し始める。
あたしは公貴をまっすぐに見据え、きっぱりと断言した。
「あたし、絶対あきらめない。どんなことがあってもピアノを弾き続ける」
だって、やっぱりあたしはピアノが好きだから。ピアニストになることが、あたしの夢だから。十五歳、勝負はまだまだこれからだよね。
「よし、約束だからな」
バスケットボールも軽く片手で掴めそうなほど大きな手のひらで、ポンポンっとあたしの頭を軽く撫でた。あたたかで優しい手のひら。まるで、無限大のエネルギーが注入されたみたい。希望。活力。自信。キラキラ煌めく奇跡の音色が協奏曲のように七色に絡まり合い、体の奥深くから、新しいメロディーが生まれ始める。
不意に、昼休みが終わる予鈴が鳴り響くと、公貴は慌てた。
「ヤバっ!五限体育じゃん、着替えないと!花音、じゃあオレ行くわ。よーし、めざせ全国優勝!めざせNBA!」
意気揚々と叫ぶと、窓枠に手をかけ、現れた時と同じ軽やかなパフォーマンスでヒラリと飛び越えた。
「あっ!」
何かを思い出したように公貴は叫ぶと、肩越しに振り返った。
「そういえばさ、ガラパ…じゃなくて、国語の先生が言ってたんだけど、昔は『花』といえば桜を指したんだってさ」
「へえ、そうなんだ?」
「ってことは、つまり『花音』って、桜の音って意味だろ?花音は、タデなんかじゃなくて、キレイな桜だよ。知音、オレは花音の本当の音を知ってるよ」
桜のように華やかな胸に染みいる微笑みを残し、薄紅色の花びらに敷き詰められた校庭をあっという間に走り抜けて行った。甘やかな余韻だけを残して。
公貴の残した言葉が、心の中で何度も優しくリフレインする。
『オレは、花音の本当の音を知ってるよ』
知音。
心を知り合い、あたしの音を理解してくれる人。そんな人がいてくれるって、なんて心強いことだろう。
だから、あたしはあきらめない。自分の音を探し求め続けていく。桜の花びらのような音を。そして、いつの日か夢を叶える。
もう一度ピアノの前に座ると、大きく深呼吸をした。気持ちと折り合いがつくと、再びピアノを演奏し始めた。
…違う。
明らかに、今までとははっきりと異なる音色が耳に、心に届く。艶やかで豊かな音の粒を感じる。一粒、一粒の音の結晶たちが自由奔放に舞い踊る。気まぐれに絡まり合っては煌めき、縦横無尽に空を描く。レッスン室いっぱいに、活き活きと躍動する美しい音の色が織りなされ、紡がれてゆく。
ショパン作曲、ポロネーズ第6番変イ長調作品53。通称、『英雄ポロネーズ』
一緒にいて欲しいのは、生まれながらの無敵の英雄じゃない。何度も躓いて、転んで、泥まみれになっても、諦めず何度でも立ち上がり、自分に挑み続ける泥臭い不屈の英雄だ。
だから、そんなたった一人を、この胸に思い浮かべ、心を込めて大切にこの曲を奏でる。
『英雄ポロネーズ』この曲を、あたしだけのかけがえのない英雄に捧げるーー
瞳を閉じて、ピアノの音色に耳を澄ませる。青い月の光に照らされ、満開の桃色の夜桜の下で、一心に琴を奏でる伯雅と、その傍らで伯雅の紡ぎ出す旋律に心を委ねる鐘子期の姿が、脳裏に浮かび上がる。そして、それはやがて、ピアノを弾くあたしと、隣で耳を傾ける公貴のシルエットへと変わっていった。
Side 公貴
チラリ、電光掲示板のタイムに視線を走らせる。
五秒切ってる。ダメだ、ゴール下まで走ってる時間はない。一か八か…
スリーポイントラインの一メートル外側からシュートを放った。
「ピッピーー!」
シュートが決まった瞬間、試合終了のホイッスルが響いた。
カチッ。スコアボードの数字が切り替わる。61対59。ブザービートで逆転勝ちだ。
「ナイッス!公貴!」
「ナイスです!キャプテン!」
…よし、これで関東大会決勝進出だ。ほっと肩で大きく息を吐き出した途端、仲間たちが駆け寄ってきた。ハイタッチやハグを交わしながら喜びを分かち合う。
「ありがとうございました!」
整列をして、挨拶をし、相手チームのキャプテンと握手をすると、ベンチへ戻った。
「おめでとう!さすがキャプテン、最後の最後でよくキメたな!みんなも本当によく頑張った!」
「公貴、やっぱおまえ、すげーよ!マジ最高!」
「キャプテン、超カッコよかったっす!マジシビれました!おめでとうございます!」
監督や控えの部員たちから拍手で迎えられ、祝福と労いの言葉をかけられ、笑顔で応える。
「音楽科のカノジョ、応援に来てんの?」
タオルで汗を拭きながら、冷やかすような目で訊く副キャプテンの純也に、首を横に振る。
「あいつも今日は大事な決戦だから」
…そろそろ、花音も終わった頃か。
「カノジョと、どうやって知り合ったんだよ?同じ紫苑でも、科が違えば別の学校みたいなもんだろ。スポーツ科と音楽科なんて、接点なんてないじゃん。全科合同でやるのは、入学式と卒業式ぐらいしかないしさ」
「卒業式はまだだから、だったら入学式しかねえよな」
「えっ?マジかっ?」
ぎょっとして、興味津々に追及してくる純也を意味深な笑顔で交わし、スポーツドリンクを一気飲みする。タオルで汗を拭きながら、スポーツバッグの中からスマホを取り出した。
『新規メッセージあり』の表示。開くと、花音からラインが来ていた。
『桜、ありがと!超嬉しかった!風流なラブレターのおかげで、今日の選考会頑張れるよ!たまには、ラインじゃなくて、こういうサプライズも嬉しい!でも、桜は折っちゃダメでしょ?(笑)』
靴箱を開けた瞬間、桜の小枝を見つけた時の花音の顔を想像して、小さく笑いながら返信を打った。
『花泥棒は罪にならないって、昔から言うだろ?』
昨日のガラパのウケウリ、そっくりそのままだけど。
今朝、花音の靴箱の中に、こっそりサプライズを仕込んでおいた。
薄桃色の可憐な花を咲かせた一枝の桜。生まれて初めて書いた直筆のラブレターのオプション付きで忍ばせた。…ま、ラブレターって言っても、文章を書くのは超苦手だから、『今日、ガンバレ!』の一言で精いっぱいだったけど。
昨日国語の授業で、ガラパが万葉集だか、古今集だかを教えている時に、言ってたから。
『この時代の人たちは、花を手折って、その小枝に恋文を結んで、好きな人に届けた。特に日本人は昔から桜が大好きだったから、桜の枝が最もよく好まれて使われていたんだ』
だから、オレも昔の人をマネしてみた。
花見にも行けず、頑張ってピアノに励んでいた花音のために、ささやかなサプライズを決行した。校庭の桜の小枝を一本手折って、ルーズリーフにメッセージを書いて、枝に結び付けた。そして、朝イチで音楽科に侵入して、花音の靴箱にこっそり入れておいた。
四分の一、異国の血が混じっているせいで、見た目が日本人離れしているため、ガキの頃から、やたらと奇異の目で見られることが多かった。だから、この狭い島国になんとか溶け込もう、周囲にうまく馴染もうとして、本能的にいっぱしの『日本人』らしく振る舞おうとしてきた。なるべくフツーの日本人らしく。同じ理由で『日本古来のなんちゃら』っていう類のモノにも、漠然とした憧れがあった。だから、今回も古風な演出に興味をソソられて、模倣してみたのだ。
ブルルっ。
手の中のスマホが振動した。花音からラインが返ってきた。
『恋泥棒も罪にならないらしいよ?(笑)選考会終わった!あたし的には、いい演奏ができたと思う。結果は来週。ベルリン行きたいよー!公貴の方は試合どうだった?』
あのネガティブ姫が、いい演奏できたって言うんなら、まあ、大丈夫だろ。まずは、ほっとひと安心だ。
今日は、夏休みのベルリン音楽研修の選考会だ。花音はこの海外研修に全身全霊を賭けて、青春返上で(オレとのデートも返上で)、本気で挑んでいた。なんでそこまでしてベルリンに行きたいんだ?って訊いたら、
「公貴の四分の一のふるさとだからね、行ってみたいの」
なんて、可愛すぎるコトを言っていやがった。(でも、日本生まれの日本育ちのオレは、一度もドイツへ行ったことはなかったりするが)
『良かったな。こっちも勝ったよ』
返信すると、速攻返事が返ってきた。
『おめでとう!さすが公貴!じゃ、週末、久しぶりにデートしよ!公貴の行きたいとこでいいよ。どこに行く?』
お?花音とデートか。めっちゃ久しぶり。最近、あいつピアノばっかだったしな。
なんかウキウキしてきた。よーし、どこ行こっかな…
あっ、そうだ!
とびっきりのイタズラを思いついた小学生の気分でにんまり笑いながら、返信を打った。
Side 花音
『ディズニーランド』
学校からの帰り道、公貴から返ってきたラインを見て、思わず首をかしげた。
「ん?どうしたの?花音ちゃん」
ヴァイオリンケースを持ったのんちゃんが、おっとりした声であたしの顔を覗き込んだ。
「公貴がディズニー行こうって」
「えーっ、いいな!あのイケメン王子とファンタジーの国でデートっ?あたしもお姫様になりたーい!」
アニメキャラに本気で恋する二次元大好き乙女のユッキ―が、フルートケースを振り回しながら悶える。
「あたしはピーターパンになりたーい!大人になんかなりたくなーい!高等部受験のことも、将来のこともなーんにも考えないで、一生楽しくヴァイオリンを弾いて気ままに暮らしたーい!」
「それ、ピーターパンじゃなくて、キリギリスだから!」
三人の中で最もノンキなのんちゃんにすかさずツッコむと、「確かに!」とユッキ―も大笑い。
いつも通り、平和で穏やかな仲良し三人組の下校タイム。あたしたちは三人とも、ベルリン研修の選考試験を終えたばかりだ。
…ユッキ―が言う通り、王子様キャラの公貴には、夢の国がぴったりお似合いかもしれないけど。…でも、意外だった。人ゴミも待つことも大っ嫌いな公貴が、ディズニーに行きたいだなんて。
体の中でディズニーランドの曲が流れ出す。音楽を習うものの習性で、あらゆるイメージは曲と結びついて頭の中で再現されるのだ。体内に血液が巡るように、音符が全身を駆け巡り、流れてゆく。
「世界中どこだって笑いあり…」
『イッツ・ア・スモールワールド』の歌詞を口ずさむ。すると、ユッキ―とのんちゃんも一緒に合わせて歌い出した。ユッキ―は母音がクリアな、よく通るアルトでハモる。のんちゃんは効果音チックに、絶妙なハミングで盛り上げる。鮮やかな即興。こういうとこは、さすが音楽科。
雲一つ泳がない青空の下、つま先上がりの坂道を上りながら、屈託のない歌声が響き渡る。人目も憚らず、公共の道路で堂々とこんな風に歌えるのは、中学生の特権だ。あたしたちはまだピーターパンだ。あと数年もしたら、きっと恥ずかしくて、こんなことできないだろう。
十五歳、つま先立ちの季節。コドモでもなく、オトナでもなく、ナニモノでもない曖昧な、今ぐらいの時季がちょうど心地いい。
チカッ。
不意に、眩しい光が網膜で弾けた。頭の中がハレーションを起こしたように真っ白になる。映画のように一瞬で切り替わる風景。フラッシュバックのようなおぼろげな映像が脳裏をよぎる。
グランドピアノに前に並んで座る小さな二人。一台のピアノを一緒に弾く男の子と女の子。鍵盤から生まれる『イッツ・ア・スモールワールド』
…これは、既視感?
それとも、いつかの想い出?
ポロン、ポロン。奏でられた弦楽器から繊細な音がこぼれ出すように、愛おしいなつかしさが溢れ出す。
遠い記憶が疼く。ずっと昔にも、こんなことがあったような…
思い出そうと記憶の糸を慎重に手繰り寄せてみる。でも、逆光で輪郭が柔らかく白飛びしたように、肝心なところで像がぼやけてしまう。
…う〜ん、なんだったっけ?思い出せないや。
もぎたてのオレンジに思いっきり歯を立てた時のような、新鮮な甘酸っぱい感覚だけが胸を浸していく。
「ねえ花音、のんちゃん、マック寄ってかない?試験終わって、ほっとしたら、なんかお腹空いちゃった!」
「いいね!春限定の三種のベリーシェイク飲みたーい!もちろん、花音ちゃんも行くよね?」
「あ、うん!行く行く!あたしもシェイク飲みたーい!」
頭の中は瞬く間に春めいた桜色のベリーシェイク一色に埋め尽くされた。
登下校中の飲食店への寄り道は禁止。
…っていうのは表向きで、そんなの大半の生徒は守っていない。成長期真っ盛りの十五歳の食欲は、学院長にだって止められないのだ。
ユッキ―とのんちゃんと他愛におしゃべりをしながらマックに向かっているうちに、気が付けば、口の中のホロ苦い甘酸っぱさは、シェイクの甘やかな想像にすっかり塗り替えられ、正体不明のぼんやりとした不思議な面影も吹っ飛んでしまっていた。
エピローグ side 公貴
「あいつ、全然思い出さねえんだもんな。全く、薄情な女」
待ち合わせ時間の五分前。
駅の時計台の下でスマホの画面を見つめていた。
「あんまり可愛かったから、思わず撮っちゃった」
十年前、母さんがこっそり隠し撮りした写真。
ミッキー耳をつけた男の子と、ミニー耳をつけた女の子が一緒にピアノを弾いている後ろ姿の画像。
中学に入って、母さんがスマホを買ってくれた時、渡された待ち受け写真が、既にこれになっていた。…一体、どういうつもりだったのか。当時は思春期の反抗期と羞恥心が相まって、「こうゆうの、マジやめろよな」って噛み付いたけど。
…ま、今となっては、感謝してるけど。
この写真の時のことは、今でもはっきりと覚えている。運動神経と記憶力には絶対的な自信がある。勉強は大っキライだけど、母さん曰く、実はIQの高さだけなら、オレは天才アインシュタインにも負けてないらしい。物理学者になんかなるつもりはサラサラないけど。夢はもちろん、プロバスケットプレーヤーだ。
あの時の約束は、忘れていない。
ミスタッチばかりの、めちゃくちゃなイッツ・ア・スモールワールドを弾き終えた時、あのコはヒマワリのような笑顔で言った。
「こーちゃん、おっきくなったら、いっしょにディズニーランド行こうよ!」
「うん、いいよ!」
「こーちゃん、かのんのミッキーになってくれる?」
「いいよ!じゃ、かのんちゃんは、ぼくのミニーだね」
「うん!かのん、こーちゃんのミニーになる!やくそくね!」
「じゃ、指きりしよ!」
絡めた二つの小さな小指。
結ばれたささやかな約束。
いつの日か再び巡り合えると信じた、キラキラ輝くまぶしい未来。
きっと、あれが初恋だった。
再会するのは、それから十年後。
「ピアノ演奏は、音楽科ピアノ専攻二年、高坂花音!」
去年の入学式後の新入生歓迎会コンサート。
ステージに現れた彼女を見たときー
「ごめーん、公貴!待った?」
水で薄めて描いた水彩画のような、淡いパステルカラーのワンピースを着た彼女が、息を切らして駆けて来た。
ふわり、水色のフレアースカートが、アニメで見た古代船の帆のように春風に大きく孕む。
彼女の頭上に、あの時と同じ、大きな赤いリボンのついたミニー耳が透けて見えた。 (了)